25:元締め・林檎腹の男
そこは中心街から少し離れた、いわゆる旧市街で、古い木やレンガの家の建ち並んだ風景が続いています。所々には、雨風で風化し、もう少しで崩れてしまいそうなほど汚らしい家もありました。
ニースキーの足取りは不安定なものの、どこか確信を持って歩いているようにもみえます。この辺りは、仲間内ではほとんど来たことの無い場所でしたが、ズンズンと、家と家の間に開いた、隙間のような細い小道にも迷い無く入っていき、そしてやがて、ある一軒の木造の家の前で、その足が止まりました。
その家の壊れ方は相当なもので、屋根はおそらく地震のせいか、斜めに歪んで湾曲し、壁は亀裂が入り、その上にツタのような長い植物が、ビッシリと一面を覆いつくすように生えています。まるでツタの存在が、家全体を支えるように縛りをかけて、かろうじて形を保っている……というような様相です。また地震があれば、全て粉々に崩れて、木屑の山になってしまいそうなほど、危なっかしい雰囲気です。
その家の中へと、ニースキーは入っていこうとします。
「ちょっと待て! 危ないんじゃないかこの家! オイ! 止まれ!」
しかし彼の瞳は呆然として、意思も無く勝手に足が動いていくようでした。二人はニースキーの肩から離れると、しかしそれでも彼は倒れず、扉の無い(とっくに壊れて無くなったのでしょう)、開け放たれた暗い入り口の中へ、姿を消してしまいました。
二人は暫く見合わせて、しょうがないとため息をついて、恐る恐る家に近付いて、入り口の横から首を伸ばして中を覗きました。床は思ったとおり、アチコチ穴が開いていましたが、意外だったのは、その床には泥土などの足あとが無数に付いていたことでした。勿論その内の幾らかは、今入っていったニースキーのものでしょうが、それとは違う、もっとずっと前に付いたと思える乾いた土の足あとが、沢山あったのです。
「とりあえず、行ってみるか」
「……ああ」
二人はさっきとは少し気持ちが違ってきて、ドンドン気持ちが高揚してきて、もっと奥を覗いてみたくなってきました。二人は音を立てないよう忍び足で、入り口をくぐりました。そして慎重に床を見て……下手して床の腐った所を踏まないように……おっかなびっくり進みました。
隙間だらけの壁から、細かい光がパラパラとまばらに零れています。埃のような砂のような……塵が霧のように浮かんでいて、すえた臭いが立ち込めています。口と鼻を手で覆って、軋む床を静かに歩きました。
やがて、馴染み深い香りが混じって臭いました。これは……ついさっき飲んだ金花の香り……間違いありません。濃密な甘い匂いと、木の腐った臭いが混じり、いやらしいほどにどぎつい香りに頭がクラクラしてきます。
正面の扉の跡をくぐると、そこにニースキーの背中がありました。彼の前には、横倒しのタンスの上に座った、お腹が林檎のように大きく膨らんだ醜い男と。側の床には、上半身裸の痩せこけた女が、だらしなく床に寝そべっていました。
「ニースキー」
二人はとりあえず彼に声を掛けました。振り返りました……どうやらもう気が落ち着いて正気のようです。
「ああ、何とかなったよ」
「何が?」
「金花だよ、このオッサンがこの辺一体の売人を仕切ってる奴だって」
あらためて林檎腹の方を窺いました。男はだらしない笑みを浮かべ、腹や腕をしきりに掻いています。背中に何か見えて、首を伸ばして見てみれば、そこにはあの金花が根元を埋めて生えています。
「な、なんだ、コイツ……」
「このオッサンが金花を栽培しているんだって」
「こ、こういうやつを飲んでたのか……」
「ウウーッ!」、突然の狂った喚き声にその場の皆がびっくりしました。
それは床の女の奇声でした。女は、苦しそうに己の胸を揉みしだき、真上を向いて歯を剥き出して、そして林檎腹を睨みつけました。ひと跳びで林檎腹の背中へ、押し倒すように、ガラガラと音を立て、二人は埃にまみれて転がりました。そして……女は牙を鋭く立たせ、背の花に噛み付きました。葉や花びらを削るように、歯に挟んでは引っ張ります。
「ウー……ウー……」
林檎腹は、顔中に脂汗を山ほど浮かせているのに、歯を食い縛って、女の所業に耐えているように見えます。
やがて女は、口の中にある程度、千切れたものを含むと、林檎腹を乱暴に突き飛ばしました。ひざまずいて中腰に、クチャクチャクチャと、涎が垂れているのも気にせず、反すうし続けて、やがてひと飲みしました。そして、操りの糸が切れたかのように、力無く倒れました。倒れてなお、汚らしく涎を流し続けています。
「コイツ、花を丸ごと食ってやがる、そりゃ気が違うよ」
うめき声を上げて、林檎腹がヨロヨロと体を起こしました。乱れ折れ曲がった背中を適当に整え、そしてまたタンスに座りました。
「オッサン、この女はアンタの女か? もう遅いかもしれないけど、あんまり金花食わすなよ。死ぬぞ」
「ヘヘ……ヘヘ……」
「……オッサンも大丈夫か?」
「ヘヘ……ヘヘ……」
気が抜けて、二人は再びニースキーの方を向きました。目が合うと、彼はニヤリと意味ありげに笑みを浮かべました。
「なあ、ちょっと見てみろよ」
親指で指した後ろ……林檎腹のタンスの後ろの辺り……肩越しに覗きました。ボロボロに破けた布に包まれて、小さな赤ん坊が横たわっていました。
「なんだぁこりゃ……コイツラの子供か?」
「ああ、本当にびっくりなのがな……なあ、この子供、何歳くらいだと思う?」
「あー……どうだろう、一歳なるかならないくらいか」
「十歳くらいだってさ」
「十歳!? そりゃ無いだろ。だって抱いたら、腕ン中にスッポリ入りそうなくらいだぜ」
「オッサンに直接聞いてみろよ」
林檎腹は、何故か照れているのか、しきりに頭を掻いてにやついていて、ハッと視線に気が付いて口を開きました。
「ヘヘ……ワシがそだててるんだ。かわいいだろう? だけどよう、コイツ、ドンドンちいさくなっていくんだ……ずっとねたきりなんだけどよ、ちょっとまえは、いまのふたつぶんは、おおきかったんだぜぇ。はんぶんにちぢんじまった。まあちいさくなって、かわいいっちゃあかわいいけどな」
果たしてふざけているのか、そう言って軽い笑い声を上げました。
「どこか悪いのか?」
「ねてばっかりなんだ。おきているとこなんて、とんとみねぇ」
再び赤ん坊を見つめました。背丈が小さいことは勿論、肌もツヤツヤと張り良く光っています。これはもうきっと、林檎腹の頭が完全にいかれていて、でたらめな嘘を言っているに違いありません。何故、そんな嘘を言う意味があるのか分かりませんが……。
さらに首を伸ばしてよく見ようとしたら、はて、何やら嗅ぎ慣れた香りが漂ってきます。それは、この部屋の中で感じた中で、もっとも濃密に沸き立っていました。
「オイ、この部屋の金花の匂い、この赤ん坊から一番匂うぞ」
「そりゃ売人の元締めだぜ」、ニースキーが皮肉っぽく言いました。
「オッサン、こんな小さな赤ん坊に、こんなに匂うほど金花の種をやったら、治る病気も治らないぜ」
「なー、かわいいネガオだろう?」
「いや、そりゃ違うだろ。真っ白い夢見てるんだろうけど、きっと頭はいっちゃってるぜ」
「くっちまいたいくらいだけどさ、こうしてやるだけがせいぜいさ」
そして林檎腹は、赤ん坊を抱き上げると、舌を思いっ切り垂らして、ベロベロと顔を舐め回しました。濡れた頬やまぶたや額に、埃が付いて真っ白になりました。そんなことは、構わず気にせず、愉快げに舐め続けます。
「まあいいや」呆れ調子に、ニースキーの方を向きました。
「それで、どうするんだ?」
「このオッサン、一つお願いがあって、それを聞いてくれたらタダで金花をくれるって」
「タダで? よっぽどのことなんだろうな、お願いって」
「売買の手伝いをしてくれってさ」
「……つまり俺らが売人になれって?」
「ソウソウソウ、てがたりねぇんだ、たのむよッ」林檎腹は粒飛ばして言いました。
詳しく聞けば、ここのところ、この男に頼んでくる連中が多くなったといいます。最近、業者の人間が死んだり、金花自体が手に入りにくくなったりと、不穏な状況を呈してきました。林檎腹は自家栽培をしているので、ここに来れば必ず手に入ると、当てにする者が増えたとのことです。
「どこにあるんだ、その畑は?」
「ヘヘ……コッチでさ」
指差した方には朽ちた木の扉があります。軋んだ音を立てて開きました。パッと真っ白な外の光に、思わず目を覆って、たじろぎました。次第に目は慣れてきましたが、それにしても物凄く眩しいです。まるで目の前に、太陽が落ちているのではないかと思うほどです。ゆっくり目を開いていくと、白い景色の中に、かすかに花の輪郭を感じるばかりです。
「なんて眩しさだ……これは一体」
「このハナには、ヒカリがとてもたいせつなんだよッ」林檎腹が、後ろに寄って説明します。
「タップリタップリ、ヒカリをあびて、そのチカラをすいこませるんだ。ヒカリがないと、いいハナをさかさないッ」
よくみれば、そこは小さな中庭で、周りの壁の四方に、銀色の板が隙間無く立て掛けてあります。それに反射して、まるで針のように、鋭い光が射られていたのでした。
「このせわは、あんたらにはできない。うりにいってくれないか?」
三人は集まって、ヒソヒソと話し合いました。
「どうする?」
「タダで譲ってくれるってのは大きいぜ」
「けど大丈夫か?」
「お前の親父、金花の売人を追っているんだろ?」
「大丈夫だよ、むしろ近いところで保安隊の情報を得られるってんだよ」
「そりゃそう……かもしれないけどさ」
「うまくやればこっちから色々情報を流すこともできる」
「ウ〜ン」
「なんとかなるよ。考えがある、色々とね」
「本当かよ」
「ああ」
「…………」
「…………」
そしてようやく決が取れたところで、ニースキーが代表で林檎腹に相対しました。
「いいよ、仕事は手伝うよ。ただし金花の他に、儲けも分けちゃくれないか。危険を伴う仕事だから、当然だろう?」
「ああ、いいよ」
林檎腹はあっさりと了承しました。
「じゃあ夜にまた来るよ。今は一度、家に帰らなきゃだめだから」
「たのむぜ。ああ、じゃあすこしだけハナもってくか?」
それは今後の仕事のための前渡しのようなものでしょう、林檎腹は光の庭へと入っていって、三つの茎のとても太い金花を持って出てきました。
「これは……凄いな」
これまで手に入れてきた花より、軽く二倍はあるんじゃないかというほどの立派な花です。きっと物凄い“効果”を持っているに違いありません。
「ありがとうな、仕事はちゃんとやるよ」
三人は上機嫌で、ボロ家を出て行きました。部屋を出る時、あの女のうめき声が微かに聞こえました。危険な仕事かもしれないけれど、その時のニースキーの心臓はドキドキと、不安な気持ちと共に、妙に愉快な気持ちも交錯していました。
三人は中心街の通りまで一緒に戻って、そこで解散しました。夜はあの家の前で待ち合わすことにして、別れました。
「ところで、お前、あの家どうやって見つけたんだ?」
別れ際にニースキーは聞かれました。
「ああ、そりゃ金花のおかげだよ。あれを濃くキメると、すげー感覚が研ぎ澄まされるだろ。感じたんだよ」
「……花の匂いが?」
「ああ」
「でも普通、分かんねぇぞ」
「五粒キメたからな」
「ゴッ……!」
「そりゃ飲み過ぎだ」
「そうかな、でもいつも三粒は飲んでるからな」
「お前飲み過ぎだって……」
「ん〜、効かないんだよね、最低でもそれくらい無いと」
「死ぬぞ」
「ん〜……」
「まあいいや、また夜会おうぜ」
「ああ」
「おう」