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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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01





 生まれてからの十七年間、雪に触れたことがなかった。

 もちろん、写真や動画で見聞きしたことがないわけじゃない。冬場になってテレビをつければ、どこか遠くの山の頂や、どこか北国の静かな街が、粉砂糖みたいな白銀に包まれているのを目にした。むかし暮らしていた町でも、数年に一度くらいの頻度で、雪の舞っている光景を拝むことはできた。でも、あの白にじかに手で触れ、冷たさを肌に感じたことは、ただの一度も記憶に残っていない。

 いつだったか、そんな話を両親に聞かせたら、

「旅行で北海道に行った時に触ったじゃない」

 といって笑われた。聞けば、それはわずか五歳の時のことなのだそうで、そんなものを覚えているわけがないだろうにと鼻白(はなじろ)んだものだった。……ほんの五年前に過ぎない小学校の頃の記憶さえ、今はピントの外れた写真みたいにかすれ、おぼつかないものになってしまっているというのに。

 五歳も、小学校も、今は遠い昔の出来事。

 忙しない現在(いま)を必死に生きていくうちに、思い出すための引き出しはどんどん失われていく。

 いつか、この街に雪が降り積もるのを目の当たりにして、その冷えきった感覚に触れた時、おれは失ってしまった記憶の引き出しを取り戻して、いつかの懐かしい自分と向き合うことができるんだろうか。……これといって根拠があるわけでもないのに、ビルの谷間に凍てついた色の空が覗くたび、ついつい、そんな虚しい期待を込めて空を見上げてしまうのが、いつしか真冬のおれの日課になった。

 いつも、いつも、たったひとりで。




 十二月一日は曇りの日だった。気象庁に言わせれば“この冬一番”の寒波が早くも流れ込んでいるのだそうで、東京都心の気温はひどく低く、吹き抜ける風は水分を失って乾燥していた。

 今月の十七日と十八日には、二日間に分けて二学期の期末試験が行われる。

「クリスマスが近づいて浮かれるのもいいが、きちんと勉強しなきゃだめだからな」

 帰りのホームルームで先生が釘を刺していたけれど、その言葉がクラスメートたちの心にどれほど深く刺さったのかは定かではなかった。実際、解散したとたん、さっそく真横の席ではクリスマス会とやらの相談が始まったし、クリスマスイブに開催されるバンドか何かのライブの話で盛り上がっている人の姿も見当たった。

 そしてそれらはすべて、ひとりぼっちのおれにはまるで別世界の話に過ぎなかった。

 黙って(かばん)を肩にかけ、教室を抜け出した。土曜日は午前授業なので、校庭にはすでに野球部やサッカー部の部員たちが繰り出していた。喧騒を横目に、校門を出た。

 六本木の駅前の方に建つ超高層ビルが、草地や背の低い建物の向こうにのっそりと(そび)えていた。帰宅しようと思ったら、あのビルの根元に広がる賑やかな地区の横を通らなければならない。きっと今日もクリスマス色の電飾に彩られていることだろうな。ため息をついて、眼下の歩道を睨んだ。こうしていれば沿道のきらびやかな世界を視界に入れないで済むのだった。

「…………」

 黙ったまま、一歩を踏み出す。

 一瞬、陽が差し込んだ。おぼろな色と輝きの太陽は、一年前の自分と何も変わらない姿カタチの影法師を歩道に焼きつけて、すぐに雲の合間へ引っ込んでしまった。


 中学までの十五年間、おれは離島で育った。伊豆諸島のなかで最大の島、八丈島というところだった。どう考えても静岡や神奈川の方が近いのに、行政区分は東京都。島の高校は都立だったし、警察署は警視庁の隷下だったし、住所の冒頭は【東京都八条町】だった。東京といえば摩天楼の林立するコンクリートジャングルというのが世間の共通観念だろうが、我が家を取り囲む“東京”の景色は決してそんなものではなかった。

 離島といっても数千人単位の人口を抱え、定期便の船や飛行機が毎日のように本州との間を往来しているような島だ。決して小さな、怪獣が上陸したら一撃で()ぎ払われてしまうような島じゃない。それでも本州、特に東京の都心なんかと比べれば、生活様式はまるで異なっていた。八丈島の夏は都心ほど湿っていなかったし、冬は都心ほど寒くなかったし、雪なんかもちろん積もるわけがない。十年以上も前、三センチの積雪を観測して大騒ぎになったことがあると聞いたが、それはどうやらおれが三歳の頃の出来事なのだそうだった。

 空港の滑走路かと思うような幅の道路を、無数の車が渋滞を為して走り回る。建ち並ぶビルの高さは首が痛くなるほど大きくて、夜中も灯りが消えない。それに何より、往来する人の数が天と地ほど違う。

 同じ“東京”を名乗る場所から移住してきたとは思えなかった。

 移り住んだのは一年半前、高校に進学した時のことだった。八丈島にも高校はあったのだけれど、事情を抱えていたおれはそこに進学することを選ばず、本州の都立高校を受験して入学した。今は、独り暮らし。家に帰っても誰かが迎えてくれることはない。


 駅前の繁華街をさっさと通り抜け、途中で本屋に立ち寄って時間をつぶしてから、下宿先のアパートに戻ってきた。徒歩二十分ほどの道のりは、考えごとにでも没頭していると瞬く間に過ぎ去ってしまう。たまに歩きながら単語帳をめくって試験勉強に励んだり、二宮金次郎よろしく文庫本を読みふけることもある。無数の人々とすれ違うけれど、ぶつかることさえしなければ、この街の人たちは他人(おれ)に興味を持とうとはしない。一年かけて学んだことだった。

 東京はよそ者だらけの街だ。袖のすり合った程度の人をいちいち気にしていたら、きっとここでは生きていけないのに違いない。

 ……明日、この街に大雪が降ったとして、この街の人たちが降り積もった雪に関心を向けることはあるんだろうか。

 くだらない思考を()ね繰り回しながら家事を片付けていると、例によって時間の感覚なんてものは簡単に失われる。あれは、午後九時を過ぎた頃だっただろうか。風呂上がりの身体に湯気をまといながらぼんやりテレビに視線を放っていると、不意にスマホが鳴き始めた。電話の着信だった。

 表示された名前は【盛岡(もりおか)美穂(みほ)】。八丈島に住まう母さんの携帯電話だった。いったい急に何の用件だろう。つい警戒してしまって、低い声で応じた。

「…………何?」

──『優大(ゆうた)、お正月は帰ってくるの?』

 二ヶ月ぶりに聞く母さんの声は長閑(のどか)だった。なんだ、その話か。拍子抜けしたおれは後ろ手をついて、テレビから剥がした目を夜空に向けた。星空とは似ても似つかない、整然と並ぶ建物の灯りが、家々の向こうに覗いていた。

「帰るよ。去年と同じ」

──『そう、よかった。うちも色々と準備が()るから』

正人(まさと)の勉強は大丈夫そうなの。あいつ、今年は正月とかクリスマスどころじゃないだろ」

 まさか、と母さんは苦笑した。『あの子が大人しく勉強に励むようなタイプじゃないこと、あんたも知ってるでしょ。クリスマスは仲のいい女の子とお出掛けとか何とか、一丁前なこと言ってるわよ』

 仲のいい女の子とお出掛け、か。おれにはそんな時期は一度もなかったな。

 心臓が胸の奥に沈み込むような感覚がして、これはきっと嫉妬の痛みなんだろうな、なんて考えてみた。

 二つ下の弟はおれと違って人気者で、昔から友達も多かった。きっと恋人を作ったことだってあるんだろう。兄貴分のおれに欠けているものを、あの弟はみんな持っている。

──『帰省の飛行機は早めに取っておくのよ。きっと混むだろうから』

 忠告の言葉を挟んだ母さんが、それと、と続けた。『別に無理に帰って来ようとしなくたっていいんだからね。一緒に年越しをしたい人がいるとか何とかで、本州(そっち)で正月を過ごしたいって思うなら、そう伝えておいてくれればいいのよ』

「……いるわけないだろ、そんなの」

──『そう言うと思った。クリスマスはどうするの? 友達と過ごしたりしないの?』

「別に。予定も何も」

──『薄情ねぇ』

 母さんは電話口の向こうで嘆息した。

 たぶん、それは母さんにとって、気に留めるほどの価値もない些細な言葉のつもりだったのだろう。八丈島にいた頃からそうだった。目の前の息子が自分の言葉をどう受け取るのか、母さんはあまり関心を持たない人だった。

「“薄情”ってなんだよ」

 気づけば、むきになって言い返していた。

「おれだって好きで予定のないクリスマスを過ごそうとしてるわけじゃないんだよ。正人と一緒にすんなよな」

──『別に一緒にしようとなんかしてないわよ。予定がないって言うけど、作ろうとしたの? 友達に声かけたの? してないでしょう? あんたは昔からそうやって、他人と真正面から向き合うことをしない子だったんだから』

 母さんの声色は腹が立つほど冷静だった。『もしかしたら一緒に過ごしたいって思ってる子、どこかにいるかもしれないじゃない。そこで諦めるようなら誰も、何も、手に入らないわよ』

「そんなのがいたらおれだって苦労してないんだよ!」

 聞いていたら本当に腹が立ってきて、つい、勢いに任せて口汚く喚いてしまった。

 母さんがおれの私生活の何を知っているというんだ。あの人に──否、おれ以外の人間に、おれの交遊関係を勝手に定義される筋合いはない。おれがクラスの誰とも仲良くしていない、できていないことは、クラスメート全員一致で報告書を書けるほど蓋然性の高い“事実”なのだから。

 必要最低限の会話を除けば、おれは誰にも話しかけないし、クラスメートがおれに話しかけてくることもない。部活には入っていないし、下宿先のアパートに知り合いがいるわけでもないし、街の人と仲良くなったわけでもない。

──『意固地になってないで、彼女の一人くらい見つけてみなさいよ』

 呆れた口調で母さんは言った。むしゃくしゃして、通話を切った。すでに用件は片付いていたからか、かけ直しの電話がかかってくることもなかった。

 それでも腹の虫はなかなか治まらなかった。

 手のひらの上で(ぬく)もったスマホを握り、SNSを起動して、思い付くままに言葉を並べてみた。【ひとりぼっちになんてなりたいわけないだろ】とか、【友達どころか知り合いもいないんだよ】とか、とにかく、表の世界では誰にも叫べないような愚痴を書き付けた。いくら書き立てたところでストレスが発散されるわけではないけれど、闇鍋のようになってしまった感情をこうして言葉に置き換え、整理することは、自分の抱える悲嘆へ向き合うことに大いに役立つのだった。

 時おり思い立って愚痴を垂れるためだけに作ったこのアカウントは、ほんの数えるほどしか閲覧者(フォロワー)がいない。

 吐き出してしまったところで誰の迷惑にもならないだろう。

 送信のボタンを押して、インターネットの海に愚痴を押し出した。それが済むとスマホを放り出して、適当に広げた布団のなかに(くる)まった。自己嫌悪に胸が押し潰されてしまう前に、眠ろう──。やるべき家事を終えているのを確認して、部屋の照明を落とした。

 暗い感情は睡眠で制圧するしかない。

 それがおれなりの、鬱屈した心を持て余した時の対処方法だった。


 この十七年間、友達と呼べるほど親密な関係の存在が、おれの隣にいた(ためし)はなかった。

 ……いや、ゼロだったとまでは言えないのかもしれない。小学校の頃にはそれなりに仲良くしていた子の姿もあったし、ほどほどに付き合いのある幼馴染みだっていた。けれどもその程度の存在など、()()()人なら数えきれないくらい持っているものだろうと思う。血縁以外の他者と仲良くする、触れ合うなんて、どこの誰でも当たり前にやっていること。おれが普通でないことは、他でもないおれ自身が強く自覚していた。

 仕方ないんだ。

 仕方ないじゃないか。

 他人は怖い。触れたその瞬間、まるで雪のように融け落ちて、目の前からいなくなってしまいそうで。──言い換えれば、嫌われたり引かれてしまいそうで。それが怖くて、距離を縮められない。

 母さんの言う通りだった。遠い昔、それこそ記憶に残っていないほどの昔から、おれはどこまでも臆病で、弱くて、引っ込み思案な人間だった。




 着信音で目が覚めた。

 薄目を開けると、すぐ傍らに投げ出したままになっていたスマホの画面が、煌々と点灯していた。表示されている時間は午前0時。普段のおれなら、とうの昔に就寝している時間帯だった。

 こんな深夜に誰だろう。

 手を伸ばしてスマホを拾い上げた。電話やメール、メッセージアプリの着信ではなく、画面にはSNSのダイレクトメッセージの通知を告げる青色のアイコンが輝いていた。例の愚痴用のSNSのものだった。使ったこともない機能だったものだから、なんだか気味が悪くなった。

 けれども、

 【メッセージが届いています】

 ポップアップに浮かんだ文字が、しきりに中身の開封を煽り立てる。「開かないと中身は教えませんよ」と言わんばかりの通知文を前に、言いようのないむず痒さを覚えた。SNSの造形はこういうところが憎たらしいと思った。

 まだ母さんへの憤りが鎮まりきっていなかったせいもあるのか、ぼんやりと身体が熱くなって、タップでSNSを開いてしまった。

 ダイレクトメッセージ機能は画面の右端にある。そこに表示された新規のメッセージ通知を見て、おれは少しの間、呆けたように目を見開いた。そこにはこんな文面が踊っていたのだ。




【わたしと“仲良し”になりませんか?】






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