Loop1 書き出しは『死』から
息が苦しい、眼の奥が熱い、手足がしびれてきた。鬱蒼と茂った森の中、ボロボロになったスーツを着たまま走り続ける。
全身は傷だらけだったが、不思議と痛みはなかった。ただ、生暖かい俺の血液が肌を沿って流れ落ちる。そしてそれに反して体の芯は徐々に冷たくなっていくのがわかった。
死の恐怖が俺の頭の中を支配し、血だらけの足を引きずりながら必死で走る。陽の光をも届かないような深い森の暗闇は、迫り来る自分の死を刻一刻と予感させた。
「☓○※☓○※☓○※!」
深い森の中、野太い男達の声が響いてきた。気味の悪い動物の鳴き声があたりをに響き、心臓が跳ねるように鼓動した。
やつら、追ってきやがった。思考がまどろんでいくのがわかったが、恐怖が俺の足を必死に動かした。
手足の先の感覚がなくなり、頭が徐々に重く感じる。体の芯が冷たくなっていき、視界が暗くなっていく。
どうして、どうしてこんなことになった!!
死にたくない
死にたくない!
死にたくない!!
「君は――だんだ」
「は?」
「だから、君は死んだんだ」
これが、この会話が全ての始まりだった。無限ともいえる物語の始まり、本で言うと最初の1ページ目にあたる。
これに至るまではいつもの日常だった。つまらない、腐った日常だ。
その日も俺は終電まで仕事をして会社を出ると、近所のコンビニで安酒を買い、ゴミ溜めのような部屋でそれをかっくらっていた。いつものように記憶が薄れていって、いつもの陰鬱な朝を迎える――はずだった。
気がつくと俺は果てのない白い世界で突っ立っていた。上下左右、一面の純白。
果ては見えず、ここが部屋なのか、または外なのかわからなかった。
「やぁ気分はどうだい?」
唐突に後ろから若い男の声が聞こえて思わず振り向いた。
男は白のズボンに白いシャツを身にまとい、柔和な表情でこちらを眺めている。
若いようにも老いているようにも見えた、うまく表現はできない、思い出そうとするごとにその印象は変わるような、そんな顔をしていた。
「あの、ここは……?」
男は柔和な表情のまま、俺の問には答えず話し始めた。
「君は物語は好きかい?」
「ジャンルは何でもいい、ヒューマンドラマ、サスペンス、ホラー、何でもいいよ。好きな物語はあるかい?」
「あ、あの――」
呆けて突っ立っている俺を無視して、男は続けた。
「僕はね、物語が大好きなんだ」
「ありとあらゆる物語を読み漁った。およそ人間が紡ぎだした物語、それらすべてをね」
男はこちらには目を向けず、ゆっくりと俺を囲むように歩き始めた。
「書物として出来上がったものだけじゃない。人間が想像しただけ、例えば中学生の『学校にテロリストが攻めてきてそれを颯爽と退治する』という想像だけの物語も、人という種族がおよそ想像したすべての物語を僕はすべて読み解いた」
男は俺の周りを歩みながら品定めするように眺めつつ、ひとりごとのように続けた。
「あの、すみま――」
「でもね。」
俺の言葉を遮り、男は上をむくと大きなため息をついた。
「人という種族の『人生』という物語に匹敵する物語は存在しなかった」
「人生には筋書きはないし、作者の意図もない。僕自身ですら計り知れない人間の魂が己の人生という物語を紡ぎだすんだ」
「僕それに魅せられてね。たとえそれがどんなに素晴らしい人生でも、つまらない人生でも、僕にとっては唯一無二の最高の物語なんだ」
「僕はずっと読者だった。素晴らしい物語に触れ続けるとフッとこんな欲求が生まれたんだ。『僕も物語を紡いでみたい』とね。君を呼んだのもそれが理由かな」
そう言うと男はくすくすと笑い出した。いかれてる、とんだサイコ野郎に捕まってしまったと思った。
俺の頭に浮かぶのは警察――それよりも会社に連絡――いろいろ思うところはあったが、とりあえずここから逃げることだけが第一だ。
「逃げられないよ」
後ずさる俺に対して男は穏やかな口調でそういった。ただその声は恐ろしく冷たく、今まで感じたことのない悪寒が全身を貫いた。こいつは本気で危ないやつだ。
「正確には君の意思を聞くまで、だけどね」
「いやぁすまない、実は僕も期待で興奮してしまっていたんだ、君の気持ちを全く考えていなかった。聞きたいこともあるだろう?とりあえずゆっくり話そう。まぁ掛けてよ」
男が手を差し伸べた先にはテーブルと椅子があった。さっきは何もなかったはずだ。だが、不思議とそのテーブルと椅子は気づいた時にはすでに存在していた。まるでずっと昔からそこにあったように。
俺はおずおずと椅子にかけると、あたりを見回した。一面の純白世界、左右を見渡しても果てはない。ただただ地平線が広がっている。上を見ても真っ白な空が広がっている。いや、空といっていいのかもわからない、まったく色のない世界だった。
ひとつだけはっきりしているのはここは自然のものではない、何か超常の力で作られた世界であるということはなんとなくわかった。本来ならバカバカしいと思うところだが、この無機質で清潔な白い世界は否が応でも俺にそれを肯定させた。
対面に座った男はテーブルの上で両手を組み、微笑をたたえながら俺を見ている。
「まず君からどうぞ、聞きたいことがあるかい?」
「こ、ここはどこなんですか?」
「どこでもないよ、僕がさっき作ったんだ。どこでもよかったんだけど僕は静かで綺麗なところが好きだからね。君がここの名前をつけるかい?」
「あなた誰なんですか?」
「僕には名前がないからねぇ、誰と言われても。好きに呼んでくれていいよ」
男は真剣に答えているようだが、まるで要領を得ない。
「よくわからないんですけど、とりあえず家に帰りたいんですが。明日も仕事があって」
「まだ明日にはなってはいないよ。今は今日さ。仕事は明日なんだろう?」
「いや、そういうのじゃなくて……家に帰りたいんですが」
「帰るって、ここには君の家はないよ。今いったじゃないか、ここはついさっき僕が作ったんだ。名前もないし何もない。君の家なんてあるはずないじゃないか」
男は本当に俺の言っていることがわからないといった顔をしている。
「あの……ほんと、今なら警察も呼ばないんでいいかげんにしてくれますか?」
「良い加減っていわれても難しいなぁ、僕は能動的に人を招くなんて初めてなもので、不手際でもあったかい?」
「あの――ほんとに大概に――」
男は俺の言葉を遮るように大きなため息をつくと、気だるそうに頭を左右に降った。
「もう少し実のある話をしよう。ここがどこだとか、仕事だとか、僕が誰かだとかそれは君に重要な話なのかい?」
男はつまらなそうな顔をすると、能面のようにじっと俺の顔を見つめた。
このわけのわからない状況で精一杯強がっていたが、男のその人を小馬鹿にする言い方が俺は酷く癪に障って、思わず不安と混乱でいっぱいの感情が爆発した。
「さっきからごちゃごちゃと……いいかげんにしろよおい!!」
「すまない、人を招く作法がなってなかったかな?良い加減とは難しいものだね」
その一言で衝動的に勢い良く机をひっくり返した、はずだった。
俺の手は机をすりぬけ空を切った、いや正確にはそこには「机」自体がなくなっていた。
「困るね、少し落ち着いてくれ。どうにも僕に無作法があったみたいだ、すまない」
男は微動だにせず、俺をじっと見つめている。
「かけてくれないか、僕と話をしよう」
男が俺へ座れと促すように手を差し伸ばすと、目下には前にはさっき「消えた」はずの机があった。
心臓の鼓動がじわじわと早くなる。目の前の男はどう見てもただの人間のはずだ。きっと頭のおかしい人間に俺は拉致されたはずだ。ただ、男を見れば見るほど、どうしても人間には思えなくなっていった。まるで人間の形をした『何か』が俺の前にいる気がした。
「順を追って話そう。まず君は死んだんだ」
「は?」
何を言っているんだ。
「だから、君は死んだんだ」
だから何を言ってるんだ。