45:[第四節]甘い香り
列車はゆっくりと速度を落としていってホームに滑り込み、ガタリと大きなひと揺れを起して停車しました。そして、ジーニズとエウム、そしてエウムに押されて出てきた、車椅子に座っている、目を閉じたウジカ。
「ジーニズさん」
「大丈夫。必ず、目を覚まさせてあげる。そのためにも、ここに来たんだからね」
ウジカは相変わらず眠り続けていました。上半身を裸にして、格好は窮屈ですが、背中を背もたれにはくっ付けないように、前屈みにして座らせていました。少しでも背中の花に太陽の光を当てておくためです。
ジーニズには、彼を救う手段として、ある考えが思い付いていました。しかし、それは“あること”を調べてからじゃなければ、断言することが出来ませんでした。まだ……机上の空論となってしまうので、エウムには黙っていました。
「大丈夫。あの村の男はヤワじゃない。とにかく、まず少年のいる、療養所へ行こう。すぐ隣に保安庁もあるから、ナタールにも会えるだろうし……。こっちだよ」
「君は……特にウジカを連れて入るのはまずい。待ってて」
保安庁の前で、エウムにそう言って二人を置いて、ジーニズは足早に保安庁の建物の中へ入っていきました。入り口横の、受付には面長の背のとても高い男がいて、彼にいきさつを話しました。…………
「ナ……死ん、だ?」
「ええ。ずっと入院していたんですが、完全な植物人間の状態でしたので。少年に身寄りは無かったですし。医師の判断で、数ヶ月前に安死術が施されたのです」
「馬鹿な! 私は任されていたんですよ! 少年の治療を、ナタール氏に!」
「ああ……そのナタール氏ですが、彼は逮捕されました。息子さんが金花の売買に加担していたということが分かりまして、連座制の適用で……。父親であり、ましてや彼は、保安官という立場であったわけですからね。
あと、あなたは……ジーニズさんですよね。今回の処置に関してを、ナタール氏にお願いされて、連絡を電文でお送りしたはずですが、お受けにならなかったのですか?」
「…………」
ジーニズはたまらなくて、喉が詰まり言葉が出ず、ガクリと首を垂れて足元を睨み付けました。電文など受け取っていません。何らかの手違いか、それとも何か……。
ジーニズは、気を取り直して、強い視線で男を見返しました。
「それで、ナタール氏はどうなったんですか? 息子さんは?」
「ナタール氏は収監されてますよ。息子も同じく。息子の方は、路上で、婦女暴行の容疑での逮捕です。かなり酷く金花を飲んでいたようで、錯乱状態だったようですね。
それと当たり前ですが、ナタール氏に会うのは出来ませんよ。あなたとは御友人と伺っていますが。今回のこの事件は国にとって非常に重大な件ですから、面会は誰とも出来ません」
「何か、私に言伝は無いですか?」
「いえ、何も」
「……そう、ですか」
ジーニズは衝撃を抑え切れず、フラリと腰が砕けて倒れそうになるのを何とか踏み止まって、そしてきびすを返して、エウムの元に戻りました。
「エウム……すまない……」
立つ瀬が無くて、俯き加減で近付いて、ソッと頭を上げました。エウムは、どこか明後日の方向を向いて、上の空の様子で呆然としています。
「エウム」
「……ぁ」
エウムは恥ずかしそうに俯いて、可愛らしく照れ笑いしました。
「あの、どうでした?」
「…………」
ジーニズは先ほどのことを全て正直に話しました。
「本当にすまない……私はこの街に他に知り合いなどいないし、少年とも、ゾークとも、どうにも連絡手段が……無い」
「そんな……亡くなられてたなんて」
エウムはそう呟き、ガックリと肩を落として、しゃがみ込みました。車椅子にもたれかかり、かろうじて倒れないように支えているようでした。
ジーニズはエウムの青白い顔を見て、悔しくて舌打ちしました。そして、力強い声を上げて、
「もう一度、行ってくる」
ジーニズは、エウムを励ます気持ちを込めて言いました。
「すごすご引き下がって入られない。仮にもナタール氏とは色々親密にさせてもらっていた。私だって、この件の関係者なんだ。エウム、ちょっと待っててくれ。また行って、話を付けてくるから」
「ア……あのッ」
そしてジーニズは、駆け足でまた保安庁の建物の中へと入ってしまいました。
……エウムは、言おう言おうと思っていた言葉を、伝えるきっかけを失って、歯がゆくて指先を擦り合わせました。困った顔で、さっき呆けて見つめていた方向を再び向きました。彼女の心の動揺は、もう一つ……別の意味も含まれていました。
エウムの小さな鼻が、ピクリ、ピクリと動きました。香り……先ほどから、どこからか漂ってくる、甘い、気持ちがとろけるような、ネットリした芳香。その香りは、この街にはじめて降り立った、列車を降りた時から既に感じていました。しかしその時は、大きな街特有の濁った臭いと混じっていて、何となく気にはなっていながら、先を行くジーニズを追って、気にしないようにしていました。
しかし、こうして一人(眠るウジカはいますが)になって、ボーッと街の景色を眺めていると、またあの香りのことを思い出して、鼻を鳴らしているうちに……いつしか夢中になっている自分に気が付きました。
「(……これは……)」
それは、どこか……懐かしいような……そんな香り。
「(……でも……)」
どこか……不思議な感じのする香り。
「(一体……どこから?)」
エウムの心は、少年の死の事実によって、強い動揺を受けました。心の焦点が定まらず、どうしたらいいのか……整理がつかず、フラフラと酩酊したように参ってしまいました。そんな弱った心に、不意に芳しい香りが、隙間を埋めるように入り込み、彼女の心をさらに“かく乱”させました。
エウムは無意識にウジカの車椅子の取っ手を掴み、フラフラと……その香りに惹き付けられるように……見知らぬ道を進み始めました。
右に、左に、迷路のような街路を、さまようように進んでいくエウムとウジカ……ただ匂いのより強まっていく方向だけを目指して、この角か、あの角か、自分の鼻だけを頼りに。しかし、それが思うより迷い無く、スルスルと、自分でも不思議なくらい道が“分かる”のでした。
「(この、凄く、濃くて、甘くて、優しい香り……)」
それは、エウムのよく知っている金花の香りとは、少し違っているようなのでした。
「(似ているけど……)」
村で摘んで飲んでいたものより、もっと……濃い、甘い。より不思議で、より魅惑的な濃密な香りに、エウムの心はすっかり囚われてしまって、いつしか自然と早足気味に、ガラガラと派手に車椅子の車輪を鳴らしながら、一心不乱に突き進んでいきました。