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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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145/150

第145ページ  直しすぎない修正

声に出して読んだことで、凛は初めて自分の文章を「読者の耳」で聞いた。

長すぎる文。

息継ぎの場所。

苦しくなる章。

残したい芯の一文。


今回は、凛が声に出して聞こえた違和感をもとに、初めて「直しすぎない修正」に挑戦するページです。

朝、凛はパソコンを開く前に、青いノートを机の真ん中へ置いた。


 昨日、試し読み用の四章を声に出して読んだ。


 一章目の冒頭。


 小さな私への手紙。


 働くことが怖かった章。


 夜に崩れそうなあなたへの章。


 その四つを、自分の声で読んだ。


 読み終わったあと、凛は思っていたより疲れていた。


 でも、その疲れは嫌なものだけではなかった。


 自分の文章の中を、自分の足で歩いたような疲れだった。


 目で追っているだけでは気づかなかったものが、声に出すと聞こえた。


 長すぎる文。


 息継ぎができない場所。


 苦しくなりすぎる章。


 残したい芯の一文。


 読者の呼吸。


 真白が言ってくれた、苦しい場所に置く椅子。


 それらが、昨日の青いノートに並んでいる。


 凛はそのメモを読み返した。


『声に出してわかったこと。

一、冒頭は強くなった。

二、長い文は少し区切る必要がある。

三、小さな私への章は、読者への休憩所が必要。

四、働く章は芯がある。

五、夜の章はゆっくりした文体が合う。

六、声に出して読むと、私の文章の温度がわかる。

七、読者の呼吸を考える必要がある。』


 凛は深く息を吸った。


 今日は、直す日。


 けれど、いつものように全部を直してはいけない気がした。


 直し始めると、凛はすぐに止まらなくなる。


 もっと短く。


 もっと綺麗に。


 もっと読みやすく。


 もっと整えて。


 そう思って削っていくうちに、いつの間にか最初にあった震えまで消してしまうことがある。


 泣きながら書いた言葉が、形だけ整った別の文章になってしまうことがある。


 凛はそれが怖かった。


 だから今日は、最初にルールを決めることにした。


 青いノートへ書く。


『今日の修正ルール。

一、全部を直さない。

二、声に出して苦しかった場所だけ見る。

三、芯の一文は消さない。

四、綺麗にするためではなく、呼吸しやすくするために直す。

五、迷ったら残す。

六、直したあと、元の文章も保存しておく。』


 書き終えると、少しだけ安心した。


 元の文章も保存する。


 これがあるだけで、凛は少し怖くなくなる。


 直して失敗しても戻れる。


 セーブポイント。


 七海がいつも言う言葉を思い出して、凛は少し笑った。


 作品にも、修正前のセーブポイントが必要なのだ。


 凛はパソコンを開き、試し読み用ファイルを複製した。


 ファイル名を変える。


『生きづらさに、名前をつけるなら_試し読み用_修正版』


 保存ボタンを押した瞬間、小さな準備が整った気がした。


 これなら、失敗しても戻れる。


 凛は一章目を開いた。


 昨日、声に出して読んだ時に引っかかった場所。


『みんなが未来へ歩き出している音がするのに、自分だけ靴ひもを結ぶこともできずに座り込んでいるような気がしました。』


 この一文は、長い。


 でも、消したくない。


 靴ひもを結ぶこともできずに座り込んでいる、という感覚は、凛にとって大事だった。


 凛は声に出して読んでみた。


「みんなが未来へ歩き出している音がするのに、自分だけ靴ひもを結ぶこともできずに座り込んでいるような気がしました」


 やはり少し長い。


 息が足りなくなる。


 でも、分ければいいのかもしれない。


 凛は少しだけ直した。


『みんなが未来へ歩き出している音がする。

それなのに、自分だけ靴ひもを結ぶこともできずに、座り込んでいるような気がしました。』


 声に出して読む。


「みんなが未来へ歩き出している音がする。それなのに、自分だけ靴ひもを結ぶこともできずに、座り込んでいるような気がしました」


 少し呼吸できる。


 でも、温度は残っている。


 凛は青いノートへ書いた。


『長い一文を分けた。

意味は変えない。

息継ぎだけ作る。

これは温度を消す修正ではなく、呼吸を作る修正。』


 その言葉を書いた時、凛は少し嬉しかった。


 修正にも種類がある。


 消す修正。


 整える修正。


 呼吸を作る修正。


 今日やりたいのは、呼吸を作る修正だった。


 次に、凛は小さな私への章を開いた。


 昨日は、声に出してすぐに苦しくなった。


『あなたは、悪い子だったわけではありません。

泣きたかったのに泣けなかったことも、寂しいと言えなかったことも、大人の顔色を読むことばかり上手になってしまったことも、あなたのせいではありません。』


 この文章は、凛にとって大事だ。


 でも、読者が同じような痛みを持っていたら、ここで一気に胸が詰まるかもしれない。


 真白の言葉を思い出す。


 苦しい場所に、少し椅子を置く。


 凛は、この章の少し後に一文を足した。


『ここまで読んで胸が苦しくなったなら、少しだけページから目を離しても大丈夫です。

この章は、急いで読み切らなくてもいい章です。』


 書いたあと、凛は読み返した。


 少し説明的だろうか。


 でも、今は必要に思えた。


 この作品は、読者を急かしたいわけではない。


 痛みの中へ無理やり連れていきたいわけでもない。


 読んでいる途中で苦しくなった人に、閉じてもいいと伝えたい。


 凛は声に出して読んだ。


「ここまで読んで胸が苦しくなったなら、少しだけページから目を離しても大丈夫です。この章は、急いで読み切らなくてもいい章です」


 少し椅子が置けた気がした。


 凛は青いノートへ書く。


『小さな私への章に休憩所を入れた。

読者に、閉じてもいいと伝える。

痛みを読ませるだけではなく、読者を守る。』


 その時、スマートフォンが震えた。


 七海からだった。


『修正してる?』


 凛は返信した。


『してる』


『長い文を区切った』


『小さな私への章に、休憩所みたいな一文を入れた』


 すぐに返事が来る。


『いいじゃん』


『直しすぎてない?』


 凛は少し笑った。


『たぶん大丈夫』


『今日のルール、迷ったら残すにした』


『最高』


『凛ちゃん、迷ったら消すタイプだから』


 凛は画面を見て、少しどきりとした。


 確かにそうだった。


 凛は迷うと消す。


 自信がない言葉を消す。


 重いかもしれない気持ちを消す。


 相手に迷惑かもしれない言葉を消す。


 そうやって、自分の中にあるものを何度も消してきた。


 でも、この作品は、自分を消さないために書いている。


 ならば、修正でも簡単に消しすぎてはいけない。


 凛は青いノートへ書いた。


『迷ったら消す、ではなく、迷ったら一度残す。

私の作品は、私を消さないために書いている。

修正でも、私を消しすぎない。』


 大学へ向かう時間になり、凛はパソコンを保存した。


 今日はまだ少ししか直していない。


 でも、修正の方向が見えた気がした。


 直しすぎない。


 でも放置もしない。


 温度を残して、呼吸を作る。


 それが、今の凛に必要な修正だった。


 大学に着くと、七海がいつもの場所で待っていた。


「直しすぎない人、おはよう」


「今日はその呼び方?」


「うん。大事な称号」


 凛は少し笑った。


「直すの、怖い」


「なんで?」


「消しすぎそうで」


「あー」


 七海は頷いた。


「凛ちゃん、文章でも自分でも、悪いところ見つけると全部削ろうとするもんね」


「うん」


「でも、傷がある文章なんでしょ?」


 凛は立ち止まりそうになった。


 傷がある文章。


 真白にも言われた言葉。


 痛いけれど、その痛さが届く。


「傷を全部磨いたら、凛ちゃんの文章じゃなくなるんじゃない?」


 七海は軽く言った。


 でも、その言葉は凛の胸に深く入った。


 傷を全部磨いたら、凛の文章ではなくなる。


 凛はずっと、傷を隠したかった。


 自分の傷も、文章の傷も。


 でも、この作品に必要なのは、傷がなかったことにすることではない。


 傷を見せびらかすことでもない。


 傷があるまま、読者が触れられる形にすること。


 講義中、凛はノートの端に書いた。


『傷を全部磨かない。

でも、触れた人が怪我をしないように角を整える。

痛みを消すのではなく、渡せる形にする。』


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 朝の続きを少しだけ確認する。


 今日は直しすぎないと決めている。


 だから、修正箇所を増やしすぎない。


 一章目の長い文。


 二章目の休憩所。


 今日はそこまででもいいかもしれない。


 でも、働くことが怖かった章の芯だけは確認したかった。


 凛はその章を開いた。


『私は働くことそのものより、働くことで自分を失うことを怖がっていたのだと思います。』


 この一文は、昨日声に出しても残った。


 直さない。


 凛はその横に、メモだけ入れた。


『章の芯。残す。』


 その下の文章は少し説明が続きすぎていた。


 凛は一部を短くするか迷った。


 でも、今日のルールを思い出す。


 迷ったら残す。


 すぐに削らない。


 凛は本文を直さず、メモだけ書いた。


『ここは後日確認。今日は削らない。』


 それだけでも、少し成長した気がした。


 以前の凛なら、その場で削っていた。


 不安になって、消して、短くして、あとから何かが足りないと気づいていた。


 でも今日は、残せた。


 判断を先延ばしにできた。


 それは逃げではなく、作品を守るための保留だった。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 店に入ると、真白はカウンターで小さな紙袋を畳んでいた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日は、少し慎重に直してきた顔」


 凛は笑った。


「当たりです」


 凛は席に座り、今日の修正について話した。


 長い文を区切ったこと。


 小さな私への章に休憩所を入れたこと。


 迷ったら消すのではなく、一度残すことにしたこと。


 七海に、傷を全部磨いたら凛の文章ではなくなると言われたこと。


 真白は静かに聞いていた。


「いい修正だと思う」


「いい修正」


「うん。文章を大事にしてる感じがする」


 凛は少し驚いた。


「大事にできてますか」


「少なくとも、消すために直してるんじゃなくて、届けるために直してる」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 消すためではなく、届けるため。


 凛は青いノートを開き、書き留めた。


『消すために直すのではなく、届けるために直す。』


 真白は続けた。


「直すって、否定じゃないんだと思う」


「否定じゃない」


「うん。最初に書いた自分を否定するんじゃなくて、最初に書いた自分の言葉を、今の自分がもう少し支える感じ」


 凛の目に涙が滲んだ。


 最初に書いた自分の言葉を、今の自分が支える。


 それは、すごく優しい修正の考え方だった。


 過去の凛が書いた言葉。


 泣きながら書いた言葉。


 震えながら置いた言葉。


 それを、今の凛が否定するのではない。


 もっと遠くへ届くように、横から支える。


 凛は青いノートへ書いた。


『修正は、過去の私の言葉を否定することではない。

今の私が、過去の私の言葉を支えること。』


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 今日の修正をもう一度読み返す。


 一章目の呼吸。


 二章目の休憩所。


 働く章の芯の一文。


 どれも、大きく変えたわけではない。


 でも、作品は少し読みやすくなった気がする。


 そして何より、凛自身が壊れなかった。


 修正しながら、自分の文章を全部疑いすぎなかった。


 凛は作品メモに書いた。


『初めて、直しすぎない修正をした。

声に出して苦しかった場所だけを見た。

長い文に息継ぎを作った。

小さな私への章に、読者の休憩所を置いた。

芯の一文は消さなかった。

迷った場所は、今日は残した。』


 凛は続けた。


『修正は、過去の私の文章を否定することではない。

今の私が、過去の私の言葉を支えること。

泣きながら書いた温度を、読者へ届く形に整えること。

傷を全部磨いて消すのではなく、触れた人が怪我をしないように角を整えること。

私は今日、少しだけその修正を覚えた。』


 打ち終えると、凛は深く息を吐いた。


 静かな達成感があった。


 大きく書き進めた日とは違う。


 新しい章を作った日とも違う。


 でも、作品を大事にできた日だった。


 青いノートを開き、最後に書く。


『直しすぎない修正をした。

消すためではなく、届けるために直す。

過去の私の言葉を、今の私が支える。

迷ったら一度残す。

芯は消さない。

呼吸できる場所を作る。

今日は、作品を少し大事にできた気がする。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 凛の作品は、まだ未完成だ。


 でも、未完成のまま少しずつ育っている。


 書く日。


 休む日。


 読む日。


 直す日。


 感想を受け取る日。


 そのどれもが、作品を最後まで連れていくために必要な日だった。


 凛はパソコンを保存し、青いノートを閉じた。


 今日、凛は文章を直した。


 けれど、消さなかった。


 自分の声を。


 過去の自分の震えを。


 作品の中に残っている小さな灯りを。


 それを消さずに、少しだけ届きやすくした。


 そのことが、今夜の凛を静かに満たしていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が初めて「直しすぎない修正」に挑戦するページでした。


修正は、過去の自分の文章を否定することではない。

今の自分が、過去の自分の言葉を支えること。


凛は、長すぎる文に息継ぎを作り、苦しい章に休憩所を置きました。

でも、芯の一文は消しませんでした。


消すためではなく、届けるために直す。

その感覚を、凛は少しずつ覚え始めています。


次のページでは、直しすぎない修正を終えた凛が、いよいよ七海へ試し読み用の四章を渡す準備をしていきます。

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