55:灰色荒野・森林原野
冷気が吹き荒れていました。明るくなって見えてきた空は、曇り雲。雨こそ降っていないものの、風が強く荒れていました。エウムたちは服を三枚にして着込んでいましたが、それでも気温がかなり低いこともあり、骨に沁みるような冷たさです。突っ立っているとあまりの寒さに震えが止まりません。エウムは二人を連れて、足早に改札を出ました。
灰色の野原でした。所々に雑草や、枯れ木が立っていましたが、見渡す限り灰色の台地が、世の果てまで続いているのではと思えるほど広大に広がっています。起伏の無いなだらかな大きな平野が、エウムの気を遠のかせました。白い空と、灰色の大地と、世界がたった二つに……単純に二分されたようなところ。そして、身を切る寒さ。身も心も凍り付きそうな世界でした。
駅のすぐ前には停留所があり、そこには一台のバスが停まっていました。エンジンは掛ってなく、息が止まったように静かに佇んでいるその様子は、まるで朽ちた廃車が放置されているように見えました。車体の、土や埃などの汚れや、とりわけ傷が酷く、車体の胴体に横に長く一本の太い線が彫られていました。何かに引っ掛かって、そのまま走り続けたために、引きずって付いてしまったような、歪んだ傷でした。
エウムはそのバスの方へと向いました。そして入り口に体を半分乗り込ませて、運転席を見ました。厳つい太い腕を組んで、顔にタオルを掛けて眠っている様子の運転手を見て、オズオズと声を掛けました。
「すみません」
「……ん、何だい」
運転手は顔のタオルを取って、眠そうな目でエウムを見ました。
「このバスは、『学校前』という所に停まりますか?」
「ああ、停まるよ。まだ出発しないけど、乗るんだったら乗ってもいいよ」
「あの……それが……お金が無いんです」
「……そりゃかなわんな。お金が無いと乗れないよ」
「その……『学校前』というのは、ここから遠いんですか?」
「歩いていくのは止めたほうがいい。厳しい自然だから、のたれ死んじまうよ」
「そうですか……」
「お嬢ちゃんは、病院の患者か?」
「あたしの……友達を連れていくんです」
「レティス先生のところへか」
「ハイ」
「……ツケ」
「エ?」
「ツケにして、乗せてやってもいいよ。タダってわけにはいかないから、後から支払って欲しいんだけど。とりあえず、乗せてやってもいいよ」
「いいんですか?」
「まあね。何やら事情があるようだし。このまま知らん顔してお嬢ちゃんたちのこと放ったら、先生にメチャメチャ怒られるだろうしね」
そして運転手は親指で後ろを指して、乗りなよと勧められました。エウムは彼の好意に甘え、頭を下げて乗り込みました。運転席と通路を挟んで反対側の先頭の席は折り畳むことが出来、そこは車椅子が固定出来るようになっていました。
「この装置は、先生の要望で付けたんだよ」
そしてその後ろの席にエウムは赤ん坊と座りました。出発はまだ二時間後だというので、鞄を開けました。非常用の食べ物だけは、底の方に深くしまってあったせいか無事でした。袋に入った炒った豆を摘み取ると、口に含んで砕き、また手に出しました。そして赤ん坊に食べさせてあげました。
「ママ、か」
運転手は料金箱に肘をのせて、ごつい体に似合わず懐っこい微笑を浮かべてエウムたちを眺めていました。
「あたしの子供じゃないんですけどね……」
「そうなの。でも、何か、いいママって感じだな。何ていうか……自分が食べるより先に、赤ん坊に食べさせたりとしてるところとかな」
エウムは、はにかみ、顔を傾けました。
…………………………………………
「オシ、じゃあそろそろ出発だな。道が悪いから、車が揺れるから気を付けてな」
乗客が大分乗り、席の大方が埋まったことを確認して、運転手は前を向きました。エンジンを掛け、派手な手さばきでシフトレバーを動かし、大きな揺れを起してバスは動き出しました。道が荒れていることもありましたが、年代ものの車でもあったので、揺れはかなり酷いものでした。ガタガタとまるで地震がずっと起こり続けているような振動が、体を襲ってきます。エウムは赤ん坊をしっかり胸の中に抱きました……前の車椅子は、出発前に何度か設置を確認したので、何とか耐えることを祈りました。
遮るものが無いところだけに、横から吹き付ける風は強く、時に車体が不安定にグラグラと揺れる時さえありました。運転手の上手いハンドルさばきで、傾きかけながらも、スピードを落としたりしながら体勢を整えて、走り続けていました。しかし、寒さがどうしようもありませんでした。暖房は一応効いているようなのですが、力が弱いらしく、外にいるよりは、かろうじて暖か……という感じです。窓の隙間から冷気が入り込んできて、結局は空気が冷めてしまっています。エウムは出来るだけ窓際から離れ、着ていた上着を深く着込んで寒さに耐えました。
バスはどんどん進んでいきます。朝方に出発して、昼過ぎには、丘へと差し掛かりました。駅周辺の荒涼とした風景から変わって、丘には木々が多く生えていました。葉の無い丸坊主の枝ばかりの木々が、道路に沿って生えています。というよりは、木々が道を作っているような感じなのです。バスの通り道だけ木を切り落として、その間を通っている……というような様子で、まるで自然の森の中を走っているような感じです。道はろくに舗装もされていないので、バスは一層激しく、上下に跳ねるように揺れました。あまりの忙しさにエウムはビックリしてしまいましたが、振り返って他の乗客を見ると、存外落ち着いて乗っていたり、中には本を読んでいる人もいて驚かされました。
道は進むにつれて、更に険しくなってきたようです。もはや丘というより、森というべきような木々の生い茂る中へとやってきました。道の両端はまるで壁のように木々が立っているのですが、その景色を見ていて、ふとエウムは気付きました。車が進んでいくにつれて、段々と葉のある木々が姿を現してきたのです。最初は、はげた茶色い枝ばかりだったのが、緑色の葉をつけた瑞々しい樹木が目立ってきました。車は走り続け、やがて夕方頃になると、周りは緑の深い森になっていました。
やがて、太陽が顔を地の下に隠した頃、バスはあるバス停で停まりました。
「『学校前〜』『学校前〜』。……あれ?」
放送を流した後、運転手は後ろを振り返りました。
「お嬢ちゃん、着いたよ!」
「あ、ハイ!」
ボウッとしていて、エウムは慌てて立ち上がりました。ウジカの車椅子の装置を外して、そして運転席の元に行きました。
「とりあえず、ツケってことだから。ちゃんと払ってよ。先生の病院はね、ここを降りて少し先に行くと、脇に広めの道があるから、そこを真っ直ぐ歩いていくと着くから」
「ありがとうございました」
エウムは深く頭を下げ、下車、バスが出発するまで見送りました。酷い揺れだったバスから落ち着いて、辺りを見ると、もう夕闇を通り越して、夜の暗さが落ちていました。バスはもうとっくに、闇の中に隠れてしまいました。生い茂る木々に光は全く無く、黒く厚い壁となって、道の双璧を成しています。かろうじて、すぐ目の前の道の辺りは濃紺を保っていますが、これもすぐ真っ黒に塗り潰されるでしょう。少し先を見れば、もう闇ばかりです。空に、星や月の姿はありません。
そして、日の落ちたことによる……寒さ。急に吹いてきた一陣の風が、エウムの服の裾を舞い上がらせました。それだけで一気に体温が奪われたようで、ガタガタと身を震わせました。暖かい村で育ったエウムにはこの寒さはたまりませんでした。
「は……はやく行こうか」
エウムは自身にも言うように、ウジカたちに声を掛け、車椅子を押して少し早足で向いました。運転手の言っていた通り、少し道を進むと、左手に、森の奥へと続いている広い道がありました。何とも不気味な林道です。幅がとても広く、先ほどのバスでも二台並んで入っていけるほどです。それは、巨大な宇宙の穴を彷彿させられました。何もかも吸い込んでしまうような……そんな深い穴を思わせました。エウムは、風などとはまた別の……凍り付く寒気を感じました。それは緊張も伴っていました。
三人は夜の森の中を歩いていきました。周りに木々が立ち並ぶせいか、風はさほど吹かず、歩く音を聞きながら、無心で進んでいきました。エウムはふと、あの街での金花の家のことを思い出しました。あのトンネルのような廊下と、今歩いている道は少し似ていました。……似ていましたが、あちらは道の先に温かな光を発する出口がありましたが、こちらはただ闇が永遠に続くような道です。時折、森の奥のどこかから、鳥か何か動物の、甲高い鳴き声が響いてきました。しかしそれ以外は何も聞こえない、無音の世界でした。何も見えなく……何も聞こえてこない……。
かろうじて分かる、道の端に立ち並ぶ木々に沿って、少し蛇行しながら、奥へ奥へと歩み続けました。腕の中の赤ん坊が、小刻みに震えているのを感じました。早く……早く行こう……どうか出口は近くにあって欲しい……
暗闇の中では、時間の流れは分かりません。すっかり体は冷え切って、手がかじかんできた頃、前方に……見えました。背の低い建物らしき姿が見えました。それは壁が白いせいか、その存在がはっきりと分かりました。エウムはその姿に勇気付けられて、思わず駆け出してしまいました。森の道を抜けると、大きな原っぱの広場があり、そこを横切って建物のすぐ前へと近付きました。