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六本木タイムズスクエアは混雑していた。近隣の住人や買い物客、それにビジネスマンなんかが集まって、雪なんか跡形もなく融けてしまいそうなほどの熱気が窓ガラスを白く曇らせていた。もっとも窓の外の景色はすでにホワイトアウトで真っ白なわけで、あまりの白さに嫌気が差しそうだった。
すごい。この街の一角だけで、これほどたくさんの人が生きているんだ。
ざわめきの止まない館内に踏み込むと、先頭を歩いていた柴井が「あ!」と叫んだ。
「なんだ。みんなも避難してきたの」
声を返したのは浜崎だった。ライブハウス向けの薄着の格好の上に分厚い上着を強引に羽織り、それで辛うじて暖を取っていた。見ると、浜崎の立っているあたりには他にも似たような服装の男女が無数にいて、おれたちは話を聞く前から事情を察してしまった。
「これみんなCORDELⅰAのクリスマスライブの参加者かよ。すごい数だな」
「中止になってみーんな行き場を失ってるけどね」
浜崎は肩をすくめた。「この雪で交通機関も壊滅してるし、CORDELⅰAの二人の身の安全を考えての中止だってさ。私たち観客の安全も考慮に入れた上での判断って言ってたけど、それならもっと早く決断してほしかったな」
「お前ん家、池袋らへんだろ。その気になったら帰る手段はあるんじゃねーの」
「さっき家に電話したら、父さんが車で迎えに来てくれるって言い出したんだけど……」
すでに浜崎は諦め口調になっている。そうか、実家の近い人には自家用車という手段があるんだ。閃いたつもりになったおれだったが、すぐに建物の外を埋め尽くす大渋滞を思い返して、それがあまり意味のない発想だったことに気付かされた。
でも、車で迎えに行こうとする親の心理というのも、決して理解できないものではないと思う。なんたって我が子が雪の中に閉ざされているのだ。それが無謀な挑戦だとしても、救いに行きたいと勇むのはごく自然なことだろう。
ぼうっとしていたら急にスマホが鳴り出した。
なんだ、突然。待ち焦がれていたメッセージの着信ではない。いちおう辺りを気にしつつ、口元を手で覆いながら画面を見ると、そこには八丈島の実家の電話番号が表示されていた。──母さんだった。
「もしもし」
──『優大、そっちは大丈夫なの!』
いきなり電話口で母さんは怒鳴った。その背後から、テレビの速報らしき音声が漏れ聞こえている。画面越しにアナウンサーの呼び掛ける声に、母さんは畳み掛けるように言葉を重ねた。
──『すごい雪でしょ! 停電とかになってるんじゃないでしょうね? スマホで状況はちゃんと確認してるの!?』
「う、うん。おれは……」
──『八丈島でも雪が降ってる。羽田も雪で埋まって大変なことになってるみたいだし、今、私たちは本州の優大のところには駆けつけてあげられない』
電話口でくぐもる母さんの声は切迫していた。『いい。避難所でも何でも頼りなさい。心細くなったら周りの人を頼りなさい。優大はあんまり仲良くできていないのかもしれないけど、クラスメートとか……』
その言葉で、何もできない状況下で母さんがわざわざ電話をかけてきたことの意味に、おれはようやく思い至った。報道を見聞きして、母さんなりにおれの身を案じてくれたのだろう。馴染みのない独りの土地で災害に遭遇してしまったという意味でも、おれが他人を頼るのを苦手としてしまっているという意味でも。
そうだとすればおれのすべきことは、大丈夫だよと電話口に声を吹き込むことに他ならなかった。
「もう避難所にいるんだ。クラスの人たちと一緒にいる。その……クリスマス会、参加してたから」
──『あら、よかった!』
とたんに母さんの声が跳ね上がった。何に対しての“よかった!”なのかは、あえて聞き出さなかった。
代わりに母さんからは、八丈島で知ることのできる本州の現状を一通り聞かせてもらった。一部の地下鉄やJR線、私鉄は、今もラッシュのような勢いで電車を走らせることで線路への積雪を防いでいるらしいが、それ以外の陸上交通は基本的に全滅状態にあった。除雪もまったく間に合わず、道路の混雑と積雪のおかげで緊急車両さえ通れない状況が各地で発生。雪の重みによる家屋の倒壊や雪下ろし中の転落事故で、すでに北関東を中心に三人の死者が出ている。東京をはじめとした関東の一都六県は、すでに救助の需要が消防の対応力を越えてしまい、陸上自衛隊へ災害派遣を要請中だという。
午後六時の時点で、東京都心の積雪は六十センチに達している。
たったこれだけの雪が、三千七百万人の住む首都圏の機能を丸ごと麻痺させてしまったことになる。
電話を切ってから周囲を見回すと、おれたちの避難してきた時よりもさらに人の数が増えていた。みんな、境涯は同じ。未曾有の災害に巻き込まれ、手も足も出なくなってしまった人の群れさえも、今となっては心の安寧の維持に大いに役立っていた。ひとりぼっちでこんな世界にたたずんでいたら吐いてしまいそうだった。
「どうなるんだろうね、これから」
うなだれた浜崎がつぶやいた。「雪は明日までって言ってたけどさ、降った雪がすぐに消えてなくなるわけじゃないし、電車もみんな止まったままだろうし。いつまでここに足止めされんのかな」
「……どうだろな」
柴井が低い声で応じて、それっきり会話は途切れてしまった。誰もが下を向き、スマホや電子端末に視線を逃がしている。不安な時ほど口数は少なくなる。会話に費やすほどのリソースが、脳に残されていないから。
ああ。
こんな時こそ、[ゆう]と話せたら。
“仲良し”のいなかった頃の教室で、おれの話し相手は[ゆう]だけだった。あの子とならいつだって、他愛のない話題で盛り上がって、気を紛らわすことができたのにな。
スマホを起こして、あのSNSを開く。相変わらずメッセージの返信は来ていなかった。そればかりか既読のマークすら表示されていなかった。……とは言え[ゆう]自身、この大雪に見舞われていて返信どころではないのかもしれないし、急かすようなメッセージを追加で送るような発想は頭にも浮かばなかった。
何気なく、彼女のタイムラインが気になった。
こっちの方には何か投稿しているのだろうか。もしもしていたら、おれのメッセージは未読無視していることになるわけだけれど……。ひとまず傷つく覚悟を固めて、彼女のアイコンに指を押し付けてみた。右から出てきた彼女のアカウントのプロフィール画面の下には、タイムラインに投稿された文面や画像が順にずらりと表示された。
最新の投稿は五分前のものだった。おれの予感は当たってしまった。
【頭、痛い】
【いたいよ】
【吐き気が止まんない】
【息詰まりそう】
【くるしい】
この一時間以内だけで、苦痛を訴える悲壮なコメントがいくつも投稿されていた。おれは思わず、目を疑った。
これってもしかして、[ゆう]の病状……?
さらにタイムラインを追ってみる。昨日までの二十三日間、同じような投稿はひとつも見られない。このクリスマスイブに限って投稿されている。理由は一つしか考えられなかった。普段と比べて[ゆう]の症状が悪化している、という……。
いったい[ゆう]の身に何が起きているというのか。
そのとき、初めて声をかけてきた日に[ゆう]の設定した“仲良し”の期限が、急に現実味を帯びた確かなものに感じられてきて、おれは慌てて電話番号の入力画面を開いていた。
[ゆう]。
お前は侑莉なんだよな?
ちゃんと今、あの病院にいるんだよな?
──『どうしたの優大』
電話口から母さんの声がした。人違いでないことを必死に祈って、おれは叫ぶように訊いた。
「むかし幼馴染の侑莉っていただろ。侑莉の親の電話番号、覚えてない?」
小学六年生で同級生になり、ずっと幼馴染みとしての交流のあった、赤羽侑莉。おれと侑莉の仲は浅くもなく、そこまで深くもなかったけれど、母親同士の交流を無視することはできない。案の定、母さんは侑莉の母親の携帯の番号を知っていた。仮に覚えていなくても当時の連絡網を調べてもらえば記載されていただろうが、ともかく母親の番号を手に入れたおれは、その番号をすぐにダイヤルした。
個人情報保護の目的から、病院では電話をかけても入院患者の動向を教えてくれない。直接、本人やその家族、関係者に話を聞くしかないのだ。
数回のコール音を挟み、電話は繋がった。耳に覚えのある声が、おれが名を名乗ったとたん『久しぶりね』と円やかになった。そこには幼馴染みとして六年間をともに過ごした信頼の蓄積があった。その信頼を糧に、おれは侑莉の現況を聞き出すことに成功した。もっと早くこうすればよかったのだと思った。
結論から言うと、侑莉は主治医から一時帰宅許可をもらい、二十三日から自宅に滞在中だった。
そして現在、家には侑莉の他には誰もいないという。父親は職場から帰還できておらず、受話器の向こうの母親は買い出しに出掛けたきり、渋滞に巻き込まれてしまっていた。電話をかけているのも車の中からだった。[ゆう]はこの大雪の中で、ひとりぼっちで家に閉じこもっていたのだ。
侑莉の入院の経緯や理由も聞き出すことができた。端的に言えば、侑莉の入院の原因はアルファベット二文字で表される症状の悪化だった。……いや、それを症状と呼ぶべきかと言われれば、きっと呼ぶべきではないのだろう。おれは正しい表現の仕方を知っていたし、同時に、その表現を使いたくなかった。ひとりぼっちの侑莉に、その残酷な表現はあまりにも似合いすぎていた。
電話を終えたあともしばらく衝撃の重さで口がきけなかった。
六本木タイムズスクエアの混雑は、時間を追うごとにひどくなっていった。
午後六時半。強風が吹き始めたのに合わせて、六本木周辺のほぼ全域で停電が発生した。『TikTak』を襲った停電の比じゃない。ここタイムズスクエアの建物さえ、一瞬、闇に包まれた。すぐに非常用電源が作動して、照明も暖房も復活したけれど。
「港区の西部から渋谷区にかけて全部ブラックアウトだって」
柴井が死んだような声を発していたっけ。「俺の家、やべぇな……」
着雪した送電線に強風が吹き付けると、通常よりも大きな上下の振動が送電線に発生し、電線同士が接触して設備の破損に繋がることがある。ギャロッピングと呼ばれる、大規模停電の原因になりかねない現象だ。港区が停電に陥ったのは、都内西郊の多摩地域に広がる高圧送電網の一部がギャロッピングで破断、その余波が二十三区内にまで及んだためだった。
雪中でも目立つ真っ赤な服の消防隊員たちに伴われて、さらに多くの人々が猛烈な吹雪のなかを避難してきた。
場所を譲るように言われて、おれたちが少し奥の空間に引っ込むと、そこへ全身雪まみれのコートに包まれた家族連れやカップルがぐったりと座り込んだ。おれや柴井や浜崎は、ただ、互いの疲れきった顔を見合わせて、不安や恐怖を共有することしかできなかった。
抱き合って再会を喜んでいる夫婦がいる。
わんわんと泣き声を響かせる我が子の手を取って、優しく頭を撫でてあげている母親がいる。
どこかへ電話をかけている兄や姉と、その服の裾を懸命につかむ弟や妹の姿がある。
少ない座席を譲り合う、お年寄りと妊婦の姿がある。カフェの店員たちが温かい飲み物を振る舞って回っている。館内の警備員や警察官と打ち合わせを終えた消防隊員たちが、赤のジャケットを背にしてふたたび、雪の中へと消えてゆく。
無数の人々のドラマが目の前に広がっている。極寒の屋外とはまるで対照的な、肌の触れ合う温もりにあふれた優しい光景。
今のおれには無縁の光景。
そして、家族のいない家で過ごしているはずの侑莉にも、今は無縁の……。
突如としてスマホが鳴き叫んだ。メッセージの着信を告げる、鐘のような鋭い音だった。すぐさまスマホを引っ張り出したおれの目に映ったのは[ゆう]の名前とアイコンと、いたって簡素な短文のメッセージだった。
あいつ、今頃になって……!
一瞬ばかり先行してしまった怒りは、メッセージの文面を読むまでもなく、吹き荒れる嵐に跡形もなく持ち去られた。おれは震える手でスマホを、[ゆう]の送りつけてきたメッセージを握りしめ、立ち尽くした。
【一日早いけど、今までありがとう。
ごめんね。
私のことは、忘れていいよ】




