35:未知体験
「あの口付けをした彼女は、女神だったのだろうか?」
エウムは返事に困って、俯いてモジモジとしました。もとよりジーニズは答えを期待してはいませんでした。
「フフ……少なくとも私には、あの女には何か特別な意味があって私に近寄られた、神様だったと信じている。夫の目の前で、他の男に口付けをした女だがな」
「あの、その林檎腹の人ですが、奥さんはいないはずです」
「ん?」
「あの人は……村八分の扱いをされていましたから……」
「分かっているよ。あの男は……あの男の愛は、神の愛だ。単なる男女の恋愛というものではない、もっと普遍的で温かな、聖なる愛を持っていた。聖なるゆえに、俗なる者には疎まれる。神は生命皆全てを愛すが、人が神を愛すのは……ここには様々な齟齬や間違いが生じる。人には“欲”があるから、目を濁す。人は決して神にはなれないし、神と相対することも出来ない。しかし、神の言葉は聞ける。きっと、あの林檎腹は、その声を聞けるのではないだろうか……」
「…………」
「話がそれたね、戻そう。
といっても、あの時あの瞬間の記憶は、ほとんど無い。というより、周りに意識を持っていく余裕が無かったというのが正しい。私はただ、七色の太陽の輝きを眺めているだけだった。光の分裂の影に、懐かしい人の姿を見つけるのに夢中だった。
最後に見たのは、母の姿だった。母は私を生むとともに亡くなったから、当然会ったことは無い。しかし、しっかりと私の目の前に母の顔が現れた。私と、とてもよく似た線のような細目で、母は優しく私を見つめてくれた。それに勝る温かさは無かった。私の心はすっかり幼少へとかえり、母の元へと駆けようとした。が、それを母は、手を立てて静止させた。私は心の声でその理由を聞いた、『どうして?』
母は真剣な眼差しで、私を見据えて言った、『あなたには、まだするべきことが沢山ある、そんな暇は無いのよ』
また私は聞き返した、『僕のするべきことって?』
母はまた答えた、今度は優しげな笑みを浮かべて、『あなたは、父として、世に居る病める人々を助けるの』
『僕が、父?』
『あなたには力がある。だから、私の最後の、最後の力添えをしてあげる。頑張って』
すると母が、フッと姿を消した。いや、私は感じた、私の体の内に、母が入り込んできたことを。私の腕、指先一つ一つに、母の腕と指一つ一つがピッタリと重なった。足も同じように。私の動く心臓に、母の鼓動が重なった、共に動いていった。そして、母の顔が私のそれに重なった時……その時の体験は、たった一度の瞬間のことながら、それは……とても素敵な体験だった。母の脳が私のと重なった瞬間、私の腹部に痛みが走った。間欠的に続く苦しみ、その痛みは、これまで掛かってきた腹部の病気などとは、どこか違っていた。その痛みは段々と強まり、ついに我慢の限界まで迫ってきて、気が狂いそうになるほどの辛さだった。が、途端にその後に、サッと痛みが引いて、さっきまでの苦しみがまるで嘘だったように……私の心には嬉しさ、何ともいえない充足感で一杯になった。そして、気付いた。さっきまでの苦しみは、決して悲しみというものには包まれていなかったと、そのことに気が付いた。不思議な、不思議な痛み、そして喜びだった。痛みの傷口を、喜びの潮が温かく包み込んで、癒してくれる……そんな感覚。それは男の私には、全く未知の経験だった。
やがて、目の前の夢のような極彩色は、急激な勢いで一点へと……輝く白い光へと集束していき……刺すような光線……真っ青な空……ハッと気付くと、太陽を背に一人の影が、上から覆うように立っていた。