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18:白にとける

 その日のエウムは、朝日がまだ光を見せる前、濃い藍色に少しずつ水が溶けていって薄くなっていくような空を見て、目を瞑り、一呼吸、




…………………………………………


「(あの空の彼方へと、飛んでいけるのでしょうか?)」


…………………………………………




 太陽が地平線から顔を出し、光がサッと金花の大地を走り、その黄金の輝きを背後に受け、長老様の影がこちらにやってきました。

「おはよう」

「おはようございます」

 ありふれた挨拶が、その日は少し違って厳かに響きました。


 朝の時間が過ぎると、段々と太陽が熱を強めて、冷たかった空気を温めていき、やがてもうすぐ正午の時間。儀式は、太陽が中天の時に執り行われます。何人もいれば皆同時に行うのですが、この日はエウム一人だけでした。

 お昼頃までエウムは家にこもっていました。いえ、儀式のための装束があり、それを着てからは外に出られなかったのです。エウムは素肌の上に、一枚の白い柔かな布で全身を包み込みました。それは村で脈々行われているこの儀式のための神衣カムイ、勿論、エウムの母も袖を通したでしょう。母の使った衣を着て、母の元へと行く……そこにエウムは何か特別な思いを感じてなりませんでした。

 着替えが終ると、静かに寝床の上に膝を折って座り、緊張した硬い面持ちで、膝の上に置いた手を見つめて時を待ちました。やがて長老様が、家の扉を穏やかに開けられ、姿を現しました。

「ではいこうか」と父が、座るエウムの顔の前に、大きな手を差し出しました。

「ウン」、その手に自分の手を重ね、固く握って引っ張られ立ち上がりました。

 長老様は何も言わず頷くだけして、クルリときびすを返し歩き出したので、エウムと父は後ろに続いて、家の扉を出ました。やがて、村の広場まで行く途中に、エウムは唐突に頓狂な大きな声で「アッ!」と上げました。長老様以上に父の方が驚いて、思わず繋げていた手を離してしまいました。

「な、何だ?」

「あの、長老様、ウジカは……今、家に?」

「ああ、多分な。お前は外に連れていないだろう?」

「ウジカも儀式に見に来て欲しいんですが……」

「それは駄目じゃ」

 長老様はキッパリと言いました。

「儀式には村人全員が参加している。そんな中にウジカを連れて行くことなど出来るわけ無いじゃろう?」

「でも、病は男の人にしかうつらないんですよね。だったら女の人たちの席にいれば平気じゃないですか」

「菌が飛んでうつったらどうするんじゃ、何のためにワラの家に入れておるのだと思う」

「…………」

「……行くぞ」

「あ」

「なんじゃ、今度は」

「あの、あたし、お友達に髪飾りを貸してあげていました。それを着けて儀式に出たいです」

「フム」

「あれ、母の持っていた髪飾りなんですけど、あたしが着けているのを見たらその子が着けたがって、まだ貸したままでしたから返してもらいます」

 そして、少し遠回りをして、ノッポの子の家に向かいました。これから儀式を受けるエウムが来たものだから、ノッポの子は口に手を当てて驚きましたが、やがてエウムから“幾つか”話を聞いて納得したようで、「分かったわ、エウムがそこまで頼むなら」と、渋々といった表情で頷いて、部屋に戻って髪飾りを取ってきてエウムに渡しました。

「よろしくお願いッ」そう言って申し訳なさそうに片目を瞑って合図しました。

 エウムは素早く髪飾りを着けると、「さ、早く広場に行こう!」と、長老様や父親を急かして、先に行ってしまいました。慌てて父親や長老様も追いかけました。


 広場にはもう村人全員が、地面に正座して座っていました。小さな村とはいえそれなりに多くの人がいるのですが、皆揃って押し黙り、そこへやってきたエウムを見つけると、いっせいにそちらを向いて睨むように見つめてきました。エウムは少し気後れをして、照れくさそうにうつむいてしまいましたが、長老様が肩に手を叩いたので気を取り直しすぐ顔を上げました。

「では、中央の“壺”へ」、長老様が耳の側で囁いて、自分は先に村人達の後ろを通って、“壺”の向こう側へと移動しました。

 エウムの前には、村人達の群れが……その輪の中に、地面が窪んだ穴のようなものが造られています。穴といっても、中に入ってしゃがんでも体の多くは外に出るほどの浅い穴ですが、その穴……壺の周りには沢山の金花が、花びらのある頭の部分だけもぎ取ったものが、穴の一面に敷き詰められています。太陽の光を中で受け止めて、キラキラと光り輝く「光の壺」です。

 静々と、エウムは少し白布の裾を持ち上げて、第一歩を踏み出しました。村人達はそれに合わせて、ザッと膝を擦って動き、壺への道を開けました。その間へと入っていきました。壺の口の前で止まり、そこで腰を下ろしていって、膝から金花の敷かれた穴の中に、ソッと座り込みました。頭を垂れて、花の上に重ねて置いた両手の上に額をくっ付けて、長老様の前にひざまずきました。

 全ての準備が整ったのを計って、長老様が、脇に控えていた女中から、一本の金花を受け取り、それを胸の前で大切に、両手の指で摘むようにして持ち、エウムを見下ろして立ちました。そして金花を、エウムの頭上に掲げて……壺の真上に、太陽に金花を捧げるように太陽に花びらを見せました。

 紺碧の空の真ん中に鋭く光る一つの光点……やがて長老の手の金花から、かすかに白い煙がスルスルと上がり、天へと続く一本の煙の道を作ります。やがて辺りに、甘い香りが立ち込め始めました。

「エウム、顔を上げなさい」

 エウムは目を瞑ったまま、熱い太陽の方へ顔を上げました。元々白い肌が、太陽からの直接の光や、下からの金色の輝きで、透き通るほど真っ白になっています。

 長老様がおもむろに、手の金花の頭を傾けました。やがて花弁の真ん中辺りから……粘り気のある蜜の雫が……ネットリと糸を引いて……一滴落ちました。雫は真っ直ぐ、真下のエウムの堅く閉じられた分厚い唇の上にピッタリ落ちました。その雫の熱さに驚いたのでしょう、僅かに唇が震えた拍子に隙間が出来て、舌に落ち、やがて唾液と共に、喉の奥へと流れ込みました。

 その瞬間、エウムの目がカッと見開かれ、両手を胸元に当てて、喉や胸を強く押さえ付けるように擦り上げました。

「ウ……ッ」

 青空が、段々と真っ白く色褪せていきました。白い光の粒が、分裂し、七色の輝きに分かれ、クルクルと回転して宙を舞っています。空が、段々とあたしに近付きました。冷たい風が吹き流れ、ビュゥビュゥと風を切り、骨から冷たくなって体の芯が凍えていくよう……しかし空の大きな太陽の球が灼熱を発し、肌には玉の汗が浮き出てきて止まりません。

「ウ……ハァ……」、息を少しでも吸うのが辛いです。体の芯が氷のように冷たい今、さらに冷たい空気を入れると、胸が凍り固まってしまいそうです。

 太陽が、十個、二十個、四十個……無限に増えていきます。大きな空を埋め尽くすほどに……そして全てが透明になりました。何も無い虚空を、飛んでいるように……。光の中に重なり、さらに強い光の影が、こちらの体を激しく打たんばかりに……近付いてくる。その光は、丸っこく、長細く、フワフワして、立派で、あたしの全てを包み込む。全てを肯定する。あたしの心臓は、血液の沸騰で、皮一枚の中のものを全て溶かす。やがて溶けた液体が、あたしの皮膚の隙間から滲み出て、その「あたし」と、「光」が混ざり合い、融和する。熱い。息が詰まるほどの熱さ。あたしは……母の中で目を瞑る。…………


 突然、あたしの手に、何か温かなものを感じました。それは小さくて、震えています。あたしはそっと目を開けてみました。

 ウジカが、あたしの膝に頭を埋めていました。まるで眠っているようでしたが、よく見れば、きっとあたしのところに来ようとして、壺に転がり落ちたのでしょう。気を取り直して、周りを覗って左右を見ると……誰もいません。

「長老様?」

 長老様も、父親も、村人の皆も、誰も彼もこの世から姿を消してしまったように、辺りは静まり返っています。太陽はもう中天を過ぎ去り、午後の生温い陽気な暖かさを感じさせています。

「ウジカ」、膝の上に眠る、小さな黒い背を、ザラリと撫でました。今のエウムには、手のひらの中のウジカが愛おしくてたまりません。勿論これまで嫌っていたわけありません。が、前とは少し、違うのです。

 いつもより、ずっと、優しく撫でました。

 いつもより、ずっと、優しく眺めました。

 そして、彼の腰に手を回して、グッと包み込むように、ウジカを深く抱きしめました。


…………………………………………

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