【1章】出会いと始まり 01
暑いのは嫌いだ。
特に蒸されたような暑さは嫌いだ。
倉橋恩は暗闇に身を潜めていた。時間は夜八時。場所は池袋。少し離れた空は、雑多な光を受けて淡く紅くに明らんでいる。街から一つも二つも裏通りに入った路地には人の姿はおろか、街頭さえない。
「本当に今日であってるの?というか、勝手に入っちゃっていいの?」
少女は疑うように少年を見る。
「今日じゃねえと、今まで待った甲斐がない。それに、行けっつったのじいちゃんだし」
恩は着物の襟元と正して、平静を装う。だが、隣の少女――夕納には通じなかったらしく、目を輝かせた。
「もう、吉高さんに怒られても知らないから」
実に楽しそうに言う彼女を見て、恩は苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。
「親父には言うな。って怒られるなら夕納も一緒だろ!?」
「うちは関係者じゃないもーん」
まるで恩の言動を楽しんでいるかのように、笑いながら夕納は言った。しかし、恩はそれが気に食わない。
「くそ、こんなときだけいいように立場利用しやがって」
「はい、集中集中」
年上ぶりやがって、と恩は呟くが、あいにく幅の狭い路地に身を潜めているため、その声はすぐ隣の夕納にダイレクトに届いた。
「年下が文句言わない」
恩は決して夕納が苦手なわけではないが、どことなく発する気配にいつもたじろいでしまう。
ここで気を散らせたらだめだ、恩は頭を振り、感覚を集中させることに専念した。
短くはない時が二人を包む。
彼らの路地の前を通る人々も彼らの気配に気づかないほど、気配を消す。
まとわりつく汗に嫌悪感を覚え始めたときだった。
空気が変わった。
恩より一足先に夕納の目が開く。
「来た」
さっきまでの砕けた雰囲気は霧消し、緊迫だけが張り詰める。恩はさりげなく腰のショルダーから呪符を三枚ほど抜き出し、口中で真言を唱え、念を込めた。
凍った空気の中、背中に一筋の汗が流れる。
ドンッ
頭の中に直接響くような音が切り口だった。
急に膨れ上がった妖気を目指し、二人は駆ける。
暗闇に、恩は黒い影となり、その少し後を夕納は白い影となりながら、音のした方へ風のように駆ける。
身を潜めていた路地より少し広い通りを左に曲がった時だった。
二人の足が止まる。
街頭がないはずなのに、二人の足元は怪しく明るい。
目線の先には、辺りを不気味に照らしながら漂う鬼火が無数にあった。
「あれ、想像してたのと違う」
夕納は拍子抜けした顔をした。想像していたのは、もっと大きな霊獣だったのだろう。
しかし、それは夕納だけではなかった。
恩も、表情には出さないものの、内心期待外れだった。
だが、妖気を放つものは大小問わない。恩は気を引き締めなおし、手元の三枚の呪符に加え、さらに二枚を追加した。早口で真言を唱え、五枚を右手に持ち、
「急急如律令!」
と呪符を放った。
放たれた呪符はそれぞれ決められたように、五ヶ所に飛んでいき、張りつくと同時に青白い鬼火を取り囲むように、薄赤い結界が突如として現れた。
ここまでは想定内だ。
恩は、よしっ、と小さくガッツポーズをし、背中の弓に手を伸ばす。身の丈の半分より少し長い弓には、弦を除いて全面に呪符が貼られている。
「夕納、」
恩が言い終わる前に、これまた呪符が全面に貼られた矢が投げ渡された。
「あの他より少し明るいのが、親玉」
夕納の指さす先には、結界の隅の方でじっとしている一つがあった。それは、夕納に指されたことに気付いたのか、慌てたように集団の中に紛れ込もうとする。
「ノウマク サンマンダ バザラダンカン 急急如律令!」
恩の放った真言に、矢に貼りついた呪符が激しく光を放つ。
その間、親玉の鬼火は紛れ込もうと必死にもがいていた。その描く軌道はまばらで、予測がつきそうもない。
だが、それは一般人に限ってのことだ。
恩には鬼火がいくら動こうと、関係なかった。
視えるのだ。見鬼である恩には、鬼火が描くであろう軌跡が。
「遅せえんだよ!」
放たれた矢は、真っ直ぐ一直線に飛んでいく。結界を難なくすり抜け、何もない空間へ向かう。外したと思われた瞬間、結界内のすべての鬼火が激しく震え始めた。
矢は的確に親玉の中心を射抜いていた。
「恩、結界の力強くしないと、妖気が漏れちゃう」
いまや震動は、結界まで震わせていた。
「分かってるって!」
恩はそう言うや否や、呪符を三枚取り出す。この三枚はすでに念を込められた簡易式だ。
「急急如律令!」
放った呪符が結界に貼りつき、結界の赤がより濃くなる。
鬼火はなおも激しく震え、――結界内で音のない爆発を起こした。
辺りへは何の被害もない。
成功だ。
「やっと恩も一人で退魔できるようになったね」
「やっとじゃない。前からできる」
どこかふてくされた顔のまま、右手で横一文字を切る。すると、結界は切り裂かれたように消えた。
「じゃ、帰るとするか」
大きく伸びをしようとした時、携帯が鳴った。
誰だよ、こんな時間に、と思い携帯を開くと、
「やべっ、親父だ!」
慣れた動作で着信を切ると、そのままの勢いで電源を切り、脇目を振らず全速力で走りだした。
「ほら、やっぱり吉高さん、怒ってる」
夕納はどこか楽しそうに、彼のあとをついて行った。
ここまで読んでくださいましてありがとうございます。
ずっと書きたかった陰陽師ものを始めることができて嬉しい限りです。
できるだけ更新していく予定ですので、気が向いた時にでも読んでくださると嬉しいです。
誤字脱字等がありましたら、お手数ですがお知らせしていただけると幸いです。