A子
冬の校舎の廊下ほど寒い室内があるだろうか。
私の学校の廊下には申し訳程度の暖房が壁に点々と取り付けられているというのに、暖かい教室から出た瞬間の廊下の寒さといったら、外を歩いているんじゃないかと思える程に鋭い寒気に包まれていて、私は憂鬱になった。
そもそも移動教室があるのがいけないのだ。全ての科目を教室ですませてくれさえすれば、凍えながら教科書を抱えて校舎の端の情報技術室なんかに行く必要だってないのだから。
だいたい、情報技術室なんて大仰な名前がついているその部屋は、はっきり言ってしまえば一昔前の恐ろしく動作の重いパソコンがずらっと並んでいるだけのパソコン室というものなのである。
パソコンの使い方なんて今時わからない人なんていないだろうに、私の学校ではご親切にダブルクリックから教えてくれるので、これから開始される退屈な授業内容の予想は移動で歩かされるイライラに拍車をかけるには十分だった。
奇跡が起きて私の予想が外れることもなく、案の定授業は平仮名の書き取りをさせられているがごとく退屈極まりないものだった。
内容は、まあ、お絵かきソフトで簡単な絵を書いてみようというものだったが中学生にもなってこの授業内容はどうなんだろうか。バカバカしい。
教師がパソコンの使用制限をつけてしまっているせいでネットだって見ることができないので、退屈そうな私の顔をぼんやりとうつしている目の前の低く唸る箱は、今現在、廊下に出たことで冷たくなった私の手をじんわりと温める以外に魅力的な機能を持ち合わせてはいないようで、私は小さくため息をついた。
教師の長ったらしい説明が一息ついたようだ。どうやら何かこのソフトで絵を書いてプリントして提出しなければならないらしい。
パソコンにはじめから入っているお絵かきソフトの機能なんて本当に簡易的なものしかないし、ましてやマウスで描かなければならないのだ。これは現代アートが増産される予感しかしない。
あいにく私には絵心もなければソフトの機能をフル活用して芸術作品を生み出す才能もないので、ひとまず過去にこの試練を乗り越えた先人たちの絵を拝見させていただくことにした。
もちろん、アイデアを拝借させていただくためだ。
何年か前のフォルダをクッリクし、適当に絵を見ていく。
予想していた通りどの絵も図形ツールを駆使して簡単に花やら魚やらまるでピクトグラムがバリエーション豊かになっただけのような絵がほとんどだった。
このくらいの絵でいいのならさっさと終わらせてしまおう。そう思いながらカチカチと絵を表示させていると、ふと、ある一枚の絵に私は釘づけになった。
それは絵自体に問題があるわけではなく色使いの方に嫌に特徴のある絵だった。
なんというか、言葉では言い表せないような、とにかく、何か不安さを煽るような、
赤い背景に、真っ黒に塗りつぶされた人型がぽつんと立っている。
ただそれだけなのに、それだけなのに私はこの絵にどうしようもなく・・・・・・・・
あと五分程度で全員提出するようにと教師が言っている。
とりあえず私は当たり障りのない絵を図形ツールで描いて印刷し、提出することで課題を終わらせることにした。あの絵は、私の頭から、なかなか消えてくれそうになかった。
その日の帰り道、空が真っ赤に萌えているような夕焼けを浴びながら歩く私は、きっとあの絵にそっくりなんだろうな、と思いながら私は帰路を急いだ。
あの絵を見て以来私はおかしな夢を見るようになった。
夢の中の時間帯はいつも夕暮れどきで、燃えるような赤い赤い夕日が私を照らしていて、私はその夢で『私』と向かい合ってお互いを見つめ合っているという夢だった。
そこにはこれといった会話もなく、私はいつだって何か言葉を紡ぐことはできず、私を見つめる『私』はまるで嘲るような、それでいて愉快そうな眼差しで私のことを見ていてとても居心地の悪い夢だった。
私が見ている夢で、私が主体のはずなのに、まるで『私』に逆らうことなど考えることすら許されていないかのように思えたのだ。
それでいて、夢が覚めるのはいつも『私』が私に向かって何か言おうとしたところで、彼女に一体全体何を言われたのか分からずじまいで最近の私はてんで夢見が悪いのである。
そんなわけで今の私の顔には若干隈が出来てしまっていて、授業にもあまり集中できないでいた。
そしてそんなことが一週間ほど続いたある日、最近の私の様子が少しおかしいのに気がついたB子がどうしたのか聞いてきた。
そうか、人に心配されてしまうほどに私は様子がおかしいらしい。
かと言って人に理由を言ったところで苦笑されて終わってしまいそうな理由である。
変な夢を見て、眠れない。だなんて。
でもここは素直に話してしまったほうがすっきりしてあの夢を見ることもなくなるのではないか、とも、思った。
私が言い淀んでいると、B子は何か深刻な悩みがあるのかとさっきよりも少し真剣な顔をして聞いてきたので、私は慌てて冗談めかして事の経緯を簡単にB子に話して聞かせた。
私が話し終えてからそっとB子の様子を伺っていると、どうやら彼女は私が見たあの絵に興味が出たらしかった。そして今日の放課後一緒にもう一度見に行かないかとさえ言ってきた。
彼女はこの手の、つまり若干オカルトチックな話がそれなりに好きなようだ。あまりB子とは話したことがなかったが、こっくりさんなんかもしてみたいそうだ。聞いてもいないのに彼女はペラペラと私に語り聞かせてきた。
しかし話を信じてはくれたようだし、私を心配してくれた気持ちに嘘はなさそうだったので、聞いてくれたお礼ということで私はB子と放課後にもう一度あの絵を見に行く約束を取り決めた。
彼女は朗らかにまたあとで、と手を振りながら自分の席に帰っていった。
そして放課後、私とB子は自習という名目で情報技術室の鍵を借り、あの絵を見ようとした。
しかし、
おかしなことにB子のパソコンで開いたファイルでは、あの絵は見つからなかった。
ファイルは全てのパソコンで共有されているのでないはずがないのだが、どれだけ探しても去年までの生徒たちの明らかな手抜きの絵以外、見つかることはなかった。
おかしい。そんなはずはないのだ。だって私は確かに見た。見間違いのはずは、ない。
そこで私たちは試しに私のパソコンでも確認してみることにした。もちろんそんなことをしても見つかるはずはないのだが、見間違いなら見間違いだったんだと言う確固たる確信が欲しかった。
情報技術室には私たち以外誰もいない。
カチカチという私がマウスを操作する音と低く唸るパソコンの稼動音以外の音のない室内は、私たち二人を変に緊張させ、さらなる沈黙を作り出していた。
一刻も早く全ての絵を確認して帰りたい。その一心で私はマウスを操作していた。手が少し震えた。
どこか追い詰められるようにして絵をさがす私を、B子は緊張した面持ちで見つめていた。
あと少し、あと少しで全ての絵を見終えることができる。ようやく解放される。
カチッ。
結果だけを言えば、あの絵〝自体〟は見つからなかった。
その代わり、赤一色に塗りつぶされたキャンパスだけが見つかった。
それはまるであの黒い人型が抜け出た後のようで、私は背筋が寒くなるのを感じた。
隣ではB子が怪訝な顔をしてパソコンの画面を見つめていた。
B子は、最初からあの絵は赤一色で、残像効果によって人が描かれているように錯覚したんじゃないかと言っていた。太陽を見たあとに別の場所を見るとさっきまで見ていたものが消えなかったりするでしょ、と。
そうであってほしい。いや、そうだったんだ。
B子とは家が反対方向だったらしい。校門でまた明日、と手を振ってお互い反対方向に歩き出した。
こつこつこつ。なんだかアスファルトにローファーの靴音がよく響く。
こつこつこつ。今日は雲ひとつない夕焼けだ。
こつこつこつ。私は夕焼け空を見つめながら歩く。
こつこつこつ。いつも会う、公園帰りの小学生たちを、今日は見なかった。
そこで、私は今日の帰り、初めて人影を見た。
燃え盛るような真っ赤な夕焼けをバックにその人物は立っていた。
顔は逆光でよく見えなかった。いや、街灯のまだともっていない道路では服装でさえよく見えず、
まるで、まるで私があの日見た、あの絵のようだ。
いや、間違いない。これは、そっくりそのまま、あの、『絵』だ。
黒い人物はだんだんと近づいてくる。逃げなければ。逃げなければ、何か取り返しのつかないことが起こる。
そう、頭の中で私の声がする。その声と一緒にドクンドクンと心臓の音が鳴り響く。
夕日が、夕日が眩しい、暑い、目が焼かれそうで、足が動かなくて、黒い、黒い人物が、黒い人物は、
それは、『私』で、
私は何も言うことができなかった。口の中がカラカラで喉がくっついてしまったのではないかというほどに乾いていた。『私』は、まるで嘲るような、愉快そうな眼差しで私を見つめていた。
「鬼ごっこしましょう?私が鬼ね?さあ逃げなさい。十秒あげる。」
『私』はまるで歌うようにそう告げた。
私は弾かれたように歩いてきたのと反対方向に走り出した。
さっきとは違って道には人が、『人』のようなものがポツリポツリと立っていた。
それは皆ゆらゆらと不規則に揺れて、陽炎のようだった。
私は走る。必死で走る。息を乱し、髪を乱し、走る。
夕日が作り出した私の影が私の目の前に長く伸びる。
『私』は追いかけてきているだろうか。恐ろしくて、振り返ることができなかった。
息が苦しい。ゆらゆら揺れる人影達の、生気の無い目が私を追う。
うまく息ができない。苦しさと恐怖で涙がとめどなく溢れた。
でも、もう少しで学校だ。きっと、そこまで行けば、誰かがきっと、私を、助けて、
その時だった。
私の影から手が伸びて、
「つかまえた。アなたガおニネ?」
『私』の声が、聞こえて、きこえて、キコエテ、キコエテ、
夕日が地平線に溶けるように沈みゆき、
ポツリポツリと家々に灯りが灯り始めた頃、
少しばかり帰りが遅くなってしまった小学生ほどの子供たちが、
バタバタと慌てた様子でそれぞれの家に帰って行った。
どこかの家の夕御飯なのだろうか?焼けた魚の匂いが漂っている。
そんな穏やかな夕暮れ時の住宅街の道路の真ん中に、セーラー服を着た少女が佇んでいる。
『彼女』は『彼女』の足元に、『影』に目をやってにっこりと微笑み、
「ご愁傷様。A子ちゃん?」
と、つぶやいた。
暗い。暗い。ここはどこ?ココハドコ?
fin