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34:分裂していく光の中に

 その人の口が、動いた。動いたのだが、何を言っているのか分からない。どうやら耳もいかれてしまったらしい。彼女に答えるように、林檎腹も口を動かしたが、すぐ近くにいる彼の声も全く聞こえない。呆然と彼らの無音の会話を見ているしかなかった。時折、女は私を指差したりした。

 そして、女は突然、林檎腹に……口づけをした。そのまま、林檎腹を押すように、地面に倒した。草むらの上で絡み合い、林檎腹は背を上に向けた。まるで金花がそこに咲いたみたいになった。女が、その枝を掴んで、花びらを丸呑みするように、花の頭を口に含んだ。丸ごと、種も何もかも一緒くたに食べたんだ。その姿は、鹿か何かが野花を食べているように。自然の美しい光景を眺めているような気持ちを覚えた。林檎腹の背に乗っかって、女は愛しそうに金花を食べ続けた。しかし女は果たして、彼を愛して? 花を愛して? ふとそんな疑問が浮かんだりした。女の湿潤した瞳には、不思議な色が浮かんでいて、一途に彼の背中を見つめ続けていた。偏執狂じみた、一直線の目をして。彼を? 花を?

 やがて女は彼の背から離れ、真っ直ぐ立ち上がって、私を見た。彼女の長い髪が……そのウェーブ掛かった癖毛が横に大きく広がって、私の前に立ちはだかった。その表情は……やはりよく分からない。睨んでいる? それとも微笑んでいる? どちらとも違う、ジッと私を見つめて、私の心の内を見透かそうとしている……見定めている、そんな疑念交じりの視線。ただ決してその中には、敵意のような攻撃的な意識は、彼女の視線からは感じなかった。

 彼女が足を踏み出した。私の目の前に立った。それでも、私は彼女の顔がよく見えない、靄掛かって真っ白だ。きっと空の太陽の光のせいだ。彼女の肌が病的に白く、それに反射して、目鼻立ち、輪郭さえも不鮮明だ。

 彼女の両の手のひらが、私の両頬を、包み込んだ。そして彼女は顔を近づけ……口付けした、この私に。その唇はまるで人形のように、、冷たく、肌触りはボロボロだった。そして私の口の中、鼻腔にはい上がってくる、金花の毒々しい甘い香り。否が応でもその香りを吸わされ、酔った。もっと、もっと、もっと! 気付かぬうちに、私は彼女の口の香りを多く飲もうと、しばしの間夢中になって、むさぼっていた。蜜より甘い香りが、その時の私の灼熱の苦しみを和らげてくれた。熱さも、痛さも、全てを忘れ去った。彼女の唇を求めた。彼女を愛しいからとか、欲情したからとか、そんなことじゃない。ただ、彼女の唇が欲しかっただけだ!」


 ジーニズは興奮のあまり、激しく呼吸を、吸って吐いてを繰り返しました。煙草の煙は拡散され、薄モヤを作って顔を隠しました。


「すまない、話しているうちに、あの時のことを鮮明に思い出してきた。

 彼女の後ろに、林檎腹の背の花が見えた。彼は気を失っているのか、俯いて地面に伏せたまま、全く動く気配を見せない。背の花が、吹き流れる風によそいでいる。私は彼女の口付けを受け続けたまま、彼が目を覚ました時のことを想像した。彼は嫉妬に怒り、私を突き飛ばす? ……そんな気はしない。不思議だが、彼は私と彼女との濃密な口付けを目の当たりにしても、その光景を大人しく見つめ続けるだけ……そんな気がした。彼は彼女を愛している。しかし、その愛には何も憎しみは含まれない。自己のための愛じゃない。打算の含んだ愛じゃない。同じ生きとし生けるもの同士に対して偽り無く注ぐ愛……慈愛。そう、私の思ったとおりだった。彼は、地面にしゃがんだまま、私たちの抱擁を遠くから見つめていた。時が経ち、全てが終るのを待って。

 やがて、頭の後ろに回っていた、彼女の腕の力が緩められ、それと共にソッと唇は離れていき、私は彼女から解放されると、そのまま地面にへたり込んでしまった。尻に小石を挟んだが、痛みなど何も無く、ベタベタに濡れた口元をだらしなく開いたまま、背中がゆっくりと後ろに倒れていき、天を仰ぐように転がった。勿論空には、サンサンと輝く太陽があった。私はその太陽の真ん中を、ずっと見つめた。白い光が、七色に分裂している。間違い無く、それは金花の症状からだろう。けどその時にそんなことをいちいち考えてはいない。ただ『綺麗だ』と眺め続けた。

 心が、破裂しそうだった風船に穴が開いたように、胸の張り裂けそうな辛さが無くなり、そこに清浄な空気が流れ込んできたように、清々しさ心地良さに……私は涙した。頬に熱い雫が、とめどなく流れていった。涙の当たった部分の皮膚が、にわかに活性し出したように感じた。体中の細胞が、喜びに沸き立ったような感じだった。

 ふと、過去の記憶がその時に、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡った。これまで私が憎んだ、男、女、子供、そして妻。彼らの姿が、眼の裏側に張り付くように、映った。そして、彼らに対する私の感情が……憎しみの情が“溶け消えていった”。私を裏切ったあの“女”のことが、とても愛おしく思えた。彼女の、笑顔、悲しみの顔、怒りの顔、彼女が私の顔に向って手を張った時のあの凄まじい形相!

 全てが……こんなに彼女の顔は切なげだったのか、こんなに彼女は悲しげだったのか、こんなに彼女は辛そうだったのか。私は、過去の私を憎んだ、恥じた、悲しんだ。そして、今生きている私を感謝した。喜びが、悲しみ全てを噛み砕いた。私の心は“形”を崩し、分子さえさらに砕けて、原子となった。原始の姿となり、空を……あの高く広い大空を自由に飛べるようになった!」


 ジーニズは、どこか薄く照れた表情で、エウムを見ました。

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