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コンビニでホットの紅茶を選んでいたら中学のころの親友、鈴鹿美保とばったり会った。ほとんど一年ぶりだ。彼女の手にはレモンのフレーバーウォーターのペットボトルがあった。
「相変わらずだね、美保」
私は笑う。
彼女の顔には相変わらず牛乳瓶の底が二つ並んでいた。「高校デビュー」と称して髪を染めたり、化粧をしたりする女の子が多い中、美保は少しも変化がない。着ているものが地元が誇る有名進学校の制服に変わったくらいだ。
「いい加減、コンタクトレンズにしたらどうだい?」
私の提案に「千歳は牛乳瓶の底を目に入れたいと思うの?」と美保は笑った。変わらない穏やかな笑みだ。
「千歳も全然変わらない」
「どの辺が?」
「髪がぼさぼさなところとか」
「ねぐせが私のファッションなんだ」
「でも、顔のにきびは目立たなくなったね」
「たぶん、青春が終わろうとしてるんだ」
美保は「寒いけど少し歩こうか」と私を散歩に誘ってくれた。コンビニを出ると冷たい風が吹き抜けた。「寒い寒い」と言い合いながら、お互いの近況を報告し合った。美保は漫画を描き続けているのだという。
「プロを目指してる?」
「分からないけど、あわよくばとは思っている」
美保がうらやましい。私には夢らしい夢がない。手に職もない。幼いころは『名探偵』になりたかった。しかし、そんな職業は漫画の世界にしか存在しないのだ。
話題が桜庭利雄に移るのは自然なことだった。彼はサッカーの強豪高校へ進学し、チームのエースとして全国大会に出場した。「あの桜庭利雄と同じ中学校だった」というのは私たちの密かな自慢なのだ。
「どうにも彼はプロチームから声がかかったらしい」
「さすが元カノ。耳が早い」
「未練があるみたいに言ってくれるな」
そう。私は中学時代のほんの一時期、「あの桜庭利雄」と恋人の関係にあった。成瀬千歳と桜庭利雄の組み合わせは、九十五パーセントが平穏でできていた私たちの中学生ライフにおけるちょっとした『ミステリー』だったのである。
***
クラスの『人間偏差値七十』の女の子の首に大きな赤いリボンがあった。ああいうのは校則違反ではないのか、と首を傾げているとノートに絵を描いていた美保が教えてくれた。
「長いマフラーをリボンみたいに巻くのが今のトレンドなのよ」
美保が握る鉛筆は、ふつうの人とは違って切れ味のある線を描く。それが紙の上でいくえにも重なって美しい絵となる。美保の手は絵を描いているとき、獲物を捕らえようとする猫科の動物のように俊敏なのだ。
いいアイディアだと私はうなずく。
「マフラーなら校則違反にならない」
私もマフラーをリボン巻きにしたら、カレシができるだろうか。そんなことを小声で言ってみると、美保は二つの牛乳瓶の底を揺らして笑った。
「信じる者は足元をすくわれる」
美保は鉛筆を置く。彼女の描く猫や犬、外国の有名な俳優はどれも素晴らしい。なのに、彼女は少しも満足した表情を浮かべない。次のページを開く。「漫画は絵が上手いだけではだめ」なのだという。
私は美保の作業の邪魔にならないように読んでいた『高校受験ガイド』の分厚い冊子を机から少し引っ込める。受験生である兄、秋彦のお下がりだ。県内の全ての高校が五十音順に掲載されていて、制服の紹介もされている受験生必読の一冊である。
その『高校受験ガイド』が私の手から離れ、飛び上がる。ゆくえを追うと北島美羽と彼女が率いる数名の『偏差値六十』集団がいた。
「可愛い制服を着ても成瀬さんが可愛くなれるわけではないのよ?」
北島さんはまつげが長くて精巧な人形のような整った顔立ちをしている。母親が女優だったという噂の真偽は分からない。でも、『偏差値七十』の彼女は『六十』たちの中にいても一際目を惹く。
「違うんだ。ほら、特別可愛い制服はあるけど、だいたいの制服は可愛いだろ?」
「まあね」
「だから、私が着ても大丈夫な少しダサめの制服を探している」
「これとかいいんじゃないかしら?」と北島さんが指を差して見せた制服は、確かに地味な土色で形も悪く、お世辞にも可愛いとは言えなかった。
「成瀬さんにぴったりの制服が見つかるといいわね」
北島さんと『偏差値六十』たちがくすくすと笑う。私は『高校受験ガイド』を受け取りながら、「ありがとう」と冷静に対応した。私の反応は退屈なものだったらしい。北島さんはつまらなそうな顔で『高校受験ガイド』を私に返すと、近くの席でスマホを操作しながらおしゃべりを始めた。一つ学年が上の「桜庭利雄」についてだ。
この学校の女子生徒、特に『人間偏差値』の高い女の子の間で、「桜庭利雄」は長い間トレンドだ。桜庭先輩が華麗なボレーシュートで試合の勝利を決めたときから、その人気は続いている。背が高く整った顔立ちをしているというのも、彼の人気を後押しする大きな理由の一つに違いない。
女子生徒たちは「桜庭利雄には年下の恋人らしき人がいる」という最新の情報について話していた。隣町で女の子と歩く桜庭利雄を目撃した人がいるのだ。北島さんが「その女、殺すしかないよね」と言うと、『六十』たちは「みんなでやっつけちゃおう」とカラオケに行く約束をするみたいに言う。
美保の表情が強張っていることに気づいた。彼女は悪気のない悪意というものが苦手なのだ。「場所を移そうか」と私は提案する。彼女は無言でうなずいた。学校指定のバッグに『高校受験ガイド』を入れてチャックを閉める。 席を立ちながら、前髪を分けるふりをしておでこのにきびを触る。また少し成長している。頬は運動部が走ったあとのグラウンドみたいにでこぼこだ。北島さんの肌は滑らかで、顔にはにきびのあとすらないのに。
高校が偏差値でランク付けされているように、教室の中にもそれは存在する。学校行事を仕切ったり、「恋バナ」に花を咲かせたりするクラスの中心的存在を『偏差値六十』とするなら、教室の隅にたまるほこりくらいの存在である私たちは『三十五』だ。
教室を出て図書室を目指す。人気のない廊下で美保が小声で言った。
「桜庭利雄はああいうタイプの女のこと、苦手だと思う。活発に見えるけど奥手そうだし」
「美保は桜庭利雄と面識があるの?」
「え? 顔も知らない」
「顔くらい知ってるだろう」と言うと「知らないって」と美保は私を睨む。そこまでむきになって否定しなくてもいいのに。
「ねえ。千歳は好きな人とかいるの?」
「なんだよやぶから棒に」
「特に理由はないけど、何となく聞いてみた」
「いないよ。あとこういう話はやめよう」
私たちは「恋バナ」をすることはおろか、聞き耳を立てることも許されない。『六十』の彼女たちが「きもい」という言葉のナイフで突き刺しに来るからだ。それに抵抗する権利もない。




