50:再会
再びアパートに戻ってくると、もうエウムは起きていて、彼女はまた部屋の掃除をしていました。
「あ、お帰りなさい」
彼女は床を拭くのを止めて、顔を上げてニッコリと微笑みました。その目の下のまぶたが、少し厚ぼったく膨らんでいました。
「昨日は眠れなかったかい?」
「あ……ハイ、ちょっと、遅くまで起きていたので……」
「……そうか。私は学校の方に行って、薬品を頂いてきたよ。望みの物が手に入ったよ。後は食料とか、幾つかの道具だが、それは昼過ぎから行こうか。少し、眠った方がいいよ」
「あたしは大丈夫ですよ。それより、気になったのですが、ウジカを今回の旅に連れていっても大丈夫ですか……?」
「ウン……そうだよね。秘境の密林を、眠る彼を連れて入るのは、とても困難だし、危険が増す。それで考えていたのは、私の友人の病院に預けるというのはどうだろう? もしウジカの血縁者を見つけられたら、その人をそこへと案内するのが、一番安全で理想だと思うんだ。きちんとした医療施設のあるところで治療した方が良い」
「そうですね……」
「……金花の村に、彼を置いていくというのもあるが……」
「それは……」
エウムは言い淀み、俯いて視線を外してしまいました。
「まあ、私の友人はとても親切な、良い人だよ。若い女医なんだけど、とても頭の切れる、美しい人だ。そこに預けておけば安心だよ」
「分かりました。では、その病院でお願いします。……出発は、明日ですよね」
「ン? ……ああ、明日の、出来れば早朝に発ちたいと思っている、大丈夫かい?」
「ハイ、それじゃあ……と」
エウムは勢いよく立ち上がって、雑巾をたたんで片付け始めました。
「早速、買い物に行きましょう。すぐ準備します」
気持ちを奮い立たせるように、雑巾を強く握って、彼女は努めて明るい顔を見せました。
そしてまだ朝早かったですが(ジーニズが戻ってきた時はようやく朝の出勤の人たちの姿が見え始めた頃でした……それから一時間もせぬ内に再び出掛けました)、とりあえずウジカはアパートに寝かせておいて、赤ん坊はエウムが(ベッドの毛布で包んで)抱いて、そしてエウムが先頭となって朝の街を歩きました。手元の子のいた……林檎腹のいる所へと向かいました。
朝の街はせわしなく、人ごみが渦のように巻いて流れています。赤ん坊がふいに咳をしたので、エウムは毛布を改めて包み直し、赤ん坊の口元を隠すようにしてあげました。皆が皆、キッチリとしたスーツや制服を着込み、同じような格好をした人たちが、右から左から前から後ろから、ひっきりなしに……洪水のように溢れています。その光景にエウムは圧倒され、好奇の視線を周りに振り撒きました。この街に着いてから、昨日は何となく初めて来た所への恐れで、視線を下げがちで街を歩いていましたが、今日はしっかりと見ようと思ったのです。世の中には、こんなに沢山の人が集まっている場所があるんだと、まるで経験のしたこと無い世界へと来て、ただ驚きで、エウムの心は躍っていました。思わず興味深いものを見つけては(例えば、あるお菓子屋の前に続く凄く長い行列など)、そちらへと視線のみならず足も引き付けられて、横から店の中を覗き込もうとしたりして、アチコチで足を止めています。それを後ろから見ているジーニズはというと、エウムのその好奇の仕草が面白くて、ニコニコと笑みを浮かべながら、彼女の引かれる先々に付き合ってあげました。
「そういえば朝ご飯を食べてないし、食べたいかい?」
「……いいんですか?」
「勿論、私もお腹空いたしね」
そこで、そのお菓子屋で売っていた、皆が買っている、一番人気らしい丸い揚げパンを四つ買いました。手の平に収まるほどの小さなパンですが、砂糖を塗して揚げてあるらしく、油と甘みが良い感じで、サクサクと食べれました。
「こりゃ面白いね、紅糖を使っているね。コレは南部の特産の砂糖で、ちょっとハッカのようなスッとする感じがあって、甘ったるくなくてスッキリ食べられるんだ」
「ヘェ……詳しいですね、ジーニズさん」
「まあ、世界中を回っているからね。その土地の特産を食べるのが楽しみなんだ」
エウムはその紅糖のパンを食べました。
「美味しいです」
「でしょ? もっと沢山、美味しい食べ物は、世界中にあるよ。それも旅の楽しみだね」
そんなことを話したりして、二人はすっかり時間を潰して、昼近くまで街で遊んでいました。エウムの「そろそろ行きましょうか」という声で、ジーニズは「ああ……そうだった」と苦笑しました。既に時間も大分経って、昼ご飯の分まで食べてしまっていました。
何度か角を曲がり、段々と人ごみが薄れてきて……「待って」と、急にジーニズが足を止めました。
前を行くエウムは振り返ると、ジーニズは地面の石畳の上をジッと見つめています。何かを考えるように首を捻り、あごを人差し指と親指で擦りながら、一心に眺めています。そこは、ただの路上の石畳しか見えません。ジーニズは、何かを辿るように、目線を、石畳の上を這っていきます。そして、まるで何かを追うように、ジーニズは一人でスタスタと進んでいきました。エウムはその後を無言で追いました。不思議なことに、ジーニズが進んでいく先は、これから彼女が進もうとしていた方向だったのです。
そして、ついにあのボロボロの家へと、到着しました。ジーニズはやはり地面を見つめたまま、その視線を、入り口の黒い穴の方へと走らせました。
「よく分かりましたね、ここが林檎腹さんのいるところです」
「ここが?」
と、何故かジーニズは少し驚いた調子で声を上げました。
「そうか……いやね、今日の朝なんだけど……薬をもらいに行った時のこと、ちょっとした事件に出くわして。その場は鎮めたんだけど、彼らは皆、重度の金花の中毒だったんだ。それで、彼らはどこから金花を手に入れているのか気になってね。一人の青年の足に、ある特殊な塗料を塗りたくっておいたんだよ。それは普通の人の目には不可視の光を放つ塗料なんだ。しかし、前に言ったとおり、私の目はおかしくなっていて、その影響か私には、それが見えるんだ。それで、彼の足跡を見つけたから、辿ってみたら……この中に続いてる」
ジーニズは顔を上げて、家全体を仰ぎ見ました。
「中、入りますか?」
「ウン」
ジーニズは懐から指先ほどの小さな懐中電灯を取り出し、明かりを点けて、それをエウムに手渡しました。
「これを持って。私は暗闇でも見えるから」
エウムは右手に赤ん坊をしっかり抱いて、左手でそれを受け取り、静かに頷きました。そして彼女は前に出て、電灯を前に向けて、入り口の穴の暗闇へと光を投げ込みました。
そして三人一緒に、中へと踏み込みました。足元を照らしながら、奥の四角い光を目指して歩いていましたが、ふいにまたジーニズの足がピタリと、闇の真ん中で止まりました。
廊下の両端に幾つか、規則正しく開いている穴……かつて人に使われていた部屋の入り口の跡。家の外を覆っていたツタは、中まで深く侵食していて、ツタの先がビラビラと、長い髪の毛のように穴の上から垂れ下がっています。入り口の上の半分近くが、膜のように覆われています。しかし、目線を下げて、足元の木の床から生えている植物はというと……何故か、踏みにじられたように潰れていました。気になったジーニズは、頭のツタを手で押し退けて、中へと入っていきました。
部屋は小さな個室で、壁際には一つ小さな窓があるようでしたが、外側からやはりツタに覆われていて、完全に塞がれていて外の明かりは見えません。エウムは中に入るのが少し怖いのか、入り口の外で控えているので、電灯の明かりもありません。しかし……ジーニズには、見えているのです。部屋の左の隅の方……何か黒い影が……何重にも折り重なるように……積み重ねられるように……固まって置かれています。そこへ、ジーニズはゆっくり近付きました。
そして、ジーニズの腰の辺りまで高く積まれている“それ”は、サッと見ただけなら、かつてこの部屋で使われた毛布か何かが、重ねられているようにも見えなくもありませんでした。ジーニズは、その一番上のものを、掴み、上へ少し持ち上げてみました。グニャリとした冷たい手触り……そして鼻を刺すような強烈な異臭……間違い無く、死体でした。暗闇の部屋の隅に、何体もの多くの死体が、積み重ねられていたのです。よく見ると、死体の多くは頭が叩き割られていました。何か硬い凶器で殴られて、殺されたのでしょう。乱雑に部屋の隅に積み重ねられていることからも、犯人の粗暴さを物語っているようでした。死体の体は傷だらけでした。
「どうしたんですか?」
外からエウムが、恐々と不安そうな声を掛けました。
「いや、何でもないよ」
ジーニズはそう言って、離れ際に横目で一瞥をくれて、部屋を出ました。
ジーニズは予想を立てました。あの隅に置かれた哀れな死体……彼らは何故殺されたのか。それはもしや……口封じか何かではないだろうか。この家の奥の、見てはいけないものを見てしまったことへの、口封じ。奥に待つ、金花と林檎腹の死体。そこへ、昨日はエウムが一人(ウジカも一緒だが)でやってきた。それで、殺されなかったのは、たまたま運が良かったのだろうか。それとも、もしやエウムが金花の村の人間だから、それとなく“仲間”だと悟ったからだろうか。……あの死体たちは、一体“誰”なんだろうか。そして、“誰”に殺されたんだろうか。
そんなことを考えているうちに、廊下の奥の遮光幕の前へと辿りつきました。
ジーニズは、サッと勢いよく引き開けました。真っ白い光の原野、アチコチに金花が我が物顔に咲き誇っています。エウムは、ジーニズの背中越しに指を指しました。
「あの、真ん中の盛り上がっている所が……そうです」
ジーニズは小さく頷いて、そこへと近付きました。目の前に来ると、ドカリとアグラをかいて地面に座り込むと、両の手の平を大きく広げて差し出して、その隆起した土の上にソッとのせました。ひんやりと冷たい土……しかしそこにジーニズは、人の身体の形と同じ盛り上がりを感じました。ジーニズはその格好で……ジッと、触れていました。段々と土が温まってきて、手から滲み出てきた汗が、土に染み込みました。段々と土が泥になっていって、手に茶色く付いていきました。ジーニズは、土と自らの手が、一体化していくような感覚を覚えました。土は完全に、温かみを取り戻しました。
「あなたとの再会が、こんな形になってしまうとはね……」
そして、上にそびえる立派な太い金花の花を見上げました。
「あなたの金花、幾つかもらっていいですか?」
そして、ジーニズはスッと目をつむり……再び開けると、隆起の上から生える中の、手の平に収まりそうなくらいの……とても小さな金花の子供みたいなのを一株、土ごと掘って取り出しました。
「エウム、後でこの金花を入れる鉢を買おう。これも一緒に持って、旅を行こう」
土がこぼれ落ちないよう、両手で椀を作るようにして下から抱え込み、ジーニズは立ち上がって、その花を見つめました。それは遠目には目に付かないほど小さな花ですが、周りの光を受けて、燦然と力強く輝いています。そして、小さくとも、中にはしっかり粉のような細かい種を携えています。