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 下校途中、駅前の本屋に寄り道してから帰ると、家の前にうちの中学校の制服を着た男子生徒が立っていた。男子生徒は私に気づくと「よお」と大きな声を上げた。周りに顔見知りがいないことを確認してから、「こんばんは、桜庭先輩」と挨拶を返す。


「『りおくん』でいいのに」

「そうもいきません」


 先輩のファンに殺されますから。


「それにしても、久しぶりですね」

「学校でちょいちょいすれ違ってるけど、他人のふりをされる」

「そうでしたっけ?」


 首を傾げながら笑って誤魔化す。

 私の兄、秋彦と桜庭先輩は幼いころからの友人だった。小学校四年生くらいまで、私は兄と一緒に『りおくん』とよく遊んでいた。そんな話は誰にも、美保にさえしたことはないけれど。

『りおくん』は私よりも背が低く、声も小さかった。気弱で泣き虫で、そんな彼を私は少しいじめていたかもしれない。桜庭利雄に飛び蹴りをしたことのある女は私だけだろう。


「秋彦は元気かなと思って」


 家の前に立っていたそう理由を説明した。


「相変わらずですよ」


 馬鹿みたいにぼんやりしています、という意味を込めたつもりだったが、桜庭先輩は深刻に受け止めたらしく「そうか」と顔をしかめた。


「兄に会って行きます?」

「……いや。受験勉強で忙しいだろう?」


 どうだろうか。「自分の身の丈にあった家から近い高校」が志望校の兄はあまり苦労している様子ではない。


「少し話そう。相談があるんだ」

「あの桜庭先輩が、私に?」

「『あの』ってなんだよ」


 桜庭先輩は白い歯を見せて笑う。適度な距離を取って私たちは並んで歩く。桜庭先輩の頭は私よりもずっと高いところにあった。手もごつごつとした大人の男性のものになり始めていた長身な上に筋肉質な体つきは大型の犬、例えばドーベルマンのようだった。

 小学生低学年のころ、私に飛び蹴りをされて泣いてしまった『りおくん』ではないのだと思うと妙な緊張をしてしまう。


「一、二年生に混ざって練習をしていたけど、年が明けたころには引退だ」


 来年の一月からは一足先に高校のチームで練習を始めるのだという。


「俺は、秋彦とサッカーがしたかったな……」


 秋彦もサッカー部だった。桜庭先輩と秋彦は一年生の秋からレギュラーで、二人でチームを引っ張っていくことを期待されていた。でも、兄は私の進学と入れ替わるようにして学校に行かなくなってしまった。いじめが原因だ。


「親友なのに何もしてやれなかった」

「難しいですよ。シャーロックホームズだって事件が起こらないと犯人を捕まえられません」


 桜庭先輩は端正な顔をくしゃくしゃにして笑う。


「千歳は昔から変にクールだった。理屈好きの探偵みたいで」

「変は余計では?」


『ラインいじめ』はテレビやネットでときどき話題になるが、両親と私は兄の変化に気づけなかった。今思うと「元気がないな」と思う場面はあったかもしれない。見えない場所で起こるいじめだから、周囲は気づきにくいのだろうか。

 兄はクラス専用のグループチャットから一人だけ仲間外れにされていたらしい。兄の知らないところで、学校行事の取り決めや放課後の予定が組まれていた。

 いじめの理由は分からない。友達が多く明るい性格の秋彦と「いじめ」という負の単語がどうしても上手く結びつかない。

 幸い秋彦は自殺を考えるほど思い詰めなかった。「転校したい」と父と母に打ち明け、両親は「無理して今の学校に通う必要はない」とすぐに納得した。

 桜庭先輩はしばらく、コーラと間違えてブラックのアイスコーヒーを飲んでしまったような顔をしていた。兄のいじめは、私たち家族にとってはもう終わったできごとだ。でも、彼にとってはまだ未解決の事件なのだろうか。


「そういえば、高校のスポーツ推薦が決まったそうですね」

「どうして知ってるんだ?」

「みんな、桜庭先輩の話をしますから。クリスマスは先輩と過ごしたいと思っている子、多いですよ」

「へえ……そう」


 気のない返事だった。人気者であることを彼はあまり喜んでいないようだ。『りおくん』は人見知りをする男の子だった。見るからに活発そのものの彼から、昔の面影は少しも感じられない。でも、外からは見えないところに『りおくん』は残っているのかもしれない。


「千歳は付き合っている人とかいるの?」

「男の人と私が? まさか」

「好きな人は?」

「いませんいません。いませんってば」


 なぜか念を押して否定してしまった。一日に二度も同じことを聞かれてしまったからかもしれない。


「なら、ちょうどいい」


 桜庭先輩は私の方を向く。端正な顔を私に少し近づけて、唇を動かした。


「俺と嘘の恋人関係になって欲しい」


***


 生粋のインドア派である私と美保はすぐに歩き疲れてしまって、適当なカフェでお茶をすることにした。


「支払いは私が持つよ」


 私は高校に進学してからアルバイトを始めた。中学生のころよりもたくさんの財布にお金が入っていた。「再会を祝って」と温かいカフェラテとレモネードの乾杯をする。


「つまり、桜庭先輩とは好き合って恋人になったわけではないのだよ」


 あのとき、桜庭先輩は私にこう打ち明けた。たかが中学県大会で優勝したくらいで、しかもチームとして戦ってきたのに、自分一人だけちやほやされるのには疲れた。恋人がいるなら、少しはそういうことはなくなるのかもしれない。

 彼の目はどことなく『りおくん』を思い出す弱々しさがあった。隙あらば飛び蹴りをかまそうとする私に「ちーちゃん、やめてよ」と涙ながらに訴える目だ。あのときの罪悪感がこみ上げて来て、「分かりました。私で良ければ」とうなずくしかなかったのである。


「嘘の恋人だから、未練はないってことね」

「そういうこと」


『偏差値六十』の女の子なら、そのチャンスで桜庭先輩を落としに行ったかもしれない。今も昔も、私の偏差値は『三十五』のまま推移しないだ。


「でも、どうして桜庭先輩が私を選んだのかさっぱり分からなかった」


『友達の妹』という条件なら、私以外にもいただろう。むしろ、他校の女の子の方が「嘘」として都合が良いのではないだろうか。


「聞かなかったの?」

「聞いたよ。『たまたま都合が良かったんだ』だってさ」

「そんなこと言われて怒らないなんて」


 美保は笑う。確かに怒っても良かった。でも、桜庭利雄から「たまたま都合が良かったんだ」と言われたら運命的なものを感じてしまっても仕方のないことだ。

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