藍に染まる
藍に染まる
廊下には様々な種の生徒たちが放浪している。
ある者はジャージ、ある者は楽器を抱えて。最初の頃は胸に緊張と期待に似た思いを馳せながら向かっていた部活。ただし、長月の中旬になれば、そんな思いは過去の産物となる。
皆がそれぞれ無心になりながら打ち込んでいる時期だ。
美術セットを片手にぶらさげた今野もその一人だった。
三階の一番奥にある未使用の三一二教室の前に、少しだけ息を吐いて入室する。
絵具の匂いが充満した、三階にも関わらず日当たりの悪い部屋は訪問客の大半を不快にさせる。部屋のここの主は相当の変わり者だろうと、予想がすぐについてしまうほどだ。
今野も元は訪問客の一人だが、自分も絵具臭の部屋と言うのを体験している身であったためか。一週間も経たずに慣れてしまった。
今野がこんにちはと挨拶をすると、無造作に跳ねをつけた黒髪の美術室の主が会釈をしたように首を動かす。
これが彼らにとっての部活の始まりの合図だ。
棚から未完成の絵を取り出し、持ってきた美術セットを広げる。
締め切りが神無月に迫った文化祭に提示する絵の一つだ。その中で、真っ白な金魚たちが泳いでいる。背景はまだまだ塗り切れていなく、所々に深い藍色が斑点のように半在している。
もっと薄い青にしたらどうだろうか。
いつの日か、ここの主が今野にそうアドバイスをしてくれた。
濃い藍色は暗く陰鬱なイメージが付き纏うこともあってのことだ。ただ、主がこれを発言したのはそのような理由だけではない。
今野の絵の大半は藍色が占めていたのだ。海や空、猫や人間などの生き物、はたまたワインの色まで……ほとんどが藍色で描かれていた。
今野は黙っていた。
彼女は特別に藍色が好きなわけではない。むしろ透き通るような水色やサファイアのような青色の方が好みで、小物や日用品も大抵はこの色を選ぶ。
そもそも中学校の頃も美術部に入っていたが、ここまで藍色を使用していたことなんてなかった。むしろ藍色は紫と同じぐらい目立たない色だと今野は考えていたほどだ。
でも、この絵は藍色のほうが綺麗か。
主はそう自分で判断してまた作業に戻った。今野もそうするつもりだった。
彼女はパレットの藍色に筆を浸して静かにキャンパスへと色を染めていった。
ふと作業場の主の背中を見る。男性であるにも関わらず、線が細くて折れそうだった。
――壊れそうだ。
彼の背中の代わりに、今野は自分の机に置いてある貝殻をちょんと突っついてみた。
触れた感触がごつごつしていたことに、咄嗟に手を引っ込めてしまった。
* * *
海に行かないか。
文月の頃。期末試験が終わり安心した束の間に美術部の主――もとい部活の顧問から話が上がった。
今野は海が好きだったので、二つ返事で了承した。
泳ぐのは得意では無いが、ただぼんやりと海を眺めながら砂浜を歩いて貝殻を見つけるのは大好きだったからだ。
そういう経緯で、夏休みの三日目。今野と顧問は二人きりで彼のメッキが剥がれかけた赤い軽自動車で海に向かった。
美術部の部員は今野だけだった。今野と顧問が車に乗って海まで走ると聞いて、なにかされそう。と今野の友人は気味悪がった。今野も多少はそう考えて、辞めようかということも頭を過ぎった。
ただ、それは杞憂に過ぎなかった。
スケジュールは淡々と実行されて、廃れた灯台で高いところから海を眺望してスケッチ。そこで弁当を食べた後は、海に行って砂浜を歩く。それは学校の遠足と同じようなものだった。
ここの主はなにを考えているのか、今野にはよく分からなかった。しかし、それは今野以外の生徒や教師も同じことが言えるだろう。
ボサボサの黒髪に曇った眼鏡と焦点が合わない瞳孔。エプロンが白いのも相まってまるで白衣を着ているように見える。一目では、大半の人には実験でいかれてしまったマッドサイエンティストにしか見えないだろう。
今野は彼の授業を持っていないが、話によると顧問の授業は早口で字もあんまり綺麗じゃないうえにテストが難しいと教師としてあるまじき授業を行っていると聞いた。生徒の評判は容姿も相まって非常に悪い。一切、人と目を合わさないという点もマイナスポイントとなっている。
そのようなことが重なった結果、噂も非常に大きい。
特に今野も気になった噂は、彼がいつも描き続けている絵は人物画で、それは彼の昔の恋人だと言うものだ。
真相を確かめるために、顧問が席を外した時を狙って、一度、今野は作業机に置かれた絵をまじまじと見つめたことがあった。
そこに描かれていたのは髪が長く、微笑みを浮かべている女性だった。だけどその瞳は輝きを失っていて、笑みは憐れみを帯びているように見えた。背景には枯れたひまわり畑が一面に広がっていた。
今野は主が戻ってくる前に、そっと席に戻って何事もなく作業を続けた。絵を見たことは誰にも話さなかった。
そういうわけで、今野にとって顧問は特にどうというものではなかった。
それは空気のような存在。いや息をしているかどうかも分からない怪しい存在だった。空気よりは存在があるかもしれないが、それ以上ではなかった。
今野は一人、砂浜で綺麗な貝殻を探してみたが、なかなか見つからなかった。
訪れた海岸は漂流物が至る所に放置されていて、海の色も淀んでいる。夕陽が差し込んだとしてもロマンティックとは程遠かった。
もう行こう。
さっさと歩きだした顧問に、慌てて今野はその後を追おうとした。しかし、今野が履いていたサンダルは走りにくいうえに、ゴミが散漫した砂浜だった。今野はなにかに足を取られて勢いよく膝が地面を殴打した。砂と今野がぶつかる音だったため、さすがに顧問も振りかえって急いで駆け寄って来てきた。
今野が足を取られたのはビニール袋でもなくカップラーメンの容器でもなく尖がった貝殻だった。
行くな、とでも言っているのか。
ごつくて目立たない汚らしい貝殻になんだか腹が立って、今野はそれを掴んだ。海に放りこんでやろうと怒りのままに意気込んでいた。
刹那、今野の目の前に大きな手が差し伸べられた。
大丈夫か。
今野は顔を覗きこまれた。
それは、汚染された海に漂う悲しげな海亀のような瞳だった。
その時、二人の目が会った。
それは最初で最後の見つめ"合い"だった。
しばらくのあいだ、彼と彼女はぼんやりと見つめあっていた。そして恐る恐る、その手を取って今野は立ちあがった。立ち上がると同時にすぐに彼は手を離して早く行こうとまた歩き出した。
去っていこうとする顧問の背中を見つめながら、今野も足元に注意しながら歩きはじめる。
彼女は手の中にあの貝殻があった。お世辞にも綺麗とは言えない図体、大きな凹凸が激しく目立たない貝殻――少し見つめた後、そっとポケットの中に忍ばせて彼女は再び彼の背中を追った。
あの日から一ヶ月近く経った。
今野は顧問と仲良くなったわけではない。この部活がとても好きになったわけでもない。
だけど、今野の絵はあの日から藍色が増えた。
ただ、それだけだった。
今野は貝殻を見つめながら、藍色の絵を描き続けた。
* * *
再び春がやって来た。今野は進級して教室、出席番号、下駄箱など様々な場所が変わった。
四月は変化の時期だと今野は身を持って感じていた。
美術部もその一つだった。日当たり悪い三一二教室から、ニ階の二一三教室に引っ越しとなった。目立たないのは変わりが無かったが、日向がよく差し込むようになって美術部の雰囲気を浄化するような気がしてなんだか今野は落ち着けなかった。顧問も同様らしくわざわざ黒いカーテンを買ってきて、太陽を遮断して活動をするようになった。
もはや何部だか分からなくなった頃、今野にも後輩ができた。
廣田は顔立ちは華やかとは言い難いが、その場にいると場が輝くような存在だった。自らの存在と同じようにキラキラとした絵を描く。
朗らかで礼儀正しくて親しみやすい。引っ込み思案の今野にとってはとても可愛い後輩だった。ただし、廣田は非常に首を突っ込みやすい性格でもあった。
「どうして先輩は藍色の絵を描いているんですか」
「藍色以外にも他の色を使えばいいのに」
「ここは黄色とかがいいんじゃないですか」
最初は可愛いものだと思っていた今野も、鬱陶しいと思い始めるのは遅くはなかった。
それでも、きっと二人だけということもあり、話し相手が欲しいだけなのだろうと、丁寧に返事をするように努めた。
ある日、彼女と食い違った点があり、今野は彼女とは合わないと悟った。その決定打は入部理由にあった。
廣田は顧問に熱を上げていたクチだった。
彼女は、守ってあげたいという雰囲気があったと喜々として語ってくれた。今野も確かに危なっかしい雰囲気ということは分かってはいたが、それは守ってあげたいという感情ではなかった。
そのような経緯で廣田は事あるごとに、先生、先生と無邪気な笑顔で話しかけていた。
主が作業中にも関わらず。それは頻繁なので怒りやしないかと、今野は筆を止め、成り行きを注意して見守ることも少なくなかった。
しかし、驚いたことに。それ以上に主は押しに弱かったのだ。
最初は面倒くさそうに。あるいは戸惑いながらも目を合わせずに話を済ませていたが、廣田の積極的すぎるアプローチに折れたのか、口数が少しずつ増えてきたのだ。
一時期は、授業も冗談を言うようになったという噂が実しやかに流れたほど、廣田の存在は確実に顧問に影響を与えていたのだ。
廣田が楽しそうに話しかける姿を、作業の手を休めて見つめる顧問の姿を見る度に、今野は心の奥が塗りつぶされる感覚が広がった。
それは何色なのか。
怒りの赤、悲しみの青、激情の黄色、嫉妬の緑。どれも合うようで違う。
最終的に浮かぶ色は、やはり藍色だった。
白いスケッチブックに藍色の絵具を直に塗りつける。誰もなにも言わない。
ただ今野は黙々とスケッチブックを藍色に染めあげた。
そして、部室の黒いカーテンが取り除かれた頃、今野は部活を訪れることをやめた。
時々、電車で顧問と廣田が帰るのを見かけたが、なるべく彼らを避けるようにした。少なくとも同じ車両は乗らないと誓った。
そして、二年目の文月。期末テストが全て返却を済ませ、半日授業で終わった日。今野が冷房が効いた電車に乗り込んで発車を待っていると、駆け込みで二人組が乗り込んでくる。
それは顧問と廣田だったため、今野は咄嗟に目を伏せて寝たふりをしていた。
彼らは気づいていないのか。人が少ない電車で喋りはじめた。顧問の声がざらざらと耳についた。低く耳の奥まで響く声。こんなに饒舌な顧問を今野は知らなかった。
海に行かないか。
どこかで聞いたことのある言葉。ふいに目を開けてしまった。
しかし、それは今野に向けられた言葉ではない。
視界に飛び込んできたのは朗らかな笑みを浮かべている廣田だった。
一ヶ月ぶりの顧問は、不自然なほどに口元を緩ませていた。優先席に座った今野には気づいていないようだった。
"藍"に染まる。
音も立てずに心臓も脳の中枢も。全てが藍色に塗りつぶされる。それはそんな感覚に似ていた。
何故、藍色なのか。自分自身に尋ねても、今野から答えは返って来なかった。
彼らが去るまで二駅はあった。それまで今野は目を瞑って、自らが染めた藍色をぼんやりと見つめていた。
* * *
二年目の長月。この時期は文化祭の準備で忙しなく生徒たちは走り出す。
しかし、学園内はすでに別のお祭り騒ぎとなっていた。
葉月の中旬、今野が近くのデッサン教室に足を運び始めた頃、県外の海で二つの亡骸が見つかった。
死因は転落死。灯台近くの駐車場にはには持ち主が消えた赤い軽自動車があった。一つはポニーテールの女子。一つは三十代前半の男性だったと言う。それはどちらも学園内の者だった。
教師と生徒ということもあり、淫らな行為があったのではという噂が瞬く間に学園内に広がり、生徒だけでなくマスコミも好奇な期待を寄せていた。
一方の学校側は面目が立たないため、様々な生徒に事情やアンケートを取り、生徒や顧問の情報や関係の噂などを知りたがった。
今野は特に目をつけられた。特別何をしたわけではないのだが、美術部で二人に両方とも関係があったということで彼女は教師たちの餌食となった。担任にも釘を刺されたため様々なことを聞かれても知らない。よく分からないと答えた。
顧問と廣田の関係が怪しいと思っていたから美術部に行くのをやめたのか。そう聞かれた時には黙っていた。
人の噂も七十五日経ったある放課後、担任が今野に絵を渡してきた。
美術部は事件以来、閉鎖されていたので今野ですら入れなかった。
「今野さんは関係ないのに。酷い話だよね」
担任が気を利かせて、自分の未完成の絵やちょっとした落書きまで全部持ってきてくれた。彼女はありがたく思いながらも、少し困惑してしまった。
確認してみると、一枚だけ。自分の絵では無いものが混ざっていた。
それは顧問が描き続けていた女性の絵だった。名前が描いてなかったから、今野のものだと担任が勘違いしたのだろうか。
改めてみると微笑みは困惑にも見えた。そしてどことなく廣田に似ていなくもない。
――どうしようもない人だけど、守ってあげたい。
これはどうしようもない主に向けられた眼差しだったのだろうか。そんな疑問が今野の中に浮かんだがすぐに消えた。
彼らが亡くなった。
そう聞いた時、今野はどんな思いを寄せていたのか。
実際は、あまり覚えていなかった。前々から部活はもちろん、電車でも会う回数が減っていたから彼らは自然と今野の記憶の中では泡のように消えていった、そんな印象が強かったのだ。
今野は未完成の絵を一枚取り出す。それは灯台の下から見た風景画だった。海の色だけが空白だった。
美術室に最後に行った日に机の上から取った貝殻をポケットの中から取り出す。
長くなった髪をかきあげて耳に押しあてた。ざあ、ざあと波の音が耳の中で木霊する。
「今の描いている絵。海の色は何にするつもりだ」
いつもぼんやりとしていた美術部の主の声がはっきりと聞こえた。
海の帰り道に、車の中で顧問が問いかけてきた声だった。ミラー越しに顧問の目が少しだけ映る光景が目に浮かんだ。
――藍色にしたいです。
青か水色。そう答えようとした。なのに、自分の口から勝手に言葉が滑り出ていたので今野は当惑した。
ふうん、と顧問は考えているようだった。
「今野、海は藍色じゃない。正確には青だけじゃない。緑や黄色など様々な色が混じり合った透明な水なんだ」
――じゃあ、透明で描けってことですか。
そう言うと、そうじゃないとすぐに返って来た。
「だからこそ海を描くのは難しい。でも何色でもなれる。それでも青だ、緑だと断定することはできない」
だったら、どうして……。
その後は言葉にはならずに詰まった。顧問が代わりのようにすぐに言葉を紡いだ。
「色を聞いたかって? ……単なるきまぐれだよ」
その後、顧問も疲れていたのか話はほとんど無かった。
今野も同じように疲労に塗れていたが、なにかが落ち着けずに寝たふりをしていた。ぼんやりとハンドルを見つめている顧問を傍目に藍色を浮かべながら、じっと貝殻を握りしめていた。
藍色は、なんのために生まれたのだろうか。
青は藍より出でて藍より青し。藍からできた青は藍より青かった。虹の藍色は国によっては数えられない。綺麗だけど青とひとくくりにされてしまう。目立つようで目立たない色だ。
それでも、彼女は藍を使った。
そして、彼女の海は藍色だ。
彼女にとっての海の色は緑や黄色、もちろん青もすべてが混ざった末に辿りついた藍色なのだ。
――先生、私にとっての藍色は私です。
――私自身でもあり。
――先生の"瞳"でもあり。
"あい"だったんです。
藍に染まりきったスケッチブックを片手に少女は貝殻をじっと耳に押しあてていた。
彼女の"あい"から流れたものは、やがて海を染めた。
その潮は紛れもなく、彼女の"藍"だった。