デート
ある土曜日の朝、僕は往来が盛んな暁駅を人の波をかき分けるようにして歩いていた。学校から八駅先にあるこの駅は映画館もありたくさんのショップが入った複合型のビルが何棟も立つ、この辺ではちょっとした都会の場所である。休日ともなると家族連れからカップルなど様々な人が行き交っていた。
僕は母親に頼まれていた買い物を先に済ませようと思っていたので約束の時間よりも早くに来ていた。限定品のスイーツなんてテレビの芸能人が「あーだな、こーだの」聞いてるだけで充分の代物なのに、わざわざそれを自分で口にしたいと思っちゃいけない。何故なら時間と体力を異常に使うからだ。百歩譲って本人がそれを欲しいと思い、自らその苦労を味わい手に入れるなら何も口を挟むことはないが、大体そのようなモノを欲しがる人間は下請けに出す。大体は父親だが、今回は俺に白羽の矢が立ったわけである。
駅前にある広場に出て母手書きのお使いメモとスマホの地図を見ながら大体の場所を把握した。大通りを出て三つ目の信号を左に曲がりそこから二百メートル先にある歩道橋を渡ると、目の前にある芽生ビルの一階にある今年フランスから日本に進出した洋菓子店だ。僕はスマホとメモを仕舞い階段を降りようと噴水の前を通ると、そこにはすでに彼女がいた。
彼女は上が白で下が黒のワンピースを着て、スマホを握りしめながら長い黒髪を前へ垂れさせうつむいていた。僕は少し慌てて腕時計を見るとまだ約束の時間の一時間前だった。
僕は何故彼女がすでにここにいるのかわからず立ち止まっていると、僕の視線に気付いたのか彼女が顔を上げて目が合ってしまった。僕は一瞬目を逸らして気付かないフリをしようとしたが、視線異常のモノが伝わってきたので仕方なく彼女の所まで行った。
「お、おはようございます……」
彼女はいつものように伏し目がちだが彼女なりの満面の笑顔で挨拶をしてきた。
「う、うん」
と僕はまだ状況を飲み込めず少々戸惑いながら言った。
ほんの少しの間、二人の間に沈黙があった後、僕は言った。
「約束って十時だったよね?」
「は、はい。そうです」
彼女は間髪入れずにはっきりと答えた。僕は改めて時計を見直すと、九時を五分ほど過ぎたところだった。彼女の顔を見ると、いつも長い前髪で隠れがちな目と瞳がキラキラと輝いていた。僕はなんと言おうかと悩みながら
「ちょっと早いけど大丈夫だった?」
と言った。
「さ、佐藤くんを待たせちゃいけないと思って……。それに今日はなんだか早く目が覚めちゃって、お弁当もいらないかなって思ったんだけど前から準備してたからそれで作ってきちゃって……。それに電車も遅れちゃうかもしれないし、途中で自転車がパンクしちゃうかもしれないし……。それで、その……早く来ちゃいました……」
彼女は今日のために買ってきたのか、新品のワンピースのフリフリを弄くりながら言った。
「さ、佐藤くんも早く来たんですか……?」
「いや、僕は……」
と言いかけ、僕はこのまま彼女と一緒に頼まれごとを済ませようと思ったがやめた。なんで買ったか、なんて聞かれても答えるのは面倒だし、悪い意味で勘違いされるのも嫌だった。僕はそのまま黙って時計を見て
「行こうか」
と言った。彼女は無言で頷いた。僕は早くこの場から離れたかった。
僕たちは映画館に向かって歩いていた。当初の予定では二回目の上映から見るつもりだったが繰り上げて見ることにした。彼女は相変わらず僕の左斜め後ろをうつむいて歩いていた。
映画館に着くと子ども連れの家族やカップルがチケット売り場に行列をつくっていた。『最後尾はこちら』と書かれたプラカードを持った疲れた顔した男性に先導され最後尾に並んだ。右の壁には今上映している映画のポスターが張っていた。戦車がデカデカと写っている戦争物の洋画やこの間テレビで主役の女優が番宣していたつまらなそうな邦画、子どもに人気のアニメなどがあった。
五分ほど経ったがまだほとんど進んでいない。僕はチラチラと時計を見ていると
「だ、大丈夫ですよ。きっと見れますよ……」
と彼女が少しだけ顔を上げながら言った。ただいつものように前髪を多すぎて顔ははっきりと見えなかった。
別に僕としては『見られる』『見られない』なんてどっちでもよかった。今日見る映画も特別見たいモノでなかった。三日前に彼女が父親から映画の招待券を貰ったので一緒に見ないかと言われたから、何の映画かも聞かずに返事をしただけだった。
僕は『待つ』のが苦手で大っ嫌いだった。自分が欲しいモノを並ぶために待つ、他人に言われて待つ、わけもわからず待つ。様々あるが全て嫌だった。いつ終わるかわからない時を過ごすのはとても疲れる。ジッと後どれくらいで自分の番になるかを計算し、計算し終えると一秒単位で数えて時が過ぎるのを待つ。とても無駄な時間でとても苦痛でとても正気の沙汰とは思えなかった。特にそれを手に入れるために望みを持って待ち続けたのに、手に入れることが出来なかったら――それは僕が抱いた希望を時間が小さなナイフで少しずつ切り取っていくような感覚……。もう何も信じられなくなってしまう。だから僕はあの日を境に待つのが嫌いになった。
「ごめんなさい、私が早く来たばっかりに……」
彼女が俺の顔を見て何かを諭したのか、また謝ってきた。付き合い始めた当初はあまりに何度も謝られるのに違和感を覚えたので「すぐ謝るのはやめてくれ」と言ったのがだが
「わ、わかりました……ごめんなさい……」
と言われ、その後も何度か同じことを繰り返したがすでに癖になっているのか、彼女は今でも僕に謝り続けている。僕ももう何も言わなかった。
十数分後やっと窓口までたどり着いた。窓口の上には大きな電光掲示板があり、そこには各映画名と上映時間が表示されており、その横にはランプで「緑ならまだ人数に余裕がある」「黄色だともうそろそろで一杯」「赤は受付終了」と人数の状況が表示されていた。すでに初回の上映にはいくつか赤ランプが点灯していて僕たちが見る予定の映画は黄色になっていた。
「今日はどの映画をご覧になさいますか?」
受付の女性に言われ僕は「○○です」と答えた。
「学生の方でしたら学生証をご提示してください。その他クーポンや割引券、招待券などがありましたら今ご提示ください。後から変更は出来ません」
そう言われ僕は隣にいる彼女に目で招待券を出すように言った。彼女は右手に持っている弁当が入ってるバスケットを動かしにくそうに揺らしながら、肩に掛けているポーチからチケットを取り出そうとしていた。几帳面な彼女のポーチはキチンと整理整頓されていたが、焦りの余り手で中をごちゃ混ぜにしてしまい、どこにあるのかわからなくなっているようだった。僕はしばらく見て、彼女のバスケットを無言で手に取った。すると彼女は驚いたような顔をしてから
「あ、ありがとうございます……」
と笑顔で言った。僕は「いいよ」と四人分は入りそうなバスケットの重さを確かめながら言った。そう言えばお昼は何も決めていなかったが、強制的にこれをどこかで食べることになりそうだった。僕としては新しい自分に合った店の開拓を見つけるのが趣味なので外食がよかった。しかし今月はあまりに休み時間は暇なので暇潰しアプリを購入していたら小遣いがピンチの状態だったので、ある意味助かったかもしれない。
「あ、あの……その……」
彼女はまだ何か言いたそうにしてモジモジとしていた。僕が「なに?」と言うと
「お、お弁当はサンドイッチと鶏の唐揚げとフルーツの詰め合わせを作ってきました……。」
とまるで百年目の告白みたく振り絞ったかのように言った。
僕は何も言わず頷いた。彼女はまだ何かを説明しているようだったが、隣りから聞こえるカップルの声でかき消されていた。すると
「申し訳ありません」
と彼女とは違う声で謝る声が聞こえた。それは窓口の女性で、受付を終了したという知らせだった。