本日想定外につき
彼女――松田チトセは、何はともかく大昔に自分が言った通り、一人きりでも生きていくことを決めた。
ちゃんと歩けるかどうか確かめようと、部屋の中を歩き回ってみる。初めは痺れているような感覚があったが、指先が温まると何の違和感もなくなった。これは一応コールドスリープの成功ということだろうかと、自嘲気味に息を吐く。
正直、本末転倒だと思った。
最後に残った『未来の子ども』は、結局すべての災難をやり過ごして目を覚ましたのに、ただそれでおしまいになってしまった。松田はいわばこの世界にたった一人残った人間の雌だ。アダムがいないからイヴにはなれない。一人で生きて死ぬしかない。
松田としては一番ありえないと思っていた結果だったが、こうなってしまったからには仕方がない。ネガティブな彼女には珍しくすぐに開き直って、カプセルの奥にあるサバイバルセットを引っ張り出した。人類が本当に全滅しているのかもわからないことだし、状況を憂えて死ぬなんてまだできない。とりあえず外に出てみることにする。
サバイバルセットが入った蛍光黄色のリュックを背負い、石畳の廊下を通って外へ出ると、想像を越えた世界が待っていた。
一歩外へ出ると、絵本や歴史の授業でしか見たことがなかったような、いわゆる「お花畑」というものがいっぱいに広がっていた。青臭い風が、色とりどりの花を撫でては甘い香りをはらんで吹き抜けていく。松田は日差しに目を細めた。そういえば空気も澄んでいるのかもしれない。今まで生きてきた中で、空も地面も、こんなに鮮やかに見えたことはない。
振り返ると、石畳のそこはどうやら小さな塔のようだった。学校の時計台の先端部分に見えなくもないが、あれは町はずれからも見えるような大きなものだ。こんな小さな建物ではない。
結局ここはいったいどこなのだろうかと内心首をひねりながら、見晴らしのいい場所を探そうと足を踏み出したその時、聞こえるはずのない声が耳に響いた。
「あっ、松田! 起きたんだな! おはよう!」
「え、あ、おはよう永井く」
挨拶を返しながらごく自然に振り返って、ひゅっと息が詰まった。
そもそも人類がいないことになっているここで、永井どころか自分に声をかけるものはいないはずだ。それを思い出す前に、視覚からの強烈な情報によって松田の頭は迫りくる敵からの逃亡を選択していた。反射的に右足で強く地面を蹴る。
「えっちょ……松田!? 何で逃げんの!? 松田――!!」
もつれそうになる足を何とか動かし、とりあえず追っ手とは反対方向へと逃げる。捕まったらどうなるかはわからないが、目覚めたばかりなのにこんなにすぐに死にたくはない。もっと慎重に潜伏しておくべきだったかと松田は内心舌打ちをした。
だが、彼女は自身の壊滅的な短距離走のタイムについてすっかり忘れていた。加えて、目覚めたばかりの体は言うことをきかない。追いつかれそうになったその時、草の上で足を滑らせて派手につんのめる。
「うっ、わ」
「松田!」
顔からいくかと覚悟を決めた瞬間、何かに手を引かれて、それほどの衝撃もなく倒れこんだ。嗅いだこともないような控えめな花の香りが体を包む。
地面に打った膝と、何かに押付けられた額が痛い。顔を歪めながら体を起こすと、「それ」が体を折り曲げるようにして自分を覗き込んでいた。
「おい、大丈夫だったか、松田」
再び息が詰まる。心臓が叫ぶように脈打った。
声は確かに、眠る前に聞いた永井のものだ。赤茶けた髪も、少し汚れた制服もほとんど記憶のままだった。
だが、顔は、全体の4分の1ほどしか永井ではない。
「……な、永井くん?」
「うん?」
「ど、どうしたの、顔……」
「顔?」
不思議そうに聞き返して、永井は包帯が巻かれた左手で自分のつるりとした頬をなぞる。
右目のあたりは永井そのままだが、それ以外が問題だ。顔の右上部分以外は、理科室にあった人体模型のように、真っ黒い骸骨のようなものがむき出しになっている。首のあたりにかろうじて皮のようなものが引っかかっているが、少なくても人間ではないということはわかった。先ほどからこの永井らしき骸骨が先ほどから喋るたびに、綺麗な並びの歯がぱくぱくと動き、奥にコードのようなものが見える。ほぼむき出しの左目は瞬きもできずにじっと松田を見つめていた。
「な、なんかいろいろ出てるけど……」
「え? あ、そっか! 松田には言ってなかったっけ」
おそるおそる尋ねると、永井は右目をぱちぱちとやって、苦笑するように眦を下げた。
「黙っててごめんな。実は俺、アンドロイドなんだ」
――なんだそれ。
叫ぶことすら忘れて、松田はぽかんと口を開けた。