多分これは青春のお話である……多分。
羽衣が風に吹かれて飛んできた。
桜の花びらの様な薄紅と、春の薄ぼんやりした空の水色のグラデーション。
夕焼け空を金魚が泳ぐようにふんわりと飛んできたソレは、反射で何気なく捕まえようとした手をかいくぐるように、風の悪戯でいきなり彼の顔にバサッと叩き付けられた。
汗で張り付く――仕方がない、夕方でも空気には熱がこもり、肌は内側からカッカと炙るような熱をはらんでいる――化繊なのか吸水性が低いようだ。化繊ならば羽衣ではあるまい。
「何だコレ」
彼は顔から引き剥がしたソレを首をひねってしげしげ眺める。
透ける美しい生地は光をキラキラ跳ね返すラメ入り。さらさらとなめらかな手触りだ。
ぴらりと薄い生地を広げてみると、洗濯物が風に飛ばされたのだろう、洗い立てと思しき石鹸だか柔軟剤だかが香る。
形は筒状で、おお、コレは、とピンときた。
「ベビードール!」
「ネグリジェよ!」
不意に背中を強かに蹴られた。
彼は思わずよろけて学生カバンを取り落としたが、薄布は死守した。
何をする、と振り返ればクラスメートが腰に手を当てて彼を睨みつけていた。一旦家に帰ったのだろう、私服だ。夏らしくノースリーブにショートパンツ、そして慌ててつっかけてきたのか、服装に見合わぬ可愛くないサンダル。走ってきたのかやや息を弾ませ、肩を上下させている。汗を手の甲でぐいと拭うのが何とも男らしい。
「鴨井? お前は人を叩いたり蹴ったりするのが挨拶と思ってるようだが、人間の挨拶は」
「あんたが人間の常識を語るんじゃないわよ。まず人間としてのマナーを身に付けて出直して来て」
鴨井は諭す彼の言葉を遮って手ぐしを入れた髪をサイドでレースのシュシュで一つに束ね、片眉を跳ね上げた。
「あんたにはデリカシーってものがないの? 人のナイトウェアを公道で平然と広げるな」
「羽衣が降ってきたのかと思った」
彼は無邪気にぴらぴらした布を広げた。鴨井は眉を吊り上げて彼の頭をぺしんと叩いた。
「返せ。それは私のだ」
「え。このスッケスケお前のなのか」
人の話を聞かない男である。鴨井はどうやら洗濯物を追い掛けてきたようだ。
大層衝撃を受けたかおで両手で広げたソレとクラスメートを彼は見比べた。
「このハレンチな薄布を鴨井が毎日着……ぐはっ!?」
鴨井は彼のすねを蹴った。
「返せ」
氷点下の視線で鴨井は彼を見下ろした。
薄布を腹に抱える形でうずくまった彼は悶絶していたので、幸か不幸かその表情は見ていない。
すねはあの弁慶ですら鍛えられなかった場所である。如何な柔道部で打たれ強かろうと、痛い。
が、無駄に打たれ強い無神経男は痛みを逃がして立ち上がった。
ぽん、と鴨井の肩に手を置く。
鴨井がはしたなくメンチを切っても、そのむっつり顔は変わらない。
「鴨井。このナイトウェアはおすすめしない」
真面目な声音にやや鼻白み、鴨井は目に込めた力を少しだけ弱めた。
「何でよ」
「こんな透ける薄布では防御力は皆無。いざという時戦えな……がはっ!?」
彼の鳩尾に掌底突きが決まった。急所に会心の一撃。
会社帰りの通行人達がビクッと肩を揺らして、見てみぬフリで足早に去って行く。
「ナイトウェアだっつってんだろうが。私のベッドは戦場じゃない」
「だが……万一、の、事……が、あったら……」
火事とか、とうずくまってぷるぷる痛みに震える彼は、薄布をしっかと抱き込んで離さない。
お前実はソレうっかり気に入っちゃったんだろ、としか鴨井には見えない。彼女はうずくまる男を見下ろして腕を組んだ。その目は凍てついている。
「とにかく返せ」
「……天女の羽衣の話を知っているか?」
彼はやや青い顔で立ち上がった。痛みが完全に消えたわけではなさそうだが、本当に無駄に耐久性の高い男である。
「あんたの嫁になるのなんてごめんよ」
彼は何やら残念そうに己の手の中の薄布を見る。
「さようなら、羽衣。ハレンチなお前を俺は忘れない」
「寧ろ記憶から消去しなさいよ。後ハレンチ言うな人のナイトウェアに話しかけるな」
彼はまた人の話を聞いていないようで、じっと薄布を見つめている。そして。
「くっ……やっぱり、イヤだ!」
鴨井に背を向けて、唐突に走り出した。
陸上部ではない。彼は柔道部だ。しかし筋肉ダルマというわけでもなく、見た目はひょろい。だが、脱ぐと凄いのだ。体脂肪率が低く、水に浮きにくいので水泳は不得手。だが、走るのは得意である。
あっと言う間にトップスピードに。そして、見る間に小さくなって行く。
鴨井はポカンとして見送った。あまりにも予想外の行動である。
無神経で素っ頓狂な男ではあるが、律儀で根は真面目なハズ、だったのだが。
人のナイトウェアをハレンチだなんだと言いながら持ち逃げするような奴ではなかったはずだ。
しかし現実には持ち去られてしまった。
何があの男を駆り立てたのだ。そんなにハレンチだっただろうか。まあ、透け感はあったが、セクシーというより可愛らしい色合いで……多少ひらひらしてるくらいで、別にそんなに派手な奴じゃないんだけど……いや、だが取り敢えず。
「待ちなさいよ! 私のナイトウェア返せ~!」
ひとまず混乱を脇に振り捨て、鴨井はナイトウェアを取り返すべく、わけのわからぬ逃走をしたクラスメートを追い掛けた。
「こんなハレンチなモノを鴨井に着せるわけにはいかない。風邪だって引きそうだし」
うん、と一人で頷いて納得する男も、多分、何故己がそんな事をするのかわかってはいないのだ。
だが、多分これは青春のお話である。
……多分。




