07:夫の決心
時が止まったような静寂です。さっきまでの弱い風さえも止まってしまい、ただゆったりゆったりと空の雲がたゆたっていて、地に落ちた影が、辺りを暗く隠したり明るくなったり……。
すると妻は突然ハッとした表情をしました……根元の偽物が無いのです。妻は慌てて立ち上がって、よく目を凝らしました。しかし遠くてよく見えないので、小走りで近づいていきました。
……ありません。偽物の宝玉は、忽然とその姿を消しています。
「おい、これを見てみろよ」と、それはいつの間にか駆けつけていた夫の声でした。
妻はその指差す方を見てみますと、偽物を置いておいたすぐ近くに、小さな穴があいています。
「こんな穴、知らないわよ。石を置いた時にも無かったはずよ」
「まさか……」
夫は突然その穴に手を突っ込みました。丁度その大きさは腕がピッタリはまるくらいで、モグラの穴のようにも見えます。
「中が、空洞だ。よし!」
腕を引き抜き、その穴を広げるように土を掘り始めました。すると中は大きな空洞になっていて、地面を伝うようにずっと洞穴の道が出来ていました。
「この中にひそんでいたのか……お前が最初に木に近づいた時には既に居たんだ」
「穴は無かったわ」
「おそらくギリギリまで掘ってあって、お前が木から離れたのを見計らって、手が出るくらいの小さな穴を掘り開けたんだ。それで宝玉を掴み取って……」
隠れている村人や、長老様も、事情が読めてきたのか、もう隠れもせずに、皆が大樹の下に集まりました。
「あの子は……どうなるの?」
妻のその言葉に、誰も返す言葉がありません。結局、石だけ相手に持っていかれて、交換するはずだったのに、子供の姿はどこにも現れません。騙されたのか……後で子供を返してくれるのか……それはあまりに絶望的な希望といえるものでした。もし後で子供を送り返してくれるとしても、賊が宝玉の偽物であることに気付いたら、どうなるでしょう。きっと相手は怒り狂って子供を……。
「私が、行きます」、唐突にそんな声が聞こえ、周りの皆がいっせいに声の方向を向くと、夫が胸に拳を作って、まっすぐに立ち上がっていました。緊張した目には、強い覚悟の意志が感じられました。
「この穴を辿っていけば、賊のいるところへ通じているはず。行きます」
「ウムゥ……穴は一人が通れるだけの広さ、危険ではあるぞ」長老様が仰いました。
「偽物の宝玉なんです。放っておいたら必ずあの子は……殺されてしまいます」
「フム……」長老様は腕組みをして難しい顔をしています。
「それで……一つお願いが……一生のお願いがあります」
「なんじゃ?」
「宝玉を、本物の宝玉を、お渡し頂けないで……しょうか?」
すると長老様は声には出さずとも、恐ろしいほどの鋭い形相で夫を睨みつけました。
「お願いします! もう下手に賊を刺激しては命取りになります! 本物を相手に渡して、ちゃんと相手の条件にしたがって交渉するのです!」
夫があまりに真剣にお願いをするので、長老様はやや深く思案にふけました。腕を組み、うつむいて、ブツブツとなにやら小さな声を漏らして、やがて何か心に固く決めたように頭を上げました。
「やはり駄目じゃ。もし貴様が賊に脅されて、宝玉だけ奪われてしまうことも考え得る」
ここで夫は言葉を挟んで言い返そうと口を開きましたが、すぐに長老様の言葉が重ねて、
「我々も至急、辺りの畑を捜索する。こうして穴を掘っているんだから、出口はさほど遠くではあるまい。二重で探せば、すぐに賊は捕まるじゃろう」
「ウ、ア……はい、分かりました……」
そして妻と共にもう少しだけ穴を大きく開けて、そして夫は頭から突っ込んで穴へと這い込んでいきました。暗い穴の中へと、落ちるように消えていく夫の後姿を、皆で祈るように見守りました。