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歪んだ短編まとめ

係関間人≠人間関係

作者: 三番茶屋

前短編《敗北の神様》読了推奨

 ある日、少年は考えた。

 人が生きていく上で、何かしらの関係性を互いに構築せざるを得ないとして、果たしてそれは一体何故なのだろう、と――人が一人では生きていけないという意味を、真の意味で理解することができなかった彼にとって、それは難問であり難解な疑問であった。

しかし、哲学的な思考はともかく、少年がその答えを得るのに時間はそうかからなかった。

なぜなら、人は一人では生きていけないのだから――それこそが疑問の原点であり、そして、回答の最終地点だった。


 人が生きていく上で必要不可決なものは幾つかあるが、それらのどれを取ってみても、必然的に《他者》が介入してくる。

それもそのはずで、例えばお金について述べるとするならば、日本銀行で発行された紙幣をそのまま直接受け取ることはできず、ましてや現金の配給などあるはずもなく、世間一般的にはそれに見合った労働の対価として支払われるべきものだろう。

つまり、労働そのものに《他者》が介入しているのだから、世間や世界から隔離され、世捨て人よりも世を捨てた一人の人間として生きていくことは不可能ということである。

まぁしかし、その点のみ言ってしまえば、不可能と言い切ることはできまい。

なぜなら、お金を得ることは一人でも可能であるからだ――具体的な例などは省くが、しかし、それが世間から見れば一般的でないことは明確だろう。

 個人がどんな人間関係を築いているのか、そんなことを言及し、深く掘り下げていくつもりは毛頭なく、少年が考えたことはつまり、人間関係とは商売のようなものである、ということだ。

もっともっといやらしく言えば、人間関係なんてものは所詮、損得勘定が行われる程度の安っぽいちんけなものだ――とか何とか、そんなことを公言してしまえば、少年の心の歪みに対する揶揄が今にも飛んできそうなものだけれど、あえてここで開けっぴろげに言うならば、彼は人間関係全てにおいて、打算的に損得を計算している。

馴染み深い友人だろうと、位の高い職場の上司だろうと、少年はその全ておいて、脳内で彼らに価値を付加している。

 その利益と言うと、どうしてか物理的報酬のような聞こえになってしまうかもしれないが、しかし、そうではなく、それが指すものは数え切れない。

精神的に安らぎを得られる人物だっているし、一緒にいるだけで気が楽になれる者もいるだろう、逆に言えば、隣にいると窮屈になってしまうことだってあるだろうし、自分の言いたいことが中々口に出せない状況を作る者もいる――そう考えれば、人間関係は商売同様、損得がはっきりしているに違いない。


 例えば、少年の人間関係を挙げるならば。

 彼は幼馴染でさえ、自分に得がないと判断し関係を絶った。

 例えば、

 彼は上司でさえ、自分に得がないと判断し弾圧した。

 例えば、

 彼はそれまでに仲のよかった者を一定間隔で勘定し直す。

 例えば、

 彼は無価値な者に、時代と流行に合わせて再度価値を付加する。


 誰しもにあることだろうが、少年もまた、彼が築く人間関係をリセットしたり再構築したり、あるいは継続したりと、そんな傍若無人な暴挙に及んでいた。

その理由として、少年は少なくとも賢く生きていたかった。

どれほど底辺に陥ろうが、生きる上で面倒事や厄介事というリスクをできる限り減らし、自分の素養を高めたり視野を拡大させる意味を込めて、人間関係を築きあげてきた。

 しかし、かと言って、少年の人間関係が希薄で浅いというとそうではない。

 浅薄知慮に、あれも駄目これも駄目と関係を断ち切っているというわけではなく、捻くれずに正しく言えば、『選択』しているだけなのである。

それにより、少年が形成する人間関係は平凡を超えた、奇妙と言っても過言ではないくらいの人脈を築いた。

 少年にはない自論を持つ者、少年には思いもつかない発想をする者、一緒にいて居心地がいい同期や自分自身を曝け出すことができる関係性の友人、尊敬でき競い合える仲間、真面目で愛らしい後輩、誰もが憧憬を抱くほどの社会的成功を収めた知人、全国各地に名を馳せた同僚、利他の精神を纏い貧困な世界を飛び回る恩師、専門性を貫き他人が真似ることのできないスペシャリティを身につけた親戚、英才教育を受け有望なる将来に向け発展途上にある弟、一代で築き上げた栄光を鼻高く掲げる父親、見蕩れるほどの端麗な容姿を武器に社会的地位を獲得した母親――彼ら彼女らとの関係性は少年にとって得でしかなく、利益以外の他に何もなく、たとえ多少の損害を被ったとしても維持するべきだと思えてしまうほどの有能な才を持つ者ばかりで、だからこそ、少年は遥か過去の幼少期を回想してみても、人間関係で失敗したことがなかった。

 幼い頃からそうだったと思う。

 気付けば非凡な関係性を建設していたように思う。

 そして気付けば、いつの間にか誰かとの関係を断ち切っていたと思う。

それも極々当然のように、それが当たり前のように、無意味で無価値であると判断したのなら、そうしていた。

 少年にとって、『仲がいいから』という理由で関係を継続させることに飽き飽きとしていた。

知人の話などでよく聞く、『仲がいいけど、あいつのここが駄目』とか『仲はいいんだけど、あいつは嫌なことをしてきたり言ってきたりする』――枕詞のように使われる『仲はいいのだけれど』を聞く度に、彼は馬鹿馬鹿しいと思えるのだ。

 言ってしまえば、『仲良し』はいくらでも形成することができる。

何も自分に損害を及ぼす彼ら彼女らとそれを形成しなくてもよく、利益があるであろう彼ら彼女らと『仲良し』になればいいだけの話であって、きっと、そんな知人がいつまで経っても損切りすることができないのは、馴染みだからとか長い付き合いだからとか、そんな同情のようで惰性のような、「仕方なく」と同じような感覚があるからなのだろう。

そして、やはりそれは、『人は一人では生きていけない』ということに繋がってくる。

だからこそ、その知人は関係を継続させる――何故なら、一人になりたくないから、である。

上辺だろうと、表面だけだろうと、その関係性を維持しなくては孤独に陥ってしまうからである。


 類は友を呼ぶ、という諺があるが、それは強ち間違っていなく、ざっくり言えば、悪い人間は悪い人間としかつるまないのだ。

逆に言えば、善良な人間は善良同士でコミュニティ(或いはコロニー)を形成する傾向があるのだけれど、それは学校生活で誰もが経験のあることだと思う。

明るく活発で活気があり、時にはやんちゃなことをしてみたり、浅はかで馬鹿な行為に及んでみたりする者同士が徒党を組み、逆に、よく言えば生真面目のインドア派は似た者同士で同盟を結ぶだろう――それが意味するのは、「類は友を呼ぶ」であり、或いは、「友は類を呼ぶ」であると少年は考える。

もしくは、「友は類を選ぶ」かもしれないが。

 やはり、人はみな同じような意志と意識を持つ類を好むのだが、それを踏まえて少年の場合、彼はそこに対象の意志や意識レベルなど露ほど考慮していない。

それを酷く表現するならば、彼にとって《他者》の考えなどどうでもよく、そこにあるのは自分にどんな利益をもたらすのか、ということだけである。

 だからこそ、少年が築く人間関係は多種多様、十人十色、千差万別だった。

彼が知る由もない業界人だったり、無知に等しい専門職だったり、彼が持つ領域を超越した遥か彼方の成功者だったり――少年は黒い腹の中で、彼ら彼女らから一つでも多く何かを吸収しようと企んでいた。

なのだから、少年は決して、彼ら彼女らにとっての唯一の存在になりたいわけではなかった。

勿論、そんな彼ら彼女らが少年のことを唯一として捉えてくれるならば、それは望外の喜びと言えようが、何もそれが目的ではなく、あくまで人間性を深くするためだった。


 賢く生きたい。

 大きな器で生きたい。

 大人でありたい。

 落ち着いた格好良い人間でありたい。

 時にはクールに、時には馬鹿をやったりして笑ったり、自分の本当の素を出すことができる人間でありたい。

 そんな、その程度の欲だ。


 少し奇妙な人間関係、人脈を築いている少年だが、思えば、彼は幾つもの仮面を持っている。

 数種類の、いや、何十種類の仮面で自分を取り繕っているように思える。

ある人と遊ぶ時は狐の面を被り、ある人と食事する時は猫の面を被り、またある人には鉄仮面を見せ、またある人にはピエロの面をし、格好をつけたり、可愛い子振ったり、下手糞を演じたり――様々な一面、いや、十、二十の面相を使いこなしてそれを維持している。

 そこで気付くのが、果たしてどれが本当の自分なのか、という問いなのだが、そんなことを自問せずとも答えは明瞭だろう。

『全てが自分である』と、少年は胸を張って言うことができる。

取り繕った自分も演じた自分も、踊ってみせたり転がってみせたりする自分も、全て含めて自分であると、彼は心底認識している。

そう自認した結果、少年がそれを苦に思うことはない。

時たま聞く、「どれが本当の自分かわからない」という相談を持ちかけられた際に、彼はその時、「それはどれが本当の自分かわからないのではなく、どの自分が相手に合うのかがわからない、ということだろう」と答えたことがあった。

さらに、「本当にわらかないのは相手だよ」とさらに追撃したような記憶があったが、果たしてその回答に相談者の悩み事が解決に至ったのかどうかは定かではないけれど、少なくとも、少年は今までの経験を踏まえて導き出した答えだったので、ひねくれ者と言われようが人格破綻者と揶揄されようが、それが正しいものだと信じて止まなかった。

 しかし、少年にも人間らしい一面があった。

人間関係においては鬼のように畜生な暴挙を平然とやってのける彼だったが、情には酷く脆かった。

同情や憐れみといったものを目の前にすると、彼は不安定になる。

少年がこれまでに建設してきた人間関係を鑑み、本来ならば、厄介事に自ら首を突っ込むことはしないのだけれど、しかし、そこに『情』が芽生えてしまった時、彼はそれについつい流されてしまう。

たとえ自身にどんな損害があったとしても、どうしてか助けたくなったり、手を差し伸べたくなってしまうのだった。

勿論、それが孕んだ矛盾を認識している少年だが、きっと彼は思った以上に人間らしく、そして自分で考えている以上に弱い人間なのだろう。

非凡で稀有な関係を建設するのも、それはきっと、本質的なところで実は自分を強く見せたいがためなのかもしれない。

そう言ってしまえば、今までの少年についての前述が百八十度逆転してしまうかもしれないが、まぁ、それは彼にとっても未だ理解していないことなのだから置いておくことにしよう。



 少年は何かになりたいわけではなかった。

 少年は彼ら彼女らにとって唯一無二の存在になりたいわけではなかった。

 何者になりたいわけでもなく、何者になろうとしていたわけでもない。

 人間性の深みを得るべく建設していた関係は、もしかしたら、ただ楽に一人で生きていたかっただけなのかもしれない。

しかし、一人で生きていくには世を捨て切れず、一方的に関係を壊すことがあったとしても、壊されることに怯えていただけなのかもしれない。

 きっといつだって少年は怯えていたのだろう。

 いつ彼ら彼女らから縁を切られるかわからない――だからこそ、少年は常に浅く広い関係性に拘ってきたのかもしれない。


 深く付き合えば付き合うほど、別れが悲しいから。

 信じれば信じるほど、裏切られたときが辛いから――そんな女々しい思考心理を所持していたのかと言えば、そうではないのだろうけれど、しかし、かと言って心まで鬼になったつもりはなかった。


 いつまでも人間だと思い、これからも人間として生きていきたかった。


 けれど。

 けれど。


 学生の頃、担任の教職員に言われたことがあった。

彼はそこはかとなく微笑みながら、それでいてどこか皮肉に、まるで釘を刺すかのようにこんなことを言った。



「君は確かに頭がいい、けれど、君のような高校生は他にいないよ」



 その時、少年は自分が一般からどれほどかけ離れていたのかを知り、そしてそれから、いつにもまして世界を見下すようになった。

世界という世間を見下すようになってしまった。

それもこれも、世間一般から離れた者と関係性を築いていたからなのかもしれないが、それを言うのならやはり、「類は友を呼ぶ」ということになってしまうだろう。

そんなことを言ってしまえば、少年の人間関係に含まれる人物の大半が『世界から外れた者』であるということになってしまうので、それはここで否定しておくとしよう。


 少年は人間関係にこれまで一度たりとも悩んだことがなかった。

自分が築き上げるそれもそうだったし、自然と周囲に輪ができる僥倖のおかげか、切迫することもなかった。

けれど、彼には一つだけ悩みがあった。

唯一、確かにあったそれが未だに解決せず、心のどこかに残滓する――それは彼が覚えている限り、幼少期の頃からだったと思う。


 少年は何者にもなれなかったのである。

 少年が遥か昔に抱いた様々な『将来の夢』、その全てにおいて、彼は何者にもなれていないのである。

 どれだけ稀有な人間関係を築こうとも、

 どれだけ利益のある人間関係を築こうとも、

 どれだけ有能な人間を集めても、

 どれだけ心地良い人間を隣に置いても、

 どれだけ好影響を及ぼす人間の話を聞いても、

 どれだけ視野を拡大させる人間の言葉に耳を傾けても、

 どれだけロジカルな人間と対話しても、

 どれだけ成功を収めた人間の武勇伝を知っても、

 どれだけ専門性に特化した人間の技量を目の当たりにしても、

 どれだけ偉大で尊敬する尊厳のある身内がすぐ近くにいても、

 少年は、

 少年は――


 彼は、決して何者にもなれなかったのである。

 幼い頃に描いた夢の、何一つ叶っていないのだった。

 いや、一つだけ叶ったことがある。

 そう。

 たった一つ、一つだけ叶った夢がある。



 少年はその人間関係の果てに、『神様』になることができた。

 小説という世界で、異常を眼前にしながらも、少年のような異端者と共に外れながらも生きる主人公を描く――そんな『神様』になることができたのだ。

 神様は負けていない。

 神様はまだ敗北していない。

 少年は確かに今、勝ち誇った様子で『神様』になったのだから。


 そう。

 少年の人間関係の最果てには、きっと『神様』が待っている。


 少年と同じような人間関係を形成する主人公を扱って、少年が思い描く舞台の上で踊り、時には笑い時には泣いて、世界の無常さを憂いたり、世界の不合理を嘆いたり、それに対する無力さを呪ったり――そんな世界だけれど、そんな世界だからこそ、少年が描きたい世界だからこそ、それはきっと、やはりすでに彼は『神様』になることができていた。

 少年が幼い頃に書いた作文中にあった、「神様になりたいです」、それはすでにいつの間にか叶っていたのだった。



 そう。


 僕の人間関係で得られたものは、神様になるための方法だった。




あとがき。


 さて、本文中の補完などは毛頭するつもりはありませんが、一つだけ言っておくとするのなら、これは小説であるということです。

フィクションであるかそれともノンフィクションなのか、それは読者諸氏が各々好きなように受け取って下さって構いません。

そもそも、《少年》が作者であるかどうかなんて明記はされていませんし、あ、いやでも、本文最後に《僕》とか言っちゃってますけれど、それはあくまで《少年》としての《僕》であって、《作者》としての《僕》ではないのであしからず。

 さて、今短編で四作目となります。

短編シリーズとしては初となった『歪んだ世界の歪』から思えば、何と言うか、作者自身執筆していて、憂鬱になってきます。

あくまで小説的な内容にしようと心がけていますが、そんなことよりも何より、作者の心の歪みが最大限表現されているようで、こんなものを書き続けていると友達を失くしそうです。

友達どころか、自分すらも見失いそうです。

しかし、運良く(運悪く)私の作品を読んでくださっている方々がいるので、それは望外の喜びと言えます。


 『係関間人≠人間関係』これにて終了です。

非常に読み難い作品でしたでしょう、最後まで目を通してくださった方々には感謝してもしきれません。

短編の割りにはなかなか文字数も多く、改行などで比較的読みやすくしたつもりなのですが、リズムの良い文体を作ることにあくせくしながら執筆した次第であります。

まぁ、結果がこれなのですけれど。

 お知らせではないですが、次回の短編投稿は未定です。

と言いますか、これにて歪んだ短編シリーズは終わりかな、と思えてきました。

と言うのも、作者の心の歪みを表現しきった感があり、以降、もしまた短編を投稿するのなら、普通のストーリーを書こうかなと思っていたりします。

勿論、まだまだ続くんじゃよ、と第五弾があるかもしれませんので、その際はまた読んで頂けると光栄です。

 長くなりましたが、これにてあとがきを終えようと思います。

あとがきのくせに、ブログのような文になってしまいましたが、短編のあとがきくらい許してください、という思いです。

連載完結作品に関してはしっかりあとがきしているつもりなので、きっと大丈夫でしょう。

引き続き、連載中の『パラダイス・ロスト』そして、もはや放置している『神とは人なり!』、また、次回連載予定の『外れた世界で哭女は。』をお楽しみ下さい。

少しでも多くの方の目に留めていただければ幸いです。


それでは。


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