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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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第141ページ  感想を受け取る練習

整えた冒頭を七海と真白に読んでもらった凛。

自分の声を残したまま、読者へ届きやすい形にする。

その作業は怖かったけれど、少しだけ作品が外へ向かい始めた気がした。


今回は、凛がその冒頭を灯にも読んでもらい、初めて複数の感想を受け取る怖さと向き合うページです。

朝、凛はスマートフォンの画面を見つめたまま、なかなか送信ボタンを押せずにいた。


 画面には、昨日整えた冒頭の文章が表示されている。


『私はずっと、普通になりたかった。

普通というものが何なのか、はっきりわかっていたわけではありません。

それでも、周りの人が当たり前みたいにできていることを、自分だけがうまくできない気がしていました。

笑うこと。

働くこと。

母を許すこと。

誰かを大事に思うこと。

未来を選ぶこと。

その全部に、私はいつも少し遅れている気がしていました。』


 七海は「凛ちゃんの声が戻った」と言ってくれた。


 真白は「読者が入っていける入口になっている」と言ってくれた。


 それだけでも十分嬉しかった。


 けれど、今朝の凛は、その文章を灯にも送ろうとしていた。


 灯は、凛の文章をいつも短い言葉で受け取ってくれる。


 「刺さる」


 「絶対いる」


 「それ、作品に入れな」


 そうやって、凛が迷っている言葉に、まっすぐな印をつけてくれる人だった。


 だからこそ、読んでほしかった。


 でも、だからこそ怖かった。


 七海と真白が良いと言ってくれたものを、灯が違うと感じたらどうしよう。


 七海は「生っぽさがある方がいい」と言った。


 真白は「入口になっている」と言った。


 灯は、どう読むのだろう。


 もっと痛い方がいいと言うかもしれない。


 もっと短い方がいいと言うかもしれない。


 逆に、重すぎると思うかもしれない。


 感想が増えるほど、凛の心はまた揺れそうだった。


 凛はスマートフォンを伏せ、青いノートを開いた。


『灯ちゃんにも冒頭を読んでもらいたい。

でも怖い。

七海ちゃんと真白さんが受け取ってくれた文章を、灯ちゃんが違うと言ったら、私は全部わからなくなりそう。

感想をもらうのは嬉しい。

でも、感想が増えるほど迷いそうで怖い。』


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 感想は嬉しい。


 でも怖い。


 凛は、誰かの言葉をとても強く受け取ってしまう。


 いいと言われたら、そこを守りたくなる。


 違うと言われたら、すぐ直さなければと思う。


 だから複数の感想が来た時、凛は自分の中心を見失いそうになる。


 みんなの言うことを全部取り入れなければ。


 誰も傷つけないように、誰の感想も無駄にしないように、全部反映しなければ。


 そう思って、作品が自分のものではなくなってしまいそうになる。


 凛は続けて書いた。


『感想は命令ではない。

感想は、読んだ人の心に起きたこと。

全部を採用しなくてもいい。

でも、全部を無視するわけでもない。

私はまだ、その受け取り方が下手だ。』


 その一文を書いて、少しだけ呼吸が戻った。


 感想は命令ではない。


 灯が何を言っても、それは灯の中に起きた反応だ。


 七海の感想も、真白の感想も同じ。


 どれも大切。


 でも、どれも絶対の命令ではない。


 凛はそれを、何度も自分に言い聞かせた。


 スマートフォンをもう一度手に取る。


 灯とのトーク画面を開く。


『昨日整えた冒頭、少し読んでもらってもいい?』


 そこまで打って、指が止まる。


 怖い。


 でも、送りたい。


 凛はもう一文足した。


『感想ほしいけど、全部すぐ直すかはまだ決められないかも』


 送信。


 送ってしまった。


 心臓が大きく鳴る。


 しばらくして、既読がついた。


 灯から返事が来る。


『もちろん読む』


『全部すぐ直さなくていいよ』


『読んだ時に感じたことだけ返す』


 その言葉に、凛は少しだけ安心した。


 感じたことだけ返す。


 命令ではなく、反応として返してくれる。


 凛は冒頭の文章を送った。


 送信した瞬間、胸の中が空っぽになるような感覚がした。


 待つ時間。


 この時間が、凛は苦手だった。


 相手が読んでいる間、凛の想像は勝手に走り出す。


 今、灯はどこを読んでいるのだろう。


 重いと思っているのだろうか。


 前の方が良かったと思っているのだろうか。


 返事に困っているのだろうか。


 凛はまたスマートフォンを伏せた。


 そして、昨日の自分の文章を思い出す。


 大きな答えではなく、次の一呼吸だけでいい。


 凛はゆっくり息を吸った。


 待っている間に自分を壊さない。


 それも、感想を受け取る練習の一部なのかもしれない。


 十分ほどして、灯から返信が来た。


『読んだ』


 その一文だけで、凛の胸が跳ねる。


 続きが来るまでの数秒が、とても長く感じた。


『めちゃくちゃ良い』


 凛は息を止めた。


『でも、私の感覚だと、最初の一文のあとに、もう少しだけ凛ちゃんの“痛みの実感”があるともっと引き込まれると思った』


『今もいいけど、ちょっと綺麗に整ってるから』


『たとえば、「普通になりたかった」と思った具体的な夜とか、瞬間が一個あると刺さる』


 凛は画面を見つめた。


 良い。


 でも、もう少し痛みの実感。


 綺麗に整っている。


 具体的な夜。


 凛の胸に、いくつもの感情が一度に来た。


 まず、嬉しさ。


 灯が読んでくれた。


 良いと言ってくれた。


 そして、怖さ。


 やっぱりまだ足りなかった。


 もっと痛みを書かなければ。


 七海にも「生っぽさ」と言われた。


 灯にも「痛みの実感」と言われた。


 凛は一瞬、今の冒頭を全部直したくなった。


 でも、そこで止まった。


 感想は命令ではない。


 全部をすぐ直さなくていい。


 凛は青いノートを開き、灯の感想を書き写した。


『灯ちゃんの感想。

良い。

でも、最初の一文のあとに、もう少し痛みの実感があると引き込まれる。

具体的な夜や瞬間が一個あると刺さる。』


 その下に、自分の気持ちを書く。


『嬉しい。

怖い。

すぐ直したくなった。

でも、一度置く。

これは命令ではなく、灯ちゃんの中に起きた反応。

採用するかどうかは、私が作品の中心に戻って考える。』


 書き終えると、胸が少し落ち着いた。


 凛は返信した。


『読んでくれてありがとう』


『痛みの実感、たしかにと思った』


『でもすぐ全部直すんじゃなくて、一回ノートに置いて考えてみる』


 灯からすぐ返事が来た。


『それでいいと思う』


『凛ちゃんの文章だから、最後は凛ちゃんが決めて』


 その一文に、凛の目に涙が滲んだ。


 凛ちゃんの文章だから、最後は凛ちゃんが決めて。


 簡単な言葉のようで、とても大事だった。


 感想をもらう。


 受け取る。


 考える。


 でも最後は、自分が決める。


 それが、作品を外へ出す時に必要な力なのかもしれない。


 大学へ向かう電車の中、凛は三人の感想を並べてみた。


 七海。


『生っぽさがある方がいい。綺麗すぎない方が凛ちゃんっぽい』


 真白。


『読者が入っていける入口になっている。凛ちゃんの声も残っている』


 灯。


『もう少し痛みの実感があると引き込まれる。具体的な夜や瞬間が一個あると刺さる』


 三つの感想は、ばらばらではなかった。


 少しずつ違うけれど、同じ方向を向いている。


 読者が入れる入口。


 凛の声。


 痛みの実感。


 つまり、綺麗に整えすぎず、でも読者が迷わない形にすること。


 凛はメモに書いた。


『三人の感想をまとめる。

入口としては良い。

でも、最初に凛の痛みが一瞬見えるともっと届く。

綺麗にしすぎず、凛の声を残す。』


 書いた瞬間、感想が少し怖いものではなくなった。


 ばらばらの命令ではなく、作品の方向を照らす複数の灯りのように見えた。


 大学に着くと、七海が凛の顔を見て言った。


「灯ちゃんに送った?」


「送った」


「どうだった?」


「良いって言ってくれた。でも、もう少し痛みの実感があるといいって」


 七海は頷いた。


「あー、わかる」


「やっぱり?」


「うん。でもそれ、駄目って意味じゃないと思う」


「うん。わかる」


 凛は少しだけ笑った。


「今日は、感想は命令じゃないってノートに書いた」


「それ大事」


 七海は真剣に言った。


「凛ちゃん、感想もらうと全部宿題にしそうだもん」


「する」


「しないで」


「頑張る」


「感想は材料。命令じゃない」


 凛はその言葉を、またノートに書きたくなった。


 講義中、凛はノートの端に書いた。


『感想は材料。命令ではない。

読んだ人が見つけてくれた灯り。

でも、どこに置くかは私が決める。』


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 冒頭を開く。


 灯の感想を受けて、痛みの実感を一つ入れるなら、どこがいいだろう。


 普通になりたかった。


 その感情が強く出た瞬間。


 凛は思い出す。


 大学のトイレの個室で、泣きそうになりながら息を殺した日。


 周りの子たちが、就活の話を当たり前のようにしていた日。


 説明会、エントリー、面接、自己PR。


 その言葉が飛び交う中、凛は笑って頷いていた。


 でも、本当は何もできていなかった。


 帰り道、駅のホームで、自分だけ透明な壁の向こうにいるような気がした。


 普通に未来へ進む人たちの中で、自分だけ足が動かない。


 その日の感覚は、今でも残っている。


 凛は冒頭の一文の後に、その記憶を短く入れてみた。


『私はずっと、普通になりたかった。

それを一番強く思い出すのは、大学のトイレの個室で、外から聞こえる友人たちの就活の話を聞いていた時です。

説明会、エントリー、面接、自己PR。

その言葉が当たり前のように流れていく中で、私は声を出さずに息をしていました。

みんなが未来へ歩き出している音がするのに、自分だけ靴ひもを結ぶこともできずに座り込んでいるような気がしました。』


 書いた瞬間、胸が痛んだ。


 これは、少し生々しい。


 でも、本当だ。


 凛は読み返した。


 痛い。


 でも、入口として強くなった気がする。


 その後に、元の文章を続ける。


『普通というものが何なのか、はっきりわかっていたわけではありません。

それでも、周りの人が当たり前みたいにできていることを、自分だけがうまくできない気がしていました。』


 凛は深く息を吐いた。


 灯の感想をそのまま命令としてではなく、作品の中心に戻って考えた結果、この記憶を入れることにした。


 それは採用だった。


 でも、凛自身が選んだ採用だった。


 夕方、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 真白に、感想を受け取る怖さについて話したかった。


 店に入ると、真白はカウンターで静かにカップを磨いていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日は、感想を持ってきた顔」


 凛は笑った。


「当たりです」


 凛は席に座り、今日のことを話した。


 灯に冒頭を送ったこと。


 痛みの実感があるともっと良いと言われたこと。


 最初は全部直さなければと思ったけれど、ノートに置いて考えたこと。


 三人の感想を並べたら、作品の方向が少し見えたこと。


 真白は静かに聞いた。


「すごくいい受け取り方ができたね」


 凛は少し照れた。


「怖かったです」


「うん」


「でも、感想は命令じゃないって思い出せました」


「大事だね」


 真白はココアを置きながら言った。


「感想って、地図に似てるかもね」


「地図?」


「うん。読者がどこで立ち止まったか、どこで迷ったか、どこで心が動いたかを教えてくれる地図」


 凛はカップを見つめた。


「でも、その地図をどう使うかは作者が決める」


 真白の言葉が、胸にすっと入ってきた。


 感想は地図。


 命令ではなく、読者の歩いた跡。


 どこで立ち止まったのか。


 どこで心が動いたのか。


 どこで少し迷ったのか。


 それを教えてくれるもの。


 凛は青いノートに書いた。


『感想は、読者が歩いた跡の地図。

でも、その地図をどう使うかは私が決める。』


 夜、家へ帰った凛はパソコンを開いた。


 今日整えた冒頭をもう一度読み返す。


 痛みの実感を入れたことで、最初のページに凛自身の温度が戻った気がした。


 凛はメモ欄に今日の気づきを書いた。


『初めて、複数の感想を受け取った。

七海ちゃん、真白さん、灯ちゃん。

それぞれの言葉は少しずつ違った。

最初は全部を宿題にしそうになった。

でも、感想は命令ではない。

材料であり、読者が歩いた跡の地図。

最後にどの道を選ぶかは、私が作品の中心へ戻って決める。』


 凛は続けた。


『灯ちゃんの感想を受けて、冒頭に大学のトイレで就活の話を聞いていた時の記憶を入れた。

それは灯ちゃんに言われたから仕方なく入れたのではない。

私自身が、この作品の入口に必要だと思ったから入れた。

感想を受け取ることは、自分を失うことではない。

自分の中心へ戻る練習でもあるのだと思った。』


 打ち終えると、凛は静かに息を吐いた。


 今日はまた一つ、作品を外へ出すための練習ができた。


 感想を受け取る。


 揺れる。


 ノートに戻る。


 整理する。


 選ぶ。


 それは、書くことと同じくらい大事な作業だった。


 凛は青いノートを開き、最後に書いた。


『感想を受け取る練習をした。

怖かった。

でも、全部を命令にしなくていいと知った。

感想は、誰かが私の作品を歩いてくれた跡。

それを大事に受け取りながら、最後は私がこの作品の道を選ぶ。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外には、冬の夜が静かに広がっている。


 作品は少しずつ、凛一人の手の中から外へ向かっている。


 でも、外へ向かうことは、自分を失うことではない。


 むしろ、外から返ってきた言葉を受け取りながら、自分の中心を確かめることなのかもしれない。


 凛はパソコンを保存した。


 今日、冒頭は少し強くなった。


 そして凛自身も、少しだけ感想を受け取る力を持てた気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が灯にも冒頭を読んでもらい、複数の感想を受け取る怖さと向き合うページでした。


感想は嬉しい。

でも、凛はすぐにそれを命令のように受け取ってしまいます。

全部直さなきゃ。

全部取り入れなきゃ。

誰の言葉も無駄にしちゃいけない。


けれど凛は気づきます。

感想は命令ではない。

読んだ人が、作品の中でどこを歩き、どこで立ち止まり、どこで心を動かしたのかを教えてくれる地図。


それをどう使うかは、最後に凛が決めていい。


次のページでは、感想を受け取る練習をした凛が、さらに冒頭を磨きながら「公開する」という言葉の重さに向き合っていきます。

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