42:青き日の記憶
『ナタールさん、このお話は、私の幼少の頃のことから順に説明しないといけません。が、重要な点だけを重点に、出来るだけ簡潔にお話します。はっきり仰っておきたいのは、私はこの金花の存在を、消してしまうことを考えています。その私の思いをご理解頂いた上で、これからのお話を聞いて頂けませんか』
ナタールは黙って頷いた。私はフウ……と、覚悟を決める意味も含めて、落ち着いて息を吐いた。
『私は、幼少の頃から先天性の肺の病を患っていました。呼吸困難になることはしばしばで、物心付いた時から、一度も体を起こしたことが無い……毎日が寝床の上でした。
そんな私が、今はこうして世界を旅出来るようになったのは、あるお医者様のおかげなんです。彼女は……非常に若い医者でしたが、その深い医学に関する知識と技術には……今、多少の医術を知った自分にはよく分かります。本当に素晴らしい方でした。
実は私の病気は、当時はまだ治療法が確立されていない、いわゆる“不治の病”でした。先天性で患った子は、一年も持たない病気を、生まれたばかりの私にあの方が手を差し伸べて下さいまして、一年、また一年と長く生き長らえさせて頂き、そしてついに五歳の時に、完全に完治させて下さったのです。彼女の治療法は、辛抱強い、薬物による方法でした。彼女は世界中を旅して回って、ありとあらゆる薬や薬草やらを見つけてきては、それを配合することによって新たな薬を作り出し、私に飲ませていきました。これは大きな国であれば、いわゆる人体実験として違法行為に当たるものですが、私の生まれた国はとても貧しい何も無い田舎……そんな法律などありませんでした。ただ私のために懸命に治療を施して下さり、不治の病と奮闘して下さるのです。そして彼女のおかげで、実際にこうして完全に回復したのです!
……そして私の完治後、彼女はまた新たな患者のために、旅立っていきました。幼かった私は、ただ別れの際に、ありがとうございますと、お礼の言葉を言うだけ……。彼女は今の私のように、世界中を放浪しながら患者のもとへと旅立っていく方でしたから、それからの消息は全く分からなくなりました。しかし、その小さな頃の気持ちは、成長して大きくなっても忘れることなく、やがていつしか彼女のような医者になりたいと思ったのです。
そしてやがて青年となった歳に、私は一人田舎を旅立って、この国、この街へとやってきました。医術を学ぶなら、この国しかないと思っていました。しかし、先に言ったように、私の田舎はとても貧しく、医学を学びに学校に入ろうにも、お金が全くありません。そこで、まずこの街で仕事を始めて、お金を貯めはじめました。住み込みで、無駄な物は一切買わず、食事も出来る限り慎んで、切り詰めて貯め続けました。数年頑張って、やがて貯金もある程度貯まったので、仕事を続けながらですが、ついに学校に入学することが出来ました。
それから二年間は、生活も安定して、仕事も学業も順調にいっていました。しかし、ある日、その私の生活を一変する出来事が起きたのです。幼い頃に大変お世話になったあのお医者様が、変わり果てた姿で、再び出会うことになったのです。
はじめは小さな噂話で聞き、私の通っていた学校の付属病院に、一人の重症の患者が入院されたということでした。当時の医術で治療不能の難病で、あらゆる病院を回されていくうちに、この国でも有数の設備や医者、研究者の揃うココに送られたと。不治の病による苦しみは、私自身骨身に沁みるほど分かりますし、気になって付属病院の方へと寄ってみたのです。
そしてそこで見た彼女は、私の古いおぼろげな記憶と比べても、あまりにボロボロで変わり果てていました。病気の影響で、顔の頬や体が痩せ細り、まるで枯れ木のような手足でした。私の幼いかすかな記憶では、あの人は女の人といえど、体つきは大きく物凄くたくましい人で、立派な腕を自慢げに上げて、力こぶを作って私に見せたりしてくれていました。しかし、目の前の彼女は、その記憶の影とはまるで違う……別人かと思ったほどだったのです。詳しい病気のことは……彼女のことを考え、伏せさせて下さい。とにかくようやく再会出来たというのに、そんな彼女の姿を見て、がく然としました。彼女ほどの優れた医者が、病に臥して、治せないでいる。それは何か夢か間違いじゃないかと思いましたが、決して覚めることは無いのです。彼女と面会して、彼女は私のことを覚えていて下さいました。元気そうで良かったと。私は、何も喋れず、ただ抑え切れない涙を流すばかりでした。
しかし、心の中では段々と、ある決意が湧き上がってきたのです。その思いは確固たるものへとなりました。彼女を治したい。私が、彼女を治すと。
といっても当時の私はただの医学生です。正式な医者にさえなっていない身、知識も技術も未熟以下で、何が出来るだろうと悩みました。しかし、彼女の寿命は、もって数年と言われていました。時間が無かったのです。
私は学校に入学する前から、独学で多少医学を勉強していました。そして同級の友に、ユ・ゾークという天才がいました。私は彼にこのことを相談しました。彼はこの話に深く興味を持ってくれたらしく、まず一緒に彼女の病室へまた出向きました。その時の彼女は、昏睡状態で、とりあえず彼女の血液のサンプルを頂き、そして病院の彼女の担当医に頭を下げて、彼女に関する資料のコピーを譲って頂きました。普通は貰えないものですが、私の幼い頃の話を話して、無理矢理口説き落としました。また、当時学校で教授らにも一目を置かれていたゾークが一緒にいたのも、多少意味があったのかもしれません。とにかく資料を持ち帰り、入念に調べました。そしてゾークと二人になって、二人の薬学の知識を精一杯出しあって、あらゆる薬物治療の方法を考えました。そして、コレはと思う薬を開発するのに、一年をかけて作り出したのです。
あの時の病院の治療方針は、もうほとんどサジを投げているような状態で、ひたすら延命治療を施しているというのは分かっていました。しかし、そのような治療をジッと眺めているのは私には我慢出来なかった。私はゾークと共同開発した薬を持って、担当医に談判しました。本当に若い、青い話です。私は興奮し過ぎて、こう告げたのです。彼女の治療を、自分たちが引き継ぎたい、ゾークと共に開発した薬を試したいと。担当医の方は烈火の如く怒りまして、私たちを責め立てました。医学生の、医術の何も分かっていない分際で、出過ぎた真似をするなと。不幸になるのは、わけの分からない薬を試されて苦しむ患者の方だと。
しかし、私はその言葉に納得いかなかった。医学というのは、何百年という人の歴史の積み重ねによる、いわば人知の結晶といえる技術。そして、新たな病が発見される毎に、新たな治療法、手段が研究されて、それが試されてきた。彼女が現時点での医学の限界を超えた病であり、それを治すためには、更なる挑戦が必要だった。それは、かつて彼女が私に対して施して下さったことだ。それに、その頃の彼女の状態は悪化を辿るばかりで、もはや一刻の猶予も無い状態だった。放っておけば、彼女は必ず死んでしまう。
だから、私はある夜に病院に忍び込んで、彼女の病室へと向いました。そして幸運に彼女の意識があったので、少しお話することが出来ました。自分を治して下さった時のこと、今の自分の現状、そして今からしようとすること。彼女の体の負担になるので、かいつまんで、一方的に私が話し掛けたが、彼女は静かに頷いて賛同して下さった。一緒に戦うことを誓い合ったのです。そして、彼女を連れて、病院を脱出しました。
三人は、あらかじめ用意しておいた、安アパートの一室に向いました。部屋を清潔に掃除して、この日のために購入したベッドに彼女を寝かして、そしてゾークと私二人で、彼女の病気との奮闘が始まりました。
慎重に薬の投与を続け、ひと月ばかりは順調に経過していきました。彼女の体に巣くった病魔は少しずつ力を弱めていきました。この時ほど嬉しいことはありませんでした。私の力が……いえゾークというたくましい味方がいたからですね、幼く未熟な頭を一杯に回転させて生み出した薬が、目の前で確かな効果をあらわしているこの嬉しさは!
救える、この人を絶対に救えると思いました。
しかし、それから一週間後……とんでもないことが分かったのです。彼女の病魔が、首から下の体だけだと思っていたのですが、彼女の脳にも侵入していたことが分かったのです。やがてその症状が表にあらわれてきて、彼女の体がケイレンしはじめました。慌てて私たちは、彼女が怪我をしないようにと体を押さえつけました。
私たちは混乱し、暫くお互いに言葉をぶつけるように激しく言い合いました。やはり無謀なことだったのか、恥も外聞も捨てて病院に帰るべきだ。いや、ここまで来て逃げられない、新たな治療法を考えて何としても救うんだ。……そうしている内にも、彼女の病状は刻々と悪くなっていくというのに、愚かで、幼過ぎた、あの頃の自分の姿を思い出すのが、とても辛い。
不毛な言い争いが続き、どれだけ時間が経ったか、ゾークの強い言葉に圧倒されて、ふと視線が泳いだ時に見た、死神に魅入られた彼女の姿……時間が、無い。私は、無理矢理話し合いを中断させて、ゾークに、一度落ち着いてコーヒーを飲もうとすすめました。コーヒーには、睡眠薬を仕込みました。ゾークは数口飲み、そして気を失わせた後、私は彼の家へと運びました。強引でしたが、盛った量は数日間眠り続けるほどです。すぐにまた戻って、私は一人で彼女の治療を続けました。
が、止まらない、治まらない。やがて彼女の体は、体重が普通の半分を切り、……ハッキリ感じたのです……彼女の死期が……もう、駄目だと。私は絶望し、ベッドの脇にもたれて頭を抱えました。彼女の姿を見ていられなかったのです。
その時、目の端に映ったもの……突然彼女の手が微かに震え、ゆっくりと、ゆっくりと持ち上がっていきました。人差し指を伸ばして、示した先、それは彼女の唯一の荷物である、馬の皮で出来た大きな肩さげ鞄でした。私は反射的に駆け寄って、それを掴んで、彼女の目の前に持っていきました。中を開けて、彼女によく見えるようにしました。大きく開いた鞄の口に、彼女の手がゆっくりと飲み込まれていきました。そして再び抜き出された手には、埃にまみれた、一冊の痛んだ手帳でした。
私が両手で受けるように組んで差し出すと、ポトリと手帳が落とされました。小さな手帳でしたが、私にはその時不思議にとても重たく感じました。
彼女は何かを言おうと口を蠢かすのですが、既に喋る力も残されていません。私は、頷きました、何度も、何度も、彼女の音に成らない声を聞いて、頷きました。
それから数分後、彼女は新たな朝日を迎えず、息を引き取りました。
私は床にベタリと座り込んで、両足を前に放り出し、彼女のベッドに背中を預けて、放心で、目の前の窓を眺めていました。静か……あまりに静かで、私は、怖くなりました。怖ろしくて、落ち着かなく、暗い闇、暫くその暗闇の中を、さまようように視線を泳がせて……滑り落ち、手元の、彼女の手帳へと導かれました。
それは彼女が旅の間、ずっと肌身離さず持っていたもので、もう何十年も前の古いもののようでした。表紙にデザインされた、顔の大半を覆う大きな鼻を持った豚の印……それは十数年前に倒産した有名な文具会社の品でしたから。ただ表紙は半分以上破れていて、泥水にも浸かったのでしょうか、茶色く変色していて酷いものでした。下手に力を加えたら、簡単にバラバラになってしまいそうな状態でした。
ソッと指先を立てて、慎重に、一枚一枚、めくっていきました。そこには彼女の足跡が、ノートの紙一枚一枚の隅々まで、ビッシリと綴られていました。ある少年の闘病の記録。彼女の長い旅は、この少年と共にあったんです。彼女は、各地に伝えられる秘薬や治療法を学ぶために、私財を投げ打って、世界中を旅していたのです。
その手帳の一部には、私のあの幼い頃の病気のことも一緒に書かれていました。もしかしたら、私の治療のことも、その少年の治療をするための勉強材料だったのかもしれません。
そして記録の最後には、こう書かれていました……あの子は真っ白い世界をさまよっている……本当に抱きしめられる温かさを知らずに……同じ夢の中をさまよい続けている……と。結局、治すことが出来なかったのでしょう。最後のページは、彼女自身、何度も見返したせいでしょう、手垢や汗で黒く汚れていました。
いったい、誰なんだろうと、私は思いました。
私は最後の文章を何度も見つめ、ふと時計の針を、窓の外の闇を見つめ、そして私は立ち上がりました。手帳を自分の上着の隠しにしまい、彼女の鞄を腕に掛けて、そして彼女の遺体を背中に担ぎました。夜の明けない真っ暗のうちにアパートを出て、街から飛び出したのです。
そしてこの街を流れる一番の大きな川へ行き、彼女の体を焼きました。灰になった彼女を、半分は川へ流し、半分は風に乗せて飛ばしました。彼女は生涯をかけて旅をしてきたので、死してもこのように、川の流れ、そして風に乗って自由に飛ばしてあげることが望みだと思いました。唯一、四角いサイコロのような骨だけが焼け残ったので、それは大切な宝物として、勝手ながら受け取りました。
そして私は、彼女の遺志を受け継いで、世界を旅しながら、各地にいる病に苦しむ人たちを救っていく道を進んでいく決意をしたのです。彼女の、あの手帳の……少年のことを探しながら……。
旅は長く、どこにいるとも分からない少年を探す年月。
しかし、今、気付いたのです。この少年のことが……この少年は……』」