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十二月二十三日。予報通りに朝から降り始めた雪は、瞬く間に六本木の街並みに白い紗幕をかけてしまった。たちまち、高層ビルや高速道路は水墨画のように薄ぼんやりとして、巨体の放つ特有の存在感と圧迫感を失っていった。
すごい。都会に雪が降ると、こんな景色になるのか。
頻度はせいぜい数年に一度、しかも積雪を観測することのない八丈島の雪と比べると、いくぶん都心の雪は姿を拝みやすかった。学校はすでに休みに入っていたが、つい心がざわついて街へ繰り出してしまった。街灯やビルの窓明かりが雪を照らし出して、まるで無数の雪の粒のなかに光源が浮かんでいるようだった。
南岸低気圧の発達がどうとかで、明日や明後日にかけても雪は降り続ける見込みになっていた。それもただ降るばかりでなく、今日から明日にかけては都心でも二十センチ近くの積雪が予想されていた。早々に大雪注意報が発令され、数年に一度の大雪になりそうだとアナウンサーは悲壮な顔付きで警告していたが、おれとしてはクリスマス会が中止にならない程度の雪であればむしろ歓迎だった。雪ふぜいに喜んでしまうあたり、おれもまだまだ、子どもの価値観が抜けきっていないのかもしれない。
しばらく雪の東京を満喫したおれだったが、昼過ぎにはすっかり身体が冷えてしまって、大人しく下宿先のアパートに引き上げることに決めた。街角には指を突っ込める程度の雪が積もり始めていたけれど、誰も雪掻きを始める気配はなく、ただ、天皇誕生日を祝って掲揚されたのであろう国旗が、寒々しく北風に赤色の丸をなびかせていた。
[ゆう]──否、侑莉もまた、雪に包まれたこの景色を眺めていることだろう。あの病院の六階の、緩和ケア病棟の大窓から。
一ヶ月前に出会い、同い年と聞かされた時、おれはてっきり[ゆう]が自分と同じように高校に通っているのだとばかり盲信していた。高校でなくとも高専とか、専門学校とか、なんなら中卒で働いているとか……。入院しているという可能性ばかりは少しも疑っていなかったし、それは決して不自然なことではないはずだった。
[ゆう]には友達がいなかったのではなくて、入院していたためにできなかったのだとしたら?
それならクリスマス会に誘ってくれるような相手がいないのも、日常的な話し相手に飢えていたのも、すべて筋の通った一つの原因で結ばれる。。
そうか、だから[ゆう]は自発的に学校の話をしなかったのだ。……思い返せば返すほどに多くの事柄が腑に落ちて、それとともに今頃になるまで気付けなかった自分の鈍感さを呪いたくなった。何気ない学校の話や友達の話をおれがしてしまったばかりに[ゆう]は傷付いていたのかもしれない。悲しんでいたかもしれない。偉そうに“仲良し”を自負していながら、おれはそのことに気付いてすらいなかったのだ。
「……あいつ、ほんとに返信しない気なのかな」
真っ暗なスマホの画面を見つめ、つぶやいた。あれ以来[ゆう]からの応答はまったく途絶えていた。今、あの子がどこで何をしているのか、おれに知るすべはない。──すると不意に着信を告げる青色のランプが輝いた。一瞬、期待をかけてしまったが、届いたのは明日の集合時間と場所を知らせる柴井からのメッセージだった。
おれたちはこのままどうなってしまうのだろう。
不安で、切なくて、そっとスマホを床に伏せた。『ちゃんと伝えないと、そのうち融けて消えちゃうよ。雪みたいにさ』──。なぜかその時、耳元で浜崎の台詞がリフレインした。
四年前。寂しいといって泣きながら小学校を卒業した侑莉は、数日後には飛行機で八丈島を離れ、家族ごと本州へ引っ越していった。
その離島の日。侑莉は親しくしていた近所の子たちに手紙を書いて、ポストに投函している。おれのもとにも届いていた。何となく気恥ずかしくて、何度も読み返すような真似はしなかったけれど、あの手紙は今でもおれの手元に残されているはずだった。
一週間前に見返したばかりの卒業アルバムは、文集もろとも一つの大きなハードカバーに収められている。その奥を探ると、しわだらけの封筒が出てきた。やっぱりここにしまっていたのか。裏に『赤羽侑莉』と記名があるのを確かめ、おれはゆるゆると嘆息した。
[ゆう]が口を閉ざしてしまっている以上、侑莉の真意を知る手掛かりになるものといったら、この手紙くらいしかなかった。
四年もの時が経った今、なぜ侑莉はおれのことを見つけ、声をかけてきたのか。あの時くれた手紙が何かのヒントになりはしないかと、淡い期待を抱いたのだった。
折り畳まれていた手紙を開いて、文を追った。折からの雪景色のおかげで、曇天にもかかわらず部屋の中はそれほど暗くはなかった。
【優大は生まれてこの方ずーっと、わたしのおさななじみだったね。でも、その関係もこれっきり最後になってしまいそうなので、寂しいから手紙を書いてみることにしました】
そんな長めの前置きから文面は始まっていた。丸っこい、いかにも女子らしい字体の並びに、気付けば目が細くなっていた。
小学校での思い出が、しばらく延々と綴られていた。運動会の組体操のこと、音楽の合唱や合奏のこと、普段の授業のこと。よく覚えてるなと感心するほど事細かに記述されていて、正直、読み返しても頭に蘇ってこないような内容の方が大半だった。
侑莉はおれのことを、漠然と“名前通りの優しい人だった”と述懐した。
【優大はよく、ひとりぼっちの人に声をかけて、一緒に何かをやったり話したりしてたよね。わたしも例外じゃなかった。わたしがひとりで本を読んでた時、ひとりで掃除してた時、体育の練習で誰とも組めなくて孤立してた時、いつも声をかけてくれたのは優大だった。覚えてるかな】
覚えてるよ、と口ずさむ。
けれども同時に、それが侑莉の言うような“優しさ”からくる行動ではなかったことも、覚えている。
ひとりぼっちだったとまで言うつもりはないけれど、あの頃から、おれは周囲のクラスメートたちの中で徐々に浮き始めていた。仲良くはできたし、一緒に遊んだりもした。でも、決定的に馴染むことのできない壁のようなものが自分の周りには常に存在していて、そいつの外側にいるクラスメートたちのことをおれは“友達”とは認識できなかった。
もしかすると侑莉も、その“友達”と認識されない仲良しのうちの一人だったのかもしれない。
友達のいなかったおれは、同じように教室のなかでひとりぼっちの時間を過ごしている人のところへ行って、構ってもらうしかなかった。だから声をかけた。侑莉が【優しい】と好意的に評してくれたおれの言動は、実際はその程度の目的のものに過ぎない。だから今、おれはついに周囲から“優しい”なんて評価を受け取ることもなくなって、狭い教室の中で孤立している。
【卒業式の日もそうだったね。優大はやっぱりわたしのところに来て、泣いてたわたしのことをなぐさめてくれた。わたしのこと、ひとりぼっちにしないでくれた】
侑莉はそう続ける。
四年後のおれが何を叫ぼうとも、四年前の侑莉が書き付けた文面を修正することはない。
【わたしね、すっごくうれしかったんだよ。島外に出るのはわたしだけだったし、誰もわたしの悲しみになんて気付いてくれないと思ってた。すぐそばにちゃんと気付いてくれる人がいること、もっと早く知っていたなら、わたしもこんなに悲しい気持ちを高ぶらせずにすんだのかな】
あんなことがしたかった、こんな思い出を作りたかったと、それから数行にわたって侑莉は後悔を綴っている。そして最後に取って付けたような【また会おうね】の一言を最後に、手紙は終わってしまった。まるで、書きかけだったのに途中で書き進められなくなって、強引に終止符を打ち付けたような落ちだった。
外を見れば、しんしんと舞う雪が夕方の東京を白粉のように染め上げている。車の走行音さえ聴こえない静寂の中で、おれはじっとしたまま侑莉の手紙を読みふけっていた。四年前にも読んだはずなのに、文字を追うたびに新鮮な感覚が胸を衝く。新鮮に思えてしまうのは、それだけおれが色んなことを見て、知って、少しばかりオトナに近付いたからか。……それとも小学校の頃の記憶があまりにも遠くなりすぎて、どこか別世界のお伽噺のように思えてしまったからかもしれなかった。
そうか。
侑莉はたくさんの後悔を抱えたまま……。いや、違う。こうして文字に置き換えた無数の後悔を便箋のなかに封じ、島に置き去りにしたんだ。それが侑莉なりの、悲しみとの決別の手段だったのだろう。だからこんなに悔いを書き付けていったのに違いなかった。
侑莉はおれと昔のようにやり直したかったのか?
この手紙から伝わってくる侑莉の本心は、そうではないような気がしてしまう。
頭の隅に大きなクエスチョンマークを残したまま、おれは手紙を元のように折り畳んで、封筒のなかへしまいこもうとした。
ふと、封筒の中が気になった。手紙が上手く入らない。奥で何かに引っ掛かっている。
封筒を逆さに吊り、その尻を指で弾いてみると、原因はすぐに転げ落ちてきた。ルーズリーフの切れ端のような、小さな小さな紙。四年前には気付かなかったそれを、おれは何気なく広げてみた。
【今度はわたしが優大のそばにいたい】
【優大のことをひとりぼっちにはさせないから】
強い筆跡で殴り書きされた侑莉の文字が、強く甦った既視感とともに、おれの頭を力いっぱい殴り付けてきた。




