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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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 夜が来て、朝が来た。たくさんの人が待ち受けていたであろうクリスマスイブの朝は、とんでもない量の積雪とともに幕を開けた。

 テレビの報じる都心の積雪はすでに十八センチ。ほぼ二十四時間にわたって降り続けた雪は、東京の街中を一晩のうちに豪華な砂糖菓子のようにしてしまっていた。しかもこれで終わりではなく、明日──二十五日の昼まで雪は舞い続けるという予報が出ていた。

 一月や二月ならばともかく、今はまだ十二月。異常気象と言って差し支えなかっただろう。

「……早めに出るか」

 窓の外を降りしきる純白の天使を前に、ざらりと不安が胸を撫でた。道路や交通機関が乱れてしまう前に、雨天用の靴を履いて外に出ることにした。時刻は午後一時。クリスマス会の集合時間までは二時間半近くの猶予があった。

 家の前の道は雪に埋もれている。島育ちのおれは東京の人間以上に雪に不馴れで、弱い。うっかり滑って転ぶことのないように、乗用車の刻んでいった二本の(わだち)の上を歩いた。ペンギンばりの歩き方になってしまってひどく不格好だった。

 いっぱいの雪で視界が悪い。大きな道に差し掛かると、通行する車はみんなタイヤにチェーンを巻き、青や黄色のフォグランプの光を(きら)めかせている。

 雪、ふかふかだ。

 誰も踏みしめていない場所に足首を突っ込むと、たまらない快感で身体が芯からうずく。すっぽりと足が雪の壁に包まれてしまう感覚がたまらなかった。けれどもいつまでも(たわむ)れているわけにはいかないので、ほどほどに急いで足を運んだ。

 やがて雪煙の向こうに、六本木の駅前の方へ繋がる国道が見えてきて、ひとまずほっと息を漏らした。ここまで来れば、もう迷うことはない。国道の上には高架の高速道路が通っていて、舞い降りる雪に視界が遮られることもなかった。

 国道は大渋滞だった。無数の足跡に踏み荒らされ、でこぼこと固まって歩きづらくなった歩道の上を、おれは目当ての街を目指して黙々と歩き続けた。

 十二月二十四日。

 [ゆう]からの連絡は、まだ、来ていなかった。


 神奈川や埼玉の山間部、それに北関東の一帯には、すでに気象庁によって大雪特別警報が発令されていた。数十年に一度レベルの大雪害が予想され、郊外の方では着々と電車が止まり、高速道路が通行止めになりつつあった。

 もっとも、それは数十センチから数メートルもの積雪のおそれのある地域の話。

 さしもの大雪も首都の熱気には敵わない。排ガスや暖房機の排熱のおかげで、東京は常に周辺よりも高い気温を維持している。降雪量や積雪量も明らかに下がるし、雪国出身の人間が東京の“大雪”を目にしたら、あまりの少なさに笑い出してしまうだろう。

 けれどもその二十センチ程度のわずかな雪が、この街ではあらゆる形で牙をむく。日本の中枢を担うこの巨大都市は、雪害に対してあまりに脆弱すぎるのだ。


 カフェで時間をつぶしている間にも天候は悪化する一方だった。二時間が経ち、いよいよ雪で埋もれ始めた歩道を、おれは『TikTak』へと向かった。気象庁が不要不急の外出を自粛するよう呼び掛けているせいか、それとも初めから自宅でクリスマスを祝うことにしているのか、さすがに歩いている人の姿も少なくなってきた。

「よ」

 店の入り口で待ち受けていた柴井が、呼び止めてくれた。

 他にも何人かの顔が揃っていた。確かに、女子の姿は二人ほどしか見当たらない。そういえば今日、浜崎はCORDELⅰAのライブに行ってるんだったな──。思い出す必要のないことを思い出しつつ、集まったメンバーに控えめな会釈を垂れて、おれは軒の下に収まった。

 どうしよう。

 やっぱり柴井以外の人とはしゃべりづらい。

 いや、そうではない。話しかけ方や話題の紡ぎ方が分からない。互いのことをあまりに知らないと、互いを結びつける適切な話題の見当さえつかなくなってしまうのだ。

「ひでぇ雪だな」

 幸いにも柴井が話しかけてきてくれた。小さく首肯して、「こんなに降るなんて」と答えた。イギリス人ではないけれど、天気の話題は実に安全で便利だと思った。

「日比谷線が止まってるみたいなんだよな。足滑らせた客がホームから落ちたとかで、直通先の路線が運転見合わせてるらしい」

 柴井は腕組みをした。「琴平と新坂と、あと誰だっけ……。とにかく四人くらい遅刻しそうだな。まだ連絡は来てねぇけど」

「すごいな。誰がどこに住んでるのか覚えてるんだ」

「せいぜい路線を知ってるくらいだよ」

 特に感慨を抱いた様子もなく、柴井はスマホに視線を落としてしまった。そうか、おれは他人を恐れているだけではなくて、他人のことを知って恐怖を緩和しようとする努力もしてこなかったんだったな。かつて幼馴染だった頃の侑莉に対してさえ、そうだった。柴井の手の中で天気予報のアプリが展開されるのを眺めながら、“ひとりぼっち”な我が身の実情を少しばかり見つめ直した。

 おいおい、と柴井が唸った。

「大雪警報だってよ、港区」

 見ると、六本木のあるエリアは警報発令対象を示す赤の色に塗り潰されていた。避難勧告も出てるぞと誰かがつぶやいた。

 むろん洪水や津波の警報とは(たち)が違う。しかし響きからして、あまり楽観視していられる状況ではなさそうだった。

「どうするよ柴井」

「予定通りにやったとして、うちら帰れるのかな」

 不安げに詰め寄られた柴井は苦渋の様子で眉根にしわを寄せたが、ここにいるのが最善だよ、と答えた。

「この雪の中を迂闊に移動するのは危険だろ。店も営業してるみたいだし、予約の時間になったら上にあがろう」

 おれが柴井の立場だったとしても同じ決断を下しただろうと思った。道路が渋滞し、地下鉄の一部が動いていない現状、ここから不用意に動くべきではない。何せ避難勧告が出ているレベルなのだ。

 柴井の言葉で冷静になったのか、参加者たちは「それもそうだな」と口々に笑った。おれも場に合わせて、笑ってみた。怖々としていたけれど、たとえそれが作り物の笑顔であっても、雪の降りしきる寒空の下では心が少しだけ温もりを強くした。


 刻一刻と状況は悪くなった。

 四人が遅刻のままクリスマス会が始まり、好きな飲み物を()いで乾杯した直後。六本木の駅を通るもう一方の地下鉄路線が、変電所で起きたトラブルのために運転見合わせに陥った。いよいよすべての交通機関が断絶し、六本木を安全に脱出する手段は雪に奪われてしまった。

 結局、件の四人からは遅刻ではなく【行けない】との連絡が来た。地下鉄の運行再開の目処(めど)は立っておらず、家の方向に帰ることすら叶わないという緊迫した内容の連絡だった。パーティーの場を離れ、彼らの一人と電話で連絡を取った幹事の柴井は、戻ってくるなり開口一番「電話がつながりにくくて声もよく聞こえねぇ」とぼやいていた。

 親交がないとはいえ、クラスメートはクラスメート。無言の時間を作らないようにおれは頑張って立ち回り、柴井以外の話し相手をようやく何人か確保することができた。やってやれないことはないのかもしれない。無様なカタチの自信が胸を膨らませたけれど、時おり負荷のかかりすぎた心に休息を求められて、視線を窓の外に逃がそうとしてしまった。入店した頃には道の反対側に並ぶ雑居ビル群のネオンが見えていたはずが、いつの間にか店の大きな窓は雪で白っぽくなった眼前の空間と、かろうじて建物の一階部分や眼下の歩道を映すばかりになっていた。これ、ホワイトアウトってやつじゃないのか──。ぞっと寒気が走って、慌てて明るい店の中に視線を戻したっけ。

 大量の雪が降り注ぐことで視界が妨げられ、霧に巻かれたような状態に陥ることを、ホワイトアウトと呼ぶ。

「うわ、こんなの初めてだ」

「吹雪いてる時のスキー場みたい!」

 目を背けて逃げ出したおれと引き換えに、クラスメートたちは続々と窓の近くへ群がった。能天気にはしゃいでいるようにも、未知の現象を前にして必死に震えを隠そうと振る舞っているようにも感じられた。

 午後五時には満を辞したようなタイミングで、港区全域に大雪特別警報が発令。同時に避難指示が下された。土砂災害や地震ならばともかく、この都会に雪害で避難指示が下されるだなんて前代未聞の事態だった。けれども誰も避難を始める様子はなく、この街の人間が“警報”や“注意報”の類いにひどく鈍感であることをおれは確信した。まだ故郷の島民の方が敏感に反応するだろうと思った。この程度の騒動で済んだらいいのだけれど……。薄暗くなる一方の外に目を走らせるたび、胸騒ぎが加速した。


 事態が動いたのは午後五時半頃のことだった。

 会のスタートから一時間半が経過、お開きまで残り三十分というところだった。ラストオーダーを取って回っていた柴井が「おーい! まだ俺に注文言ってないやつ!」と叫んだ瞬間、店内の照明がいきなり落ちたのだ。

「うわ!」

「何!?」

 店内に客たちの悲鳴が響き始めた。誰かが窓を指差したので、それに釣られて階下の景色へ目を凝らしてみると、歩道の上に鎮座する茶色の箱に大型のトレーラーが突っ込んでいた。

 事故だった。ホワイトアウトで視界を奪われたのか、それとも路面の氷雪にタイヤを取られたか──。

 この一帯の電線は地中化されていて、地上には茶色い箱形の変圧器だけが表出している。おれは目を見張った。あのトレーラーがぶつかって破壊しているのは、まさか。

「停電です!」

「皆さん、落ち着いてっ」

「おい誰か、ブレーカー確認してきて!」

 懸命に店員が走り回って客をなだめている。おれたちは一様に、顔を見合わせた。

「……えらいことになったな」

 柴井が(うめ)いた。「避難指示出てるんだろ。このままどうにもならなかったら、避難所、移った方がいいかな」

 港区から届いた一斉送信のメールによれば、このあたりの避難先は六本木タイムズスクエアに指定されている。普段なら高速道路の上に高々と摩天楼の偉容を見せつけているはずの六本木タイムズスクエアも、この雪の中ではまったく姿が見えなかった。

 みんなの顔は見る間に曇っていった。

 おれも多分、曇っていたと思う。

 外に出る方が危ないかもしれない。雪だって積もっているし、いつ車が歩道に突っ込んでくるかも分からない。しばらく暗い声の話し合いを続けたが、停電の原因が変圧器の損壊であることを店員が突き止めてしまい、ついに避難以外の選択肢は失われてしまった。幸い、事故の通報を聞き付けた東京消防庁の隊員たちが、ビルの足元まで到着していた。

 うかうかしていると、停電で暖房すら動かない雑居ビルの中に取り残されて夜を迎える羽目になる。結局『TikTak』に残っていた客たちは全員、消防の誘導で六本木タイムズスクエアまで避難することになった。






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