表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/56

40:ママハドコ?

 療養所は、中心街から少し離れた、背の高い無機質なビルばかりが乱立したオフィス街の、保安庁の建物のすぐ裏手にあった。四階建ての立派な療養所だったが、周りに何十階もある大きなビルが沢山そびえているので、背の低いあそこは、周りに押し潰されそうな雰囲気だった。

『こんなビル街の一角に、療養所があるんですね』

『元々はこの療養所が、この辺で一番最初に建てられたものだったんです。時の流れで、段々と官庁や会社のビルが建てられてきましてね。それで、周りのビルのせいで、療養所へ光が届かなくなってしまいまして、ここのところ両者でトラブルが起きているんですよ。

 でもですね、お互い、いがみきれない部分もありまして……。この療養所の入院患者の半分以上は、この辺りの官僚や会社員なんです』

『なる、ほど』

 その辺りの関係の……黒い部分に関しては、とりあえずそれ以上聞く気は起きなかったので、口をつぐんだ。

『では、ついてきてください』

 と、彼が向っていく先は……保安庁の方の入り口だった。

『何故こちらに入るんですか?』

『患者は特別措置を受けていますので……ついてくれば分かります』

 入り口のドアの両脇には、それぞれ警備員が立っていて、私の姿を一べつしたが、その後ナタールの顔を今一度確認するように見ると、何事も無かったようにまたビルの正面を監視し続けた。


 中は、天井がとてつもなく高い大きなホールで、受付に二人の女性と男性が立っているだけ。耳が痛くなるほど静かで、まるで美術館か何かのようだった。

『今日も、例の金花の調査で、多くの人間が出張っているんですよ。私もそうですがね。しかしジーニズさんを療養所にご案内するのは、金花に関してのことでとても大切なことですから、どうぞお気になさらず……』

 突き当たりのエレベーターに乗って、ナタールは何かパネルに特殊な操作をした。体の陰になって見えなかったが、何か複雑にボタンを押しているらしく、やがてエレベーターが動き出した……下に。

『地下ですか』

『保安庁と療養所は、地下で繋がっているんです。そこから行くと、例の患者の療養室へと行けます』

『しかし、今さらですが、私をそこに案内しても大丈夫なのでしょうか? 何やら随分と厳重な所へお連れ頂けるようですが、色々機密上、重要な部分があるでしょう』

『機密といっても、療養所内の他の患者に対する措置ですから。

 それと、実はあなたのことを少し調べさせて頂きました。こちらの保安庁にあなたに関するデータを送りまして。ジーニズ・ホーチさん、あなたは昔、この国の大学で医術の勉強をなされていたようですね』

『……ええ』

『今、逮捕されているユ・ゾーク教授と特に親しく、共に学内で研究されていたようで、お互い薬学に関しては、学生の中でもずば抜けていたということで……』

『何を、仰いたいのでしょうか』

『もう何十年も前になりますが、ある薬害事件が起きまして、私の父が……父も保安隊の一員だったのですが……その事件を担当していまして、某大学の研究室が怪しいと踏んでいました』

 暗い地下へのエレベーター、取り付けられた室内灯の明かりの中で、私ら二人は見つめ合った。沈黙の中、お互いの目の中の色を探り合った。やがてエレベーターは、目的の階に到着して、扉の開く音が、室内に張り詰めていた緊張を解き開いた。

 ナタールはすぐに外に出て、背中越しに呟いた。

『しかしまあ、もう時効の過ぎた話でもあります。父は随分とその件を気にしていたもので、子供ながらまるで自分のことのように色々考えたりしていたんですよ。

まあ、とにかく、こちらへどうぞ』

 彼はこちらを振り向こうとしない、私は……後についていくしかない。


 随分と暗い廊下……明かりは点けられていたが、極力弱めに設定されているらしい。暗い沼のような、反射の無い灰色の床を、コツコツと硬い音を立てて、進んでいった。

 やがて正面に、廊下を遮断するように鉄格子がはめられていて、その奥で見張りをしていた者に声を掛けると、鍵が開けられ、そこをくぐった。その先の廊下は、右手と左手にそれぞれ二つの部屋の入り口、そして正面突き当りにも、もう一つ入り口。

 左右の部屋四つは、上の方に小窓の付いた扉で、そこには黒いカーテンが掛けられて、中は見えなかった。

 正面の入り口は、押し戸になっていて、開きっ放しになっていたが、すぐに右へと曲がる部屋の構造になっているようで、こちらも中の様子は何も見えなかった。

『ここで待っていて下さい。鍵を借りてきます』

 そう言ってナタールは、正面の入り口の方へと入っていった。私はその隙に、他の四部屋の前に近付いて眺めてみた。取っ手の横辺りには、頑丈そうな南京錠が取り付けられていた。扉も鋼鉄製らしく、所々、表面の塗装がはがれていたが、モノは古そうでも、いかにも堅固で分厚い扉という印象だった。私は手のひらをその表面に当ててみた。

『入りましょうか、ジーニズさん』

 ハッと気付いて、慌てて振り返った。少し動揺してしまい、不恰好な動きになってしまった。ナタールと、その後ろに別の男……肩幅がとても大きく筋肉質で立派な体格の、背の高い大男が控えていた。

『彼は隣の部屋ですよ、行きましょう。あ、後ろの彼ですか。彼は鍵の開閉係ですよ。あと、もしもの時のために、患者を抑えるための者です。患者の精神状態は不安定ですから……』

 その男は、どう見ても“こちらのこと”も警戒しているように見えたが……特に何も言わず、私は頷いた。

『じゃあ、開けてくれ』

 ナタールの合図に、男は黙ったまま、その部屋の前の……ちょうど正面の部屋の扉を出てすぐ右手の……南京錠に、手に持っていた、輪っかに束ねられた鍵束の鍵の一つを、差し込んで回した。ガツンッという重い音が、静かな廊下に深く響き渡った。南京錠を取り外すと、今度はまた鍵束から別の鍵を選んで、取っ手のすぐ下にあった鍵穴に差し込んで、もう一つ鍵を開けた。そして取っ手を回すと、ようやく全て開けられた。

 男がゆっくり押すと、ギリギリと金属の擦れる音を立てて、鉄の扉は開けられた。男は扉を一杯まで押し切って、九十度まで広げて、扉の下につっかえ棒を挟んで固定させた。

『では、お入り下さい』

 男に続いて、ナタールもそう言って、中に入っていった。私も続いた。

 どうやら部屋は二重扉になっていて、二つ目の中の扉は鍵は無いようで、そのまま押し戸を押して、ようやく部屋の……ベッドの角が見えた。

『今は、眠っているようですね。……気絶している状態、と言った方が正しいですか』

 私は部屋の奥に入っていき、次第に見えてくるベッドの様子……そのあまりに残酷な光景に、息を飲んだ。


 ベッドの上に、横たわる少年。上には何も掛けてあるものは無いのだが、ベッドの上下左右から丈夫そうな拘束ロープが伸びていて、彼の手足や体に絡みつくように、固定されていた。その姿は、まるで蜘蛛の糸に掛かった獲物のようで、緊縛された小さな少年の、あまりに残酷な姿だった。

 私は衝撃を抑え切れなくて、渇いた喉に唾を流して落ち着こうとしたが、ほとんど何の甲斐も無く、ただゴクリと大きな音を立てただけだった。

 するとその時……その音に反応したのか分からないが、少年の右腕がピクリ……と動いたような気がした。はじめは、それは単に自分の動揺による震えからの見間違いだと思った。が、そうではない、段々と腕の動きが、はっきりと分かるくらい大きくなってきた。右腕だけじゃなく、左腕も。右足も。左足も。胴体も。全身が……。

『いかん……これは……発作です!』

 フト気が付いて、少年の顔を見た。目や口が目一杯大きく開かれ、顔中に幾重もシワが出来るほど歪めて、狂気に満ちた物凄い恐ろしい形相をしていた。真ん丸く見開かれた二つの目は、真っ白、だった。瞳孔が、無い。金花の作用……おそらく彼は、目が全く見えていない。

『……ッア……ァアッ…………ァアァアァアッッ!』

 やがて少年の……人間の声と思えないような、凄まじい叫び声をあげた。全身に襲い掛かる苦痛。ジッと我慢など出来ない痛み。しかし、彼の体はがんじがらめに固定されている。ガシャガシャと、拘束ロープとベッドの柱が擦れて音を立てる。絶叫と騒音が交差し、耳を覆いたくなるような冷たいノイズが、地下の無音の療養室にコダマした。少年の顔が、吐き散らした唾や鼻水で、ドロドロに汚れていった。

『間欠的な症状ですから、暫くすれば治まります』

 ナタールがそう耳元で呟いたが、……だから、何だというのだろう、としか思えなかった。この少年の症状は、明らかに自分が味わった経験とは、比べ物にならないほどの重度だった。既にこの少年の意識は、壊れてしまっているだろう。目の前にいる彼が、まるで一匹の脳の狂った獣か何かのようにしか見えなかった。それが、まだ背丈の小さい少年なんだという事実が、逆に信じられなかった。


『ほら、段々と治まってきました。注意して下さい、何か話しかけるなら今です。症状が治まってきた後、数分の間が、わずかに会話出来るチャンスです。その後は、死んだように眠ってしまいます』

 私は正直、気圧されていた。だが、下がるわけにはいかない。私はゆっくりと、彼のベッドの横へと向った。

 確かに症状は和らいできていた。まだ全身を、ビクンビクンとケイレンさせているが、叫び声は静まっていた。目を見開き、顔を横に傾けて、筋肉が弛緩していて、口から細い涎の筋が続いていた。顔面は蒼白で、紙のように生気が無い。幾度もの発作による原因だろう、わずか十歳かそこらとは思えないような、顔には細いシワやシミが幾つもついていて、まるで老人の顔のように見えた。真っ白い目は、一体どこを見ているのか、角度からして、私のいる方角だろうということだけしか分からない。

『君、聞こえるかい?』

『……………………』

『ン? 何だって?』

 確かに、微かに唇が動いたのは分かった。

『もう一度言ってみて?』

『…マ……マ………』

『……………………』

 少年が、笑った。この時、初めて私が見た、少年の、子供らしいといえるような、屈託の無い笑顔だった。

 私は戦慄を覚え、目眩さえ感じた。全身から血が抜けていくような、虚脱感を感じた。何なんだろう、この笑顔は。何か信じ切っているモノに向けられた、一心で一途な笑顔。それが、全身ボロボロの、老人じみた少年の顔に浮かび上がった。

 再び、少年の唇が震えた。今度はゆっくりと、言葉を紡いだ。

『…マ……マ………ド…コ………?』

 ママはどこ?

『ママは、ここにはいないよ』

 私は思わずそう返事をした。

『…ドコ…ニ…………イ…タ………ノ…?』

 どこに行ったの?

『ママは、別の場所にいるんだよ。この部屋にはいないよ』

『…ウ……ソ……ダ…………サ…キ……マデ…………』

『この子は、母親と一緒にいる夢を見ているんだ。夢と現実がゴチャゴチャになっているんですよ』、ナタールが説明するように言った。

『…マ……マ………アイ……タ…イ……』

『ママは、いないんだ。けど、君の体が治れば、会いに行けるよ』

 無責任にも、私の口は、勝手にそう言ってしまった。治る? 会える?

『……ハ…ナ………キン……ノ……ハ……ア……ゥ………ッ……』


 やがて彼の意識は、プツリ……と切れてしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ