53:列車内 1
とりあえず目的の『北部行』の列車を探すため、駅の案内所を探しました。改札の横にガラス窓があり、そこへ行って、中に座っていた駅員に声を掛けました。
「あの……『北部行』の列車に乗りたいんですけど……」
口髭をたくわえた小さな中年の男は、唇に挟んでいた短い煙草を指でつまむと、上目遣いにエウムの顔を見て……手元の赤ん坊や、側の車椅子のウジカを見て……煙草で構内の奥を指して言いました。
「急いだほうがいいよ、もうすぐ出発するから。切符を買うかね」
「ハイ」
ジーニズの財布をお借りして、切符代を払いました。
「はい、二人分。赤ん坊はタダだからね」
切符を受け取りました。
「ありがとうございます」
エウムは丁寧に頭を下げてお礼を言って、そして改札をくぐっていきました。中年の駅員は、再び手元の煙草を唇に挟んで、エウムたち……とりわけ車椅子の少年のことを、ジッと見つめていました。
ホームに出ると、もうまさに今出発せんとばかりに、出発のベルが鳴り響いていました。ガラガラと車椅子を押して、雪崩れ込むように慌てて乗り込みました。扉をくぐると同時に閉じ始めて、危うく体を挟めるところでしたが、何とかギリギリ間に合いました。そして、ガタリ……と車体が揺れて、列車は走り出しました。
エウムは顔を上げて、辺りを見回しました。深夜の列車……異様なほどに中は静まり返っていて、疲労した車内の明かりに薄暗く照らされています。明かりの弱さゆえ……座席の影が何だかどす黒いシミのように滲んでいて、見た目の印象を汚らしくさせていました。いえ、列車自体も実際に疲弊しているようで、アチコチに擦れ傷や汚れが付いていました。初め街に来た時の列車はもっと全然綺麗だったので、年代を感じさせるくたくたの列車の様子に、エウムは少し気後れしました。
乗客に注目して見ると、客はごく少なくて、疎らに……片手の指で数えられるくらいの座席に座っている程度でした。エウムのいる車両には、スーツに帽子を深く被った顔の見えない男が列車の一番奥のほうに、体の丸々肥えた中年の女性が列車の真ん中辺りに(彼女は酷い大きな寝息を立てて眠っていました)、そしてエウムのいる列車入り口のすぐ横の座席には、エウムより三つか四つ年下でしょうか……少女が一人で座っていました。少女はエウムが入ってきた時に、チラリとこちらを見たのですが、エウムが彼女の方へと視線が移りそうになった時……少女は素早く視線を前へと戻しました。
エウムもとりあえず座ろうと思いましたが……困りました。その列車には、車椅子を備え付ける場所が無かったのです。古い列車のため、車椅子用の空間が用意されてなくて、座席はギッシリ敷き詰められていました。真ん中の通路に置いては、そこを通る他のお客さんに迷惑がかかるし、どうしようかと悩みました。エウムはとりあえず、ゆっくりと通路を歩いていきました。左右の座席を見回して、どうにかならないかと考え考え進むのですが……結局そのまま一番前まで行ってしまいました。後ろを振り返って……通路に置いてしまおうかと少し考えたのですが、その考えを消すように頭を振って前を向くと、扉を開けて、前の車両に行こうと思いました。すると、そこはどうやらトイレなどがあるところらしく、すぐ横を見てみると、人が溜まれるようなスペースがありました。席ではないですけど、ここなら何とかウジカを置いて一緒にいられそうです。ウジカを一番奥の方に入れて、壁についた窓に彼の背中を向けるようにして、エウムはその近くの床に直接座りました。お尻がヒヤリと冷えて、思わず腰を上げ掛けましたが、我慢して座り続けました。次第に温まっていきました。
ここは人が普通はいないところのためか、特に明かりが暗く、薄暗い闇の中のようでした。光の村で育ったエウムには、その闇はことのほか怖さを覚えました。列車が高速に走るため、時折派手にガタリと車体が持ち上がって、その度にエウムは上に跳ねて腰を抜かしそうになりました。また、エウムの心の中に、何ともいえない不安が、モヤモヤとした暗い薄雲のように立ち込めてきました。
今、エウムは、一人なのでした。ウジカがいるけれど、彼は話すことはなく、エウムは独りで沈黙に耐えなければなりませんでした。彼女は心の中で、自分自身と会話をしていました……していないと落ち着きませんでした。『これから大丈夫かな……無事にレティスさんに会えるかな……せめて事前に電話出来ればよかったのに(例の紙には住所は書かれていたけれど電話番号は書かれていませんでした……他の人の電話番号は書かれていたのですが、何故かレティスさんのだけは書かれてなかったのです)……ジーニズさんどうしてるかな……すぐ会えるかな……村は……今どうなってるんだろう……』
その不安な気持ちが、また別の不安を誘発させました……果たして、ジーニズさんの言ったとおりに、ウジカと同じ血を引く人が秘境の森というところにいるのだろうか……この不安は、エウムにはどうにも消すことが出来ませんでした。それはあまりに不確かな話に聞こえ、ジーニズさんのことを信用しないというわけではないのですが、だからといって簡単に安心出来る話ではありませんでした。エウムは……ふと自分のお腹をさすりました。そして、手を伸ばして、ウジカの頭をさすってあげました。
列車の規則正しい揺れが、エウムの体を一定に揺らして、それがエウムに眠気を誘いました。彼女の体はとても疲れていました。襲ってきた眠気……急にとろけるような心地良さを感じ、エウムはゆっくり頭を下に垂れました。すると一気に……エウムの意識が真っ黒に塗り潰されました。あっという間に、眠りについてしまいました。
何かの音が、聞こえました。そして、頬の辺りの空気が微かに……震えたように感じました。
エウムは重たげに頭を上げて、辺りをゆっくり見回しました。真っ暗です。ガタリ、ガタリと体が揺れて……そういえば列車に乗っているんだ……と思い出して、天井を見ました。付いていた明かりが、夜中だからか消されていて、ほとんど光が無くて周囲の様子が見えません。顔を左に向けて、窓の外を見てみると、遠くの方に星の光が見えました。夜が明けるには、まだ少し時間がありそうです。段々と意識がはっきりと……頭が冴えてきました。手元の赤ん坊に、顔を傾け近付けました。小さな寝息が静かに聞こえました。
エウムはウジカの方を見ました。暗くてよく見えませんが、相変わらずジッとして眠ったまま、何も変わった様子はありませんでした。今のエウムは、ウジカの姿を見るだけで、とても安心な気持ちになれるのです。感じるのは、自分と彼との、二つだけの存在……暗闇の中……無限の時の中……二人きりで共有する、自分たちの他に“何も無い”空間……。
またエウムに、甘いまどろみが訪れようとしていました……何気なく視線を流して、自身の鞄を見るまでは。鞄の口が、大きく開かれていたのです。それを目にした瞬間、一度、大きく心臓が胸を叩きました。何か、言い様のない違和感……。妙な、嫌な感じを覚えたのです。素早く鞄を引き寄せ、中身を確認しました。財布が……ありません。他は何も盗られたものは無いようでしたが、有り金全てが入った、大切な財布が、何者かに漁られ、盗まれてしまったようです。ジーニズから借りている財布を……。
「嘘……やだ……」
エウムは少し混乱してきて、身を屈めて床に顔を沿わせ、手をアチコチ床を撫でるようにして動かしました。もしかして列車の振動で、財布が滑って落ちたのでは……と、一縷の望みを掛け、探してみました。が、鞄のすぐ近くは勿論、トイレの車両全体を這い回ってみましたが、どこにもありません。もう、誰かに盗まれたとしか、考える他ありません。
気落ちして、再びウジカの側に戻ってきました。窓の外は、列車の中よりはほんの僅かですが明るく、ボンヤリとした夜の明かりが窓から差し、それがウジカの背中を照らしていました。泥のように醜く、グシャリと潰れてしまっているウジカの背中の花……その首に近い所の一部が、明らかに何者かの手によって、引っ張られ、千切られていたのです。エウムは、ウジカの背中と車椅子との間の辺りに手を突っ込みました。そこには、引き千切られたウジカの花の茎やらが、落ちていました。一度口に含んだのか、それらは唾液でベットリ塗れていました。
心は底無しに打ち沈み、小さな震えが彼女の体に訪れました。震えは、激しい怒りというより、悲しみと、怖さ……からでした。エウムは、ウジカの背中を撫でてあげて……撫でることしか出来ていない自分に気付かされました。
エウムは、立ち上がりました。体を反転させました。そして、目の前の扉を勢いよく開けました。
「誰ですか」
小さな声で……しかしシンの通った、しっかりとした明瞭な言葉で、彼女は自分の思いを発しました。しかし、列車は静まり返っています。今の声で目を覚ましたらしい……すぐ近くの座席のスーツの男が、こちらにちょっと顔を向けただけでした。
「誰ですかッ」
「うるせぇぞ!」
男がドスを利かせた一喝を放ち、帽子の下から物凄い目付きでエウムを睨みました。
「夜中にバカデカイ声出すんじゃねぇ……静かにしろッ」
エウムは、男を睨み返しました。それに気付いた男が、癪に障ったように、顎を上げ、目を大きく見せて、更に鋭い目で睨みました。しかし、やがて男の方が先に意気を下げました。エウムの目には、確固たる意志を持つ者特有の、負けまいとする力強さが含まれていました。男は手で帽子を上から押して深くして、再び眠る格好になりました。
別に、エウムはその男を疑っていたわけではありませんでした。ただ……誰でもよかったのです。とっさの思いで、自分の怒りを、周りに伝えずにいられなかったのです。
エウムの中で、ウジカの存在はとてつもなく大きくなっていました。それは、最初に彼を世話し始めた頃や、また、ウジカを連れて村を飛び出た時より、ずっとずっと大きくなっていました。乱暴に引き千切られ、吐き捨てられた花の茎の無残な様子に、エウムは我を忘れてしまっていました。
何故こんなにも彼女は取り乱したのか……彼女は村の外の世界に、夢のような幻想を思い浮かべていたからかもしれません……幼い頃から、そこには自分の知らない何か素敵なものがあると、夢に描いていた世界でした。しかしそれは、ジーニズと街を歩いている時から、段々と漠然とした不安感へと……色が薄暗く変わってきていたのかもしれません。短い間でしたが、街を歩いて、ウジカと一緒の時の……ウジカを見る周りの目。しかし、それはきっと、自分の思い違いなんだと……むしろ逆に、周りの人のことを否定的に思う、自分の方を責めようとしました。
エウムは扉を閉め、ウジカの元へ戻りました。彼の垂れ下がった頭を、胸の中に抱きました。二人を一緒に抱きしめました。そして……また、ウジカの背中を撫でてあげました。エウムは車椅子の肘掛のところに腰をのせて、彼の頭を横へ傾けて、包み込みました。そしてそのまま、朝に光が見えるまで、窓を見詰めながら、時を過ごしました。