52:進んで行く
ジーニズが壁になってゾークの死角になった時、ジーニズに手を握られて……紙の感触を感じました。そして手を後ろに引いて、その先にある中庭を見て、何となく意味するところが分かったような気がしました。その時、一瞬でしたが、ジーニズがソッと首を回して、こちらを見たのです。無言でしたが、その目にはひっ迫した雰囲気が張り詰めていて、それは何となくでも、今のこの状況の危うさというのを感じさせるのに十分でした。
そして、部屋の中に銃を構えた兵士たちが雪崩れ込んできた時、ジーニズは、カカトでエウムの足を軽く蹴りました……「行け」……と。それが引き金のようになって、エウムはとっさに足を滑るように動かして、裏の庭の扉を目指して、一直線に駆け出しました。胸元にいた青年は、駆け出す少し前に、突然彼女の腕の中から下りていって、ジーニズの靴へと近付き、指で靴ヒモに触れたり引っ張ったりしていました。ハッと気付いて、青年を連れようと振り返ったのですが、その時には既に兵士が、ジーニズたちを取り囲んでいました。そして一人の兵士が、こちらに気付いて銃口を向けようとしたので、慌てて目をそらして、中庭を懸命に目指しました。赤ん坊の方は、最初からずっと腕の中に離さず抱きしめていたので、決して落とさないようにと、腕の重みの確かさを常に意識に置きながら、走っていきました。背中から撃たれることを半ば覚悟して、冷たい汗を掻きながら、とにかく中庭の輝く金花だけを見て走りました。幸運にも、銃声は響かず(それはジーニズの無事も知らせていました)、エウムは、出口から溢れんばかりに生える金花の中に、頭から一気に突っ込みました。
光の花畑の中を、必死に掻き分け進みました。花が揺れる度に、光があらゆる角度に乱反射して、あちこちで閃光が発せられました。右も左も分からぬまま、ただ真っ直ぐ進むのみで、前屈みに、目の前の花の茎を、掴んでは除けて掴んでは除けて……すると不意に、手が何かにぶつかりました。それはコンクリートの壁でした。エウムは、特に下の方を見ながら、壁に沿って動いて、丹念に見て調べました。そして、大きな……体も通れる位の穴を見つけると、考えることも無く、すぐに頭から飛び込みました。
エウムは勢い余って……壁は無事抜けたものの……真っ直ぐ頭から地面に落ちてしまいました。
「イタタッ……」
暫く頭を両手で押さえて、うずくまっていました。多少痛みが落ち着いてきて、周りを見渡すと、すぐ目の前に壁がありました。そこは狭い裏通路のような所でした。目の前の壁とは、一メートルの幅もありません。上を見てみるとコンクリートが屋根のように繋がっていて、辺りは暗いです。左右を見回すと、両方とも出口のように光が見えました。エウムは最初ここの家に来た時のことを思い出して、方角を思い出しました。そして、右だと思い、通路右の光を目指して駆けました。
太陽の光の下に出ると、既に空は赤く染まり始め、ビル街の隅には濃い影が溜まってきていました。エウムは無我夢中で、夕方の……帰宅のためにごった返す人々の波の中を……アパートへと急ぎました。彼女の頭の中には、今、何も考えることはありませんでした。ただ、とにかく早くアパートへと戻らなければという……追い詰められるような思いだけが、彼女の足の運びをドンドン加速させていくのでした。
そして、何度角を曲がったか分からないくらい……ようやくという気分で、アパートの前へと到着しました。そのまま部屋へと駆け込みました。もうほとんど暗闇の流れ込んだ部屋の中で、ウジカは無事にベッドの上に、静かに眠っていました。それを見て、急に安堵感が溢れてきたエウムは、その場に……ペタリと、腰が抜けたように内股で座り込みました。そして、ようやく気付いたように……自分の呼吸が異様に荒れているのを、落ち着けるために、何度も何度も、深呼吸をしました。
最後に唾をひと飲みして、ジーニズに寸前に渡された……手の中で強く握ってクシャクシャになった一枚の紙を、シワを伸ばして広げました。そこには、メモ書きのように、荒っぽく流れるような文字で、何やら住所が記されていました。その中の、上から二番目の住所……その頭に『レティス』という女性の名前が書かれ、赤いペンで何重にも囲まれていました。
「この人が……ジーニズさんの言っていた、知り合いの女の人の医者かしら……」
エウムは、紙を裏返したりして仔細に眺めて、そしてシワを綺麗に伸ばすために、手の平にのせて押したりしました。……とっさに渡されたこの紙……そして足を蹴って、まるで「行け」と示すように……
住所を見ても、それがどこなのかエウムにはさっぱり分かりません。街の役所へ行って聞いてみれば、どこなのか分かるでしょうか。
エウムはふと顔を上げると、入り口側の壁に置かれた、ジーニズの大きな鞄が目に入りました。膝を擦りながら近付いて、側の壁に背をもたせかけ、鞄の口を大きく開いて中を見ました。そこには財布やら細々した医療道具やら、ジーニズの大切な持ち物が詰まっていました。今日出掛けた時に持っていた財布は、別の小さな小銭入れだったのでしょう。失礼して中を見てみると、こちらには沢山のお金が入っていました。
更に中を探ると、色々なカードが、一つのケースに収められていました。一枚取り出して見てみると、それはジーニズの身分証明書のようでした。ジーニズの顔写真と、読めない文字で何か書いてありました。そして、数字の羅列……電話番号が二列書かれていました。それまでエウムは、電話というものを知りませんでした。遠くの国の人とも簡単に言葉を交わせる機械……そんなものは村には無く、ジーニズが持っていた携帯型の電話を見せてもらって、長い列車の旅の間、触らせてもらいました。……アッ!
エウムはその時のことを思い出し、更に鞄の中を、深く手を突っ込んでゴソゴソ漁ると、硬い手応えがありました。抜き出してみれば、それは携帯電話でした。
「あったッ…………あれ?」
画面のところが、何故か緑色の明かりが点滅していました。とっさにエウムは耳に当てました。するとそれとほとんど同時に、ガチャリという音がして、いきなりとても甲高い女性の声が発せられました。
「ジーニズさんですか! お久しぶりで〜す!」
「あ……アノ、」
「……あれ? ジーニズ……さん?」
「あの、あたしは……エウムといいます……あの……」
「エウムちゃん? ジーニズさんの電話、ですよね?」
「あ……ハイ、そうです。ちょっと……お借りしているんです」
「あ〜、そうですか。……で、どういったご用件でしょーか?」
……どうも、エウムが鞄を漁った際に、間違えてボタンを押してしまって、どこかに掛かってしまったようです。
「スミマセン……あたし……間違えてボタンを押してしまったみたいで……」
「あ、そうなんだ。リダイヤルボタンでも押したのかな……まあいいや。ジーニズさん、そこにいるんですか?」
「あ……いえ……」
説明することをためらい、エウムは押し黙ってしまいました。それから数分ほど沈黙してしまいました。
「……何か、あったの?」
ふいに、電話先の女性が、優しげな声で訊ねてきました。
「いえ……あの……スミマセン、間違えてお掛けして……それでは……あの……失礼し」
「ちょっと待って! 電話切らないで。何か困ったことが起きたんじゃないの? よかったら、あたしに聞かせてくれないかな?」
「でも……」
「ジーニズさんがそこにいないっていうし、何かトラブルに遭ったんじゃないの? あたしはアマティっていうんだけど、」
アマティ……その名に覚えがあったエウムは、さっきの住所の紙を取って見ました。やはり……下の方に書かれていました。
「あたしとジーニズさんは友達なんだ。あたしは単なる旅が大好きの女なんだけど。よく旅先でジーニズさんと会うんだ」
「あの、あたしはエウムっていいます。ジーニズさんとは……」
そしてこれまでの経緯を順番に話していきました。アマティはとても気さくに話を聞いてくれて、とても話がし易くて……それは相手も同じだったようで、やがてお互いドンドン打ち解けていくのを感じました。エウムは、故郷の友達のことをふと思い出していました。
「そうなんだ……相変わらず、ジーニズさん、色々トラブルに巻き込まれて大変だね〜」
「そうなんですか?」
「ウン。だってジーニズさん、免許を持ってないからね。それと、少し思い込むところがあって、訪れた病院で入院してた子に、いきなり自分の薬をその子に飲ませちゃって……病院の人とか親にメチャメチャ苦情言われたの……あたしもその時一緒にいたんだけど……結局その子、その薬でみるみるうちに治っちゃったから、何とか示談で済んだんだけど。でも、腕は本当に凄いんだよ。ウジカ君もすぐ治しちゃうよ」
「ウン、ありがとう」
「それで……、エウムちゃん、これからどうするの?」
「はい、アノ……是非会ってみたい人がいるんですが、ソノ……その人の家がどこなのか分からなくて……」
「何て人?」
「レティスさん……という人ですけど」
「……あ〜。あ〜あ〜」
「……?」
「知ってる。レティス。ウン」
「あの……実はジーニズさんに聞かせて頂いたんです、ジーニズさんのお友達で、とても綺麗な人だって」
「ウン、あたしも会ったことあるから分かるよ。確かに、凄い美人だよ。ジーニズさんのお弟子さんみたいな人みたいだけど……」
「ウジカをその人に預けようと思っているんです。あたし、決めたんです。今、こうしてアマティさんとお話しているうちに。とにかく、ジーニズさんいなくても、出来るだけのことをしていこうって。それで、とにかく最初に決めたように、レティスさんにウジカや赤ちゃんを預けておこうと思って……」
「エウムちゃん、あたし、レティスのいる病院分かるよ。メモ用紙はある? 行き方を教えてあげるから、書いておいて」
「ア……ありがとうございます!」
エウムは再びジーニズの鞄を漁り、入っていたメモ帳とペンを取って、最後の白紙のページを開きました。
「いい? エウムちゃんのいる街からは、駅から深夜発の特急列車が何本か出てるの。その中に『北部行』という列車があるはず……国境を越えて……その列車の終着駅が、レティスのいるところなの。『北部』はとても寒いところだから、防寒着とかキチンと用意しておいたほうがいいよ」
「『北部行』……ですね」
「ウン。凄く田舎なんだよ。駅からはバスが出てるんだけど、日に四本くらいしか出てないから注意して。そのバスに乗って、『学校前』という所で降りるの」
「『学校前』……ですか」
「そう、どうしてそんな名前の停留所なのかは、実際に行ってみれば分かるよ。とにかく自然がいっぱいのところだから」
「分かりました。ありがとうございます!」
「あと……」
「ハイ」
「……頑張ってね」
「あ、ハイ!」
「いつか、エウムちゃんと直接会って、話がしたいね。人って、実際に会って会話することがとても大切だと思うんだ」
「あたしも、アマティさんの旅のお話とか、色々聞きたいです」
「アハハ……そうね、いつかお話しようね。それじゃあね!」
「それでは、ありがとうございました!」
エウムは、思わず電話相手に頭を下げて、そして電話を切りました。エウムはとても良い気持ちになっていました。思わぬ電話で見も知らぬ人とお話をして、それが彼女の心の緊張をほぐしました。ジーニズさんが捕まって、これから先どうなるのか分からなかった不安が、きっとどうにかなるのではないかという思いを抱くようになりました。とにかく、今は出来ることをしなければ……。
その後、エウムは荷物を一気に整理して、全てを背負い、夜、アパートを発ちました。アパートには、これから自分たちがしていくことを記した手紙を、ベッドの上に置いておきました……『ジーニズさんとまたすぐに会えることを信じています』。
エウムとウジカと赤ん坊の三人、足早に人通りの少ない夜の街を抜け、駅へと急ぎました。