36:色が無くなる
黒い“彼女”は、上から威圧的に見下ろして、私に言った。
『今すぐに、この村から出ていけ。二度と近付くな』
『それは、できません。あの林檎腹と約束したのです。あの男の妻を助けると。あなたが、そうですか?』
『いや、違う』
『では、行かなければなりません、金花の村へ。あの男との、かたい約束です』
『あいつはもう、村へと戻した。もう二度と、お前はあの者と関わることは無い』
『そうはいきません!』
私の叫びに、彼女がいささか怯んだ様子を見せたのが見えた。
『はっきりと警告する。このまま村へ行けば、お前は“必ず”殺される。無理に向ったところで、貴様は長老の命令によって、消される』
その彼女の言葉には、気のせいじゃない、何か黒く濁った感情の混じっているのを感じた。
『あなたは誰なんですか?』
『……全てを、断罪する者だ』
彼女は、村の裁判長、ということか。
『村の外は、法治圏外。今、引き返せば、間に合う。早々に立ち去れ』
彼女の顔には、極めて真剣に、こちらの身を案じてくれていることが、しっかり伝わってきた。私は、彼女の親切を素直に受け取るべきだと思った。
『分かった。今日のところは引き上げる。だが、一つ、私のお願いを聞いては頂けませんか?』
彼女は無言でジッと立っている、話を聞いてくれる。
『あの男に、伝えてくれませんか。私の名は、ジーニズ・ホーチ。私は、あなた方がいづれ、こちらを訪れてくれることを待っている。私は世界中を旅している。私の名を使って探してくれ、私はいつでも、いつまでも待っている、と』
静かな風が二人の間を流れていった。言葉はもう無く、彼女は後ろを向いた。ただ、振り向く寸前に、かすかに縦に頷いてくれた……気のせいだったかもしれない、それくらい僅かな頷きだった。
そして彼女は、無言で、村の方へと帰っていった。今、私がそこにいたことを知らない風に装って」
ニージズはそこで言葉を結んで、床に置いてあった布袋から、また新たに一本巻き煙草を取って、火を付けて吸い始め、のろしのような白い煙の柱を吐き出しました。
「それで、林檎腹さんとは、出会えたんですか?」
エウムが訊ねました。
ジーニズは煙草を、音楽の指揮棒のように振って、バツを作りました。
「いや、残念だが、まだ出会えていない」
そして、まだほとんど吸っていないのに、長い煙草を床に擦り付けてしまいました。
「もう五年以上の月日が経っているし、もうあの子は……亡くなっている可能性が高い」
「私はあの村にいましたが、行方不明になって、それから分からなくなっています。林檎腹さんも、奥さんも……」
「本当かい?」
「色々ありまして、奥さんがいた家に火をつけられたのですが、死体が出なかったと……」
「焼け死んでしまったんじゃないのかい」
「その時は、そう長老様が締め括られました。けど、同時に林檎腹さんもいなくなって……そのことは誰も気にしていられなかったんですが……」
「フム。もしそうなら……村を出て、私を探しているのだろうか」
彼は腰を上げて、窓枠に肘をのせて、顎を掛けて外を眺めました。今日は少し曇り空のようで、薄い灰色の雲が天一面に蜘蛛の巣のように張っています。まるでこの雲が、林檎腹との隔たりの壁のようにも思えてきました。
「そういえば肝心の話からそれていたね」
ジーニズはあえてエウムの方は見ずに、また一本煙草をつけて、話し始めました。
「それで女に言われて、村から離れてからが、大冒険だった。灼熱の荒野、それもあったが、“別の苦しみ”が私を襲った。金花だよ。
あの女との口付けの時、口渡しで流れ込んできた、花の原液。金花など持っていない私は、断続的に、禁断症状が襲ってきた。その度に私は、広い広い荒野で一人、のた打ち回って叫んだ。岩があればそこに頭や手足を打ちつけ、一通り苦しみが治まるまで、血塗れになって転がり回った。まるで体中の神経の一本一本に、金花の根がそっくり入り込んで、内から痛みを刺激してくるような感じだ。それこそ、自分の体をコナゴナにして砕いてしまいたいほどの辛さだった。私は身をもって、金花の効力の全てを知った。ただでさえ、体力が無くなりかけていた時だ、しまいには、暴れる気力さえなくなってきて、体を投げ出して、かすかに残っていた意識の端で……死を覚悟した。
空を仰ぎ、青、赤、黒、空の色というより、一枚の板の色が三色に変化しているようにしか見えなかった。曇ることも雨が降ることもなく、ただひたすら広い一枚絵……色の変わっていく壁のようなものを、何も考えることなく見続けた。それが何度も何度も……私は、死ななかった。
すると……いつからかというハッキリした境は分からない……空が黒く染まって、それから空の色が変わらなくなった。どれだけ経っても、真っ黒い空。終らない夜。この時には、ついに自分は地獄へとたどりついたのかと思った。が、どうも違う気がする。
僅かに残った力を振り絞って、首を横に傾けた。陽炎で揺れる地面、大地も、真っ黒だった。その奇妙さに驚いて、私は反射的に上半身を起した。大地が、空が、全て目の前の景色が“真っ黒”。物の形は、色の濃淡で認識できた。ゴツゴツとした黒い岩の隆起が、無気味だった。
ハッと気付いて、私は自身の手を上げて見た、……その手も黒い。シワの一つ一つが、引っ掻き傷かのように、無数に線が入っている。やがて悟った、『私の目がおかしくなったんだ』と」
ジーニズはエウムの方に顔を向け、右手を目の辺りへと持っていき、親指と人差し指で、両目のシワの重なった下まぶたを、ソッと下に伸ばしました。広く開かれた両目は……ほとんど真っ白くなっていました。
「私の瞳は、色を感じる能力を失った。しかし、物の形は判別が出来た。そして……そしてさらに一つ強い能力が……私は暗闇でもハッキリと、遠くを見渡せるようになったんだ。どんな闇夜でも、こうして窓の外を見れば、岩の間をチョロチョロと駆ける、小動物たちの影が見えるんだ。
そのかわり、昼間でも色が無く薄暗い景色を見ることになるが、不思議な力を手に入れたものだ。
そしてその日一日、私はその辺の石ころと同じように、昼夜転がって過ごした。体力の回復のために。そして次の日の夜、私は満天の星空の中に、十字星を見つけた。古代の開拓時代、祖先は空の十字を目指して旅をしたという伝記は、世界中に残っている有名なものだ。私は、その十字の星星の神々しい輝きに導かれて、再び体を起こして、また歩き始めた。幸いに夜目に利く目となったことだし、体力も昼夜の休憩が効いたのか、不思議と軽い足取りで進んでいった。夜に歩くとすれば、真昼の陽の暑さを避けられたしな。
やがて、私はこの小屋の前へと辿りついた。意識はモウロウとし、昼も夜も分からぬ目で、この……今いるこちらの小屋の扉にしがみついた。倒れ込む勢いで、扉が開いて、中に転がり込んだ。そして、何日もの間、私は死んだように眠り続けた。
次に意識が戻ったのは、喉の激烈な渇きに起されたからだった。必死に体を引きずって水を求め、カピカピの筋肉は少し動く毎に軋む音を立て(それは体の内から、直接筋肉とくっ付いている骨を伝って、“体中に”うるさいほどに鳴り響いた)……家の中には何も無い……外へと這って出ると、目の前に舞う砂埃の先に、石で出来た古井戸を見つけた。後で外に出たらエウムも見てみるといいよ。それは実に頑強な石組みで作られた井戸で、中を覗いてみても、底が全く見えない、上から見れば、星のど真ん中まで続いているんじゃないかというくらいの穴だ。
私は、手持ちの水入れの容器を、服の端を千切って取った紐で結んで、中へと放り込んだ。かなりの深さで、一度目は届かなくて、また引き上げると、さらに服を千切って紐を取って、繋げて……三度ほど繰り返して、ようやく水面についた。途中で『井戸が枯れてしまっている』ということは考えなかった、そんなことは、生きるか死ぬかの今、考えても仕方が無かった。
容器は手のひら位の小さな物だから、すくえた量は僅かだった。私はその水を、こぼれないように慎重に喉に流し込んだ。喉まで届くより先に、ほとんどが舌にしみ込んだ。舌もその時は乾き過ぎていて、まるでカサカサの綿のような状態だったから、ようやく水分を取り込んで、口の中が多少回るくらいになった。そしてようやく、『フゥ……』とため息をつくことが出来た。
もう一杯、二杯飲んで、落ち着いて、またその場で倒れ込んだ。今度は、安心して、だった。黒い空を眺め、今は、夜なのか、昼なのか、時間はどうなっているのかを、漠然と考え出した。