28:[第三節]方術士 ジーニズ・ホーチ
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「…………」
「気付いたかな?」
「…………」
「大変だったね、峠は越したよ」
「…………」
「覚えてないかい? 君たちは砂漠で倒れていたんだよ。あんな何も無いところで偶然にも出くわすなんて、何かの導きとしか言いようがない」
「…………」
「もうしばらく、ゆっくり寝ていなさい。ようやく直りかけてきたんだから」
「…………」
「君の連れも大丈夫だよ。ただ少し辛抱の要る治療を施しているから、君ももう少し回復して、落ち着いたら会わせてあげよう」
「…………」
…………
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……戻った光は、またすぐに闇に塗り潰されて、底の底へ……
エウムの意識が再び戻り、はっきり目を覚ましたのは、それから二日後の夕方でした。赤く、くすんだ夕日に眼を照らされ、眩しげに目を開けてみると……そこは粗末な木の小屋のような景色でした。四角く切り取られた窓枠の外に、山の巨大な黒い背中の後ろに落ちていく日が、空は赤黒く陰うつに染まり、その日の終わりを示しています。ふとウジカのことを思い出しました。
「ウジカ……ウジカッ」
辺りを見回して叫びました。部屋は、今、自分が横になっている寝床の他に、木で作られた手作りのような質素な机があるばかりで、あとは物自体がほとんど何も無く、閑散とした様子でした。机の上には火の付けられたタイマツと、その手前に小さな古めかしい本が一冊あり、読みかけでどこかへ行ってしまったのか、中を開いたまま反対に伏せて置いてあります。エウムは寝台(これも手作りのようで下の木の細長い箱の上に敷布を置いてあるだけのものです)から降りて、机の前に向いました。本の表紙を見てみたのですが、どこの国の言語なのか、何と書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。
「その本は私の一番の愛読書だよ」
男の人の声……顔を上げると、部屋の入り口に一人影が立っていました。部屋の薄暗さのためによく見えませんが、タイマツの光を頼りに見ると、白い髪と髭を顔中に沢山たくわえた、初老といった感じの人でした。全身にダブダブした、大きな白いローブを羽織っていて、その姿は少し村の長老様のことを思い出させられました。
「もう大分、回復したようだね。目の光で分かる」
「……あの?」
「私はジーニズ・ホーチというんだがね、ジーニズと呼んでくれていいよ」
「ジーニズさん、あたし、段々思い出しましてきました。砂漠を歩いていて、途中から……記憶が無くなってしまいました」
「ウン、無理もないだろうけどね」
ジーニズは手に色々な野草を持っていました。机の上にそれを置くと、シワだらけの指で、葉を千切ったりして、何か始めました。
「薬草だよ。まだしばらく飲んだ方がいいよ」
「お医者様なんですか?」
「ン〜、医者というか、仙人というか、魔法使いというか。……まあ色々な術を勉強しているジジイだよ」
ジーニズは冗談っぽく笑って、笑みをエウムに見せました。それが少し彼女の心を安心させました。
「あたしは、エウムっていいます」
「ウン。……唐突なことを聞くけどね、君は……君たちは、もしかして金花畑の村の子か?」
「は、ハイ……そうです」
「いや、君の連れの姿を見れば一目瞭然な話だけどね。君のような女の子が、村の外を歩いているってことは、ちょっとビックリな話だからね」
「あの、ウジカは?」
「あの子は別の小屋にいるよ。ただ少し治療に時間が掛かりそうだから」
「無事ですか」
「ン〜、正直に言えば『分からない』……かな。ただ今は病状は多少落ち着いているよ。後で見舞うかい、少しだけなら会っても大丈夫だから」
そしてジーニズは、選り分けた薬草を、手に持っていた小さな鉢の中に入れて、木の棒でゴリゴリとすり潰しはじめました。草の青臭い濃いにおいが鼻を突きました。ジーニスは鉢を持って一旦扉の外に出て行き、またすぐに中に戻ってきました。
「水に溶かした。こうした方が多少飲みやすいと思うよ」
そして鉢をエウムに手渡しました。
「その薬草の汁を飲むと、また全身に汗や寒気が出るかもしれない。けどそれは体が治ろうとしようとしている兆候だからね、ジッと耐えて……ゆっくり休むことだね」
「あたしは、病気なんですか?」
「体中に染み付いている。けど、治らない程度じゃない。もう峠を越しているから、ここで完治させるべきだよ」
「はあ……でも病なんて……」
「金花の毒だよ」
「金花……毒? 毒って?」
「文字通りだよ」
「…………」
「君の体には、随分深くまで染み付いていた。あの村で生まれて育っているんだから当然だろうが。しかし村を出て、いきなり金花から離れてしまったせいで……“枯渇”したんだ。ただ、君は症状としては軽い方だよ。回復も早い」
「よく、分かりません」
「君が彼を襲ったのは、勿論、彼の背の金花を求めて、だ。元々の体の疲労と重なって、すぐにでも“花”を欲したんだ。だが彼の背中の花は、彼の病によって死にかけていた。黒い膿まで飲んだが、それは無茶過ぎた。私が通り過ぎたのは偶然にしても良かったよ。すぐに吐かせたから、君の口に無理矢理、手を突っ込んでね。まあ、とにかく薬草を飲みなさい」
エウムは、ジーニズの話すこと一つ一つが、あまりに唐突なことばかりで、しばらく鉢を掴んだまま、恐る恐る、中の緑色の不思議な液体を覗き込んでいました。しかし、彼の顔の優しげな笑みを、何度も確認するように見て、そして慎重に少しだけ……一口、二口、三口…………いつの間にか不思議と、まるで体がそれを求めているように……ドンドン口の中に流し込んでいって、そして一気に全て飲み干してしまいました。言われたとおり、彼女の肌に粒の汗が吹き出て、凍てつくような寒気が体の中を、手足の指の先まで駆け巡りはじめました。
「さあ、もう日が暮れてしまった。横になって……おやすみ」
意識が切れる寸前に、ふと突然、浮かんできた人の顔は、エウムの父親でした。