54:列車内 2
朝日の輝きが地平の端に顔を出して、一時間は経ったでしょうか。まだ早朝といえる時間、客車の扉が開いて出てきたのは、年下と思しきあの少女でした。少女は一瞬、こちらを一瞥しましたが、特に気に留めることなく、そのまま真っ直ぐ歩いていきました。奥の方でガタリという音がして、また戻ってくると手に飲み物の缶を持っていました。また少女はこちらに目を向けましたが、またすぐ目を戻して、元の客車へと行ってしまいました。
それから数時間、何人かの人がエウムの前を通っていきました。エウムたちの姿は周りから随分奇妙に映り、そこを通る度に、目を向けない人は誰もいませんでした。エウムは、そういった人たちを、どうしても自然な目で見ることが出来ませんでした。途中全く駅に止まらなかったこの列車、乗客の“誰か”が、財布や、ウジカにこんなことをしたということになります。目的地で降りるまで、この気持ちのままでいるのは辛いことでしたが、心は半ばむきになっていました。
車内が段々と冷えてきました。三人はより肌をあわせて寄り添い、小刻みに震えながら耐えていました。客車に比べ、エウムたちのいる所は暖房の利きが弱いのでしょう。窓の外の景色を見ると、広い野原の真ん中を列車は走っているようでした。あちこちに見える樹木の葉は多くは枯れていて、寒々しげに吹く風に木々も震えているようでした。都会から随分離れ、荒涼とした灰色の大地が姿を現し、大分北の方に来たみたいでした。
列車が目的地に到着するのは、明日の明け方頃です。エウムは、このまま明日までずっと起きていようと考えていました。今は……お昼を過ぎた頃でしょうか。今日は起きた時間がかなり早かったので、エウムは既に少し眠気を感じていました。何度も目を擦ったり、小さく欠伸をしたり……しかし、ウジカの頭と自身の頭を擦るようにしたりして、何とか眠気を遠ざけようとしました。列車の規則正しい揺れは、エウムを眠りの底へと誘い込む魔力を持っていました。エウムは強く頭を振りました。しかし、時間が経つにつれて、眠気は増すばかりです。やがていつしか、エウムは舟を漕ぎ始めていました。体が斜めに傾き掛けて、ハッと気付いて体を真っ直ぐ起こすのですが、またいずれ……段々と傾いていきます。
「あのう」
小さな丸っこい声が、エウムに掛けられました。重々しく顔を上げると、あの少女が、手に飲み物の缶を持って、にこやかに笑顔で立っていました。少女は両手に缶を持っていました。
「飲みますか?」
左手の缶を差し出して、ひときわ満面の笑みを浮かべて言いました。
「コレ……結構美味しいんですよ」
今一度、前に差し出して勧めてきます。エウムは少しためらい、しかし、手を伸ばして受け取りました。エウムは呆然としながら、何となく無意識に缶の口を開けて、そして一口流し込みました。ムワッとするような、物凄く甘いジュースでした。その甘さは、エウムの懐かしい記憶をくすぐりました……そう、どこか金の花に似た甘さです。
少女はしゃがんで、膝を胸に抱えて、下からエウムの顔を覗き込むようにして、訊ねました。
「あの〜……その車椅子の方の背中って……金花……ですよね?」
「…………」
エウムは黙って、少女を見返しました。少女はまた、ニッコリと大きく笑顔を作って、続けました。
「あの……金花って持ってますか? あたし、持っていた分、全部使っちゃいまして……。もしお持ちでしたら、少しでも分けて頂けませんか?」
エウムは、口をつぐんだままで、首を左右に小さく何度も振りました。
「あ……そうですか。分かりました」
少女はウジカの前に、床に座り込んで、興味深げに、俯いた彼の顔を眺めました。
「噂には聞いたことあったんですけど、こんな風に背中に花が本当に咲いているんですね。背中が重かったりしないんですかね」
「…………」
「でも何だか……黒ずんでて、グシャグシャですね……何か病気なんですか?」
「…………」
「赤ちゃんは、お二人のお子さんなんですか?」
「…………」
「ここにいると、寒くないですか?」
「…………」
「どうして喋ってくれないんですか?」
「……ゴメンナサイ。今、ちょっと気分が優れないんです」
「寝不足ですか?」
「……そうね」
「お薬、飲まれたらどうですか?」
薬……そういえば、ジーニズの鞄には彼が常備していた薬が幾つか入っていることを思い出しました。しかし、
「飲まないの……ずっと……起きてるから……」
エウムの声は、舌足らずなはっきりしない喋り方でした。先ほどのジュースの甘さが、懐かしさからくる安心感を与えました。エウムは自分の喋っていることを、ほとんど自覚していませんでした。反射的に、少女に言葉を返していました。
「寝不足は危険ですよ。ずっと眠っていないと、人って死んじゃうこともあるんですから」
「…………」
「鞄、失礼しますね。……あった。コレ、睡眠薬ですよ。お飲みになられたらいいと思いますよ」
「…………」
少女は小さな薬の瓶の蓋を開け、白い三粒を手の平に転がしました。
「どうぞ、ジュースです。飲めますか?」
「…………」
既に、エウムは眠っていました。
「そりゃあ、最近流行っている寝込み泥棒の仕業だと思いますね。飲み物に睡眠薬か何かを入れたのでしょう」
「…………」
列車の揺れる音が、淡々と響いているのがうるさくてたまりませんでした。窓の外は暗黒。車掌が点けた非常用の豆電球が、黄色く暗く車内を照らしています。車掌は、俯いて寂しそうに立ち尽くすエウムを見て、腕を組んで息を吐きました。
「しかし、その犯人、本当に少女だったんですか? 先ほど全車両を複数名で見回りましたが、あなたより若い女性はお乗りになっていないんですよ」
「あたしより少しだけ若い感じの女の子でした。その子が私に缶を渡して、そうしたら段々と眠くなってきて……目を覚まして鞄を見たら、ほとんど丸ごと中身が無くなっていました」
「それでは、切符もですか?」
「いえ……切符は懐にしまってあったので、大丈夫でした」
「とにかく、こうして列車内で泥棒が出たということは、私たち鉄道会社の方としても遺憾です。幸い列車は終着駅まで止まりませんから、保安隊の方に連絡をして、終着駅で荷物の調査をしましょう。そこで必ず犯人は見つかりますよ」
「あの……この車椅子の子のことも……」
「……申し訳ないです、そちらのことも、保安隊の方にご相談下さい」
何度か、エウムはこうしてウジカのことも合わせて説明しました。しかし、泥棒の件と比べて、どうしてか車掌は誤魔化そうとするばかりで、真剣に取り合おうとしてくれませんでした。それがまた、エウムを気落ちさせました。
「当列車はあと数時間ほどで終着駅へ到着します。そうしたらまたこちらからご連絡致しますので、到着までの数時間、お休みになって下さい。必ず、犯人を捕まえてみせますから」
そして、車掌はきびすを返し、列車の奥へと行ってしまいました。
エウムはまた、あの客車の扉の前に立ち、開きました。中には、スーツの男と、太った女性の二人しかいませんでした。エウムはすぐ扉を閉めました。
そして、再び二人の頭を抱いて、目は大きく見開いて、反対側の窓を見つめました。そして時の経つにつれて、窓の外は光を帯び始めました。蒼い光が、窓一面から透き通って、エウムの顔へと注がれました。列車の速度が、ゆっくりと落ちていきました。
駅には既に保安隊の数名が待ち構えていました。駅に到着する寸前、車内放送がされ、車内泥棒が発生した旨、駅で乗客の持ち物検査をすることが伝えられました。駅に到着すると、保安隊の一人の男が入ってきて、一人ずつ先頭の車両の扉から出て検査を受けてくれと説明しました。一斉にため息やら叫び声やらざわめき立ちましたが、やがて一人二人と順々に検査が進められていく様子を見て、後続の人たちは諦めたように、再び椅子に腰を下ろして踏ん反り返りました。検査は簡単なもので、鞄の中を開かせ覗き込み確認、そして一歩進むと次の保安官が服の懐をまさぐりました。そして無事に検査が終ったらそのまま開放されました。深夜の、地方へと行く列車だったこともあり、乗客の数は少なく、数十人の確認はあっという間に終ってしまいました。何も発見されることはありませんでした。そして、やはり少女の姿は見つかりませんでした。最後の最後で、保安官らと車掌とエウム自身とで、列車を隅々まで見回りましたが、乗客の残したゴミや忘れ物以外は何もありませんでした。エウムらは、トイレの所の車両に集まりました。
「これだけ探しても見つからないとは不思議ですね……」
車掌が疲れた声で呟きました。
「とにかく、盗難届けを出して下さい。後は見つかり次第ご連絡致しますので……。見つからなくて、申し訳ありません」
「あたしは……今は家が無いですし……電話も盗まれました」
「…………」
そして、列車を降りました。