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生きずらさに、名前をつけるなら  作者: あーちゃん


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133/150

第133ページ  壊れないための地図を、もう一度広げる

目次を保存し、完成までの道に「戻れる場所」を作った凛。

本文が大きく増えたわけではない。

けれど、作品を最後まで連れていくための小さなセーブポイントができた。


今回は、凛が各章の空白を確認しながら、まず「壊れないための地図」の章へ向かうページです。

苦手なことを責めるためではなく、安心できる場所を探すために。

凛はもう一度、自分の弱さだと思っていたものを、地図として広げ直していきます。

朝、凛は昨日保存した目次ファイルを開いた。


『生きづらさに、名前をつけるなら_目次案_心の順番』


 ファイル名を見るだけで、少しだけ安心する。


 昨日、凛は完成までの距離に圧倒された。


 本にしたい。


 最後まで連れていきたい。


 そう思った途端、目次は道しるべではなく、巨大な課題表のように見えた。


 けれど七海が言ってくれた。


 今日はセーブポイントを作るだけ。


 灯が言ってくれた。


 戻れる場所を作るのも進むこと。


 真白が言ってくれた。


 書くことを文字数だけで測らない。


 その言葉たちのおかげで、凛は昨日、目次を保存できた。


 本文が大きく増えたわけではない。


 でも、作品の道は消えなかった。


 戻れる場所が一つ増えた。


 凛は青いノートを開き、今日の最初に書いた。


『今日は、空白を責める日ではなく、空白を見つける日。

書けていない場所を見て落ち込むのではなく、次に灯りを置く場所を探す。』


 そう書いてから、凛は目次の下に書いた章ごとのメモを見ていった。


 第一章は、入口の言葉がある。


 第二章は、小さな自分への手紙がある。


 母の章も、怖いけれど中心の灯りが見えてきた。


 働くことが怖かった章は、七海に読んでもらったことで少し広がった。


 名前のない大事な人の章も、まだ途中だけれど大事な温度がある。


 でも、ひとつだけ、凛の目が止まる章があった。


『壊れないための地図』


 この章は、大事だ。


 そうわかっているのに、まだ少し散らばっている。


 キャリアセンターでもらった紙。


 安心しやすい環境。


 苦手な環境。


 Word入門の予定。


 未来に置いた小さな橋。


 その断片はある。


 けれど、章としてまだまとまっていない。


 凛は少しだけ息を吸った。


 今日は、この章へ向かう日なのかもしれない。


 凛は引き出しから、少し折れ曲がった資料を取り出した。


 キャリアセンターでもらった紙。


 何度も開いたせいで、端がやわらかくなっている。


 そこには、凛の文字でこう書かれていた。


『安心しやすい環境

静か。人が多すぎない。急かされすぎない。自分のペースで考える時間がある。言葉を丁寧に扱える。』


『苦手な環境

大きな声が飛び交う場所。常に人の顔色を見なければいけない場所。失敗をすぐ責められる空気。休みにくい雰囲気。』


 凛はその文字を見つめた。


 以前なら、これを見るだけで苦しくなっていた。


 自分は条件が多い。


 わがままだ。


 社会に出る前からこんなに苦手があるなんて、やっぱり普通に働けない。


 そう思っていた。


 でも今は、少し違う。


 これは欠点の一覧ではない。


 壊れないための地図。


 自分がどこで呼吸しやすく、どこで苦しくなるのかを知るための地図。


 凛はパソコンを開き、『壊れないための地図』の章を開いた。


 まだ短い断片しかない。


 そこに、新しい文章を書き始めた。


『私はずっと、自分の苦手を数えることが嫌いだった。

大きな声が苦手。

急かされるのが苦手。

人の顔色を読みすぎる。

失敗を引きずる。

休むことに罪悪感を持つ。

それらを書き出すたび、自分が社会から遠ざかっていくような気がした。』


 凛は少し手を止めた。


 胸がきゅっと縮む。


 でも、続ける。


『けれど、苦手を知らないまま進むことは、暗い道を地図なしで歩くことに似ていた。

どこで転ぶのか。

どこで息が苦しくなるのか。

どこに行けば少し休めるのか。

それを知らないまま、ただ「普通に歩きなさい」と言われても、私は何度も同じ場所で立ち止まってしまう。』


 書きながら、凛はキャリアセンターの相談員を思い出した。


 苦手が多いというより、負荷がかかりやすい条件をよくわかっている、という見方もできます。


 その言葉は、凛の中に残っていた。


 負荷がかかりやすい条件。


 そう言われると、自分の苦手が少しだけ責める材料ではなくなる。


 凛は続きを打った。


『苦手は、私を責めるための証拠ではなく、負荷がかかりやすい場所を示す印なのかもしれない。

安心しやすい環境は、甘えの条件ではなく、私が力を使いやすい場所を示す印なのかもしれない。

そう思えた時、紙に書かれた文字は、弱さの一覧ではなく、地図に見え始めた。』


 凛は深く息を吐いた。


 少し書けた。


 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともる。


 スマートフォンが震えた。


 七海からだった。


『今日はどこの章?』


 凛は返信した。


『壊れないための地図』


『おお、地図回』


『苦手なことを書くと、まだ少し落ち込む』


 すぐに返事が来た。


『苦手リストじゃなくて、取扱説明書じゃない?』


 凛は画面を見つめた。


 取扱説明書。


 少し笑ってしまう。


『私の?』


『そう。凛ちゃんの取説』


『大きな声多めの場所ではHPが減ります、とか』


『静かな環境で文章を扱うと回復します、とか』


 凛は思わず声を出して笑った。


 七海の軽さは、いつも凛の重たい言葉を少し持ちやすくしてくれる。


 でも、その軽さの中にはちゃんと本質がある。


 地図。


 取扱説明書。


 どちらも、自分を責めるものではなく、自分を知るためのもの。


 凛は青いノートへ書いた。


『苦手リストではなく、私の取扱説明書。

どこでHPが減るのか。

どこで少し回復するのか。

それを知ることは、私を甘やかすことではなく、私を壊さないための知識。』


 その言葉を、凛は作品にも入れることにした。


『友人は、それを私の取扱説明書みたいなものだと言った。

大きな声が多い場所ではHPが減る。

静かな場所で文章を扱うと少し回復する。

その言い方に私は少し笑った。

でも、笑えたことで、苦手は少しだけ怖いものではなくなった。

自分の扱い方を知ることは、わがままではない。

壊れないための知識なのだと思った。』


 打ち終えた時、凛は少しだけ肩の力が抜けていることに気づいた。


 重いテーマなのに、七海の言葉で少し息ができる。


 この章には、その軽さも必要なのかもしれない。


 壊れないための地図は、深刻な傷の記録だけではない。


 自分を扱うための、少し現実的で、少しやさしい道具でもある。


 大学へ向かう電車の中、凛は資料をもう一度読み返した。


 校正補助。


 編集アシスタント。


 Webサイト更新。


 そして、来週の予定。


『Word入門を一つ見る。できなかったら移動OK』


 その予定を見ると、少しだけ胸が温かくなる。


 未来に置いた小さな橋。


 できなかったら移動していい橋。


 完璧に渡りきらなくてもいい橋。


 それも、地図の一部だった。


 凛はスマートフォンのメモへ書いた。


『地図には、目的地だけじゃなく、休む場所も必要。

逃げ道ではなく、避難場所。

できなかった時に戻れる場所。』


 大学に着くと、七海がいつもの場所で待っていた。


「取説の人、おはよう」


「呼び方がどんどん変わる」


「今日は凛ちゃん取扱説明書作る日でしょ?」


「そうかもしれない」


 二人は並んで歩き始めた。


 凛は、朝書いたことを七海に話した。


 苦手を責める証拠ではなく、負荷がかかる条件として見ること。


 安心しやすい環境を、甘えではなく力を使いやすい場所として見ること。


 七海はうんうんと頷いた。


「それさ、みんな必要だと思う」


「みんな?」


「うん。私も、自分の取説ほしいもん」


 凛は七海を見る。


「七海ちゃんも?」


「あるよ。私の場合、ずっと真面目な空気だと逃げたくなる」


「そうなの?」


「うん。だからすぐ笑う。場を軽くしたくなる」


 凛は少し驚いた。


 七海が笑う理由。


 それを前にも少し聞いた。


 怖いと言う前に笑ってしまう。


 でも、今日の言葉でさらに見えた気がした。


 七海の笑いも、七海の取扱説明書の一部なのかもしれない。


「でもさ、軽くしすぎると、本当に大事なことも流しちゃう時ある」


 七海は少しだけ真面目な声で言った。


「だから、私の取説には“笑ってても話を聞いてほしい時があります”って書いといて」


 凛は胸が少し温かくなった。


「それ、すごく大事」


「でしょ」


 七海は笑った。


 凛は講義中、ノートの端に書いた。


『人にはそれぞれ取扱説明書がある。

笑っている人が平気とは限らない。

静かな人が何も考えていないわけではない。

私の地図を作ることは、他の人にも地図があると知ることなのかもしれない。』


 その言葉は、とても大事に思えた。


 自分の地図を作ることは、自分だけを特別扱いすることではない。


 むしろ、他の人にも見えない地図があると知ること。


 七海にも、灯にも、真白にも。


 母にも。


 それぞれ、壊れやすい場所と回復する場所があるのかもしれない。


 昼休み、凛は図書館へ行った。


 『壊れないための地図』の章へ、今の気づきを書き足す。


『私の地図を作ることは、私だけを特別に扱うことではなかった。

むしろ、人にはそれぞれ見えない地図があるのだと知ることでもあった。

笑っている人にも、壊れやすい場所がある。

平気そうな人にも、避けて歩いている道がある。

静かな人にも、心の中で大きな音が鳴っていることがある。

私だけが複雑なのではない。

人はみんな、自分でもまだ読めていない取扱説明書を持っているのかもしれない。』


 書き終えると、胸が静かに温かくなった。


 この章は、働くためだけの章ではない。


 自分を知る章。


 他人もまた、見えない条件を抱えていると知る章。


 人と関わるためにも、必要な章なのかもしれない。


 夕方、凛はキャリアセンターへ寄った。


 予約はしていなかったけれど、資料棚だけ少し見たかった。


 棚には、いろいろなパンフレットが並んでいる。


 事務職。


 Web関連。


 出版・編集補助。


 自己分析。


 面接対策。


 凛は面接対策という文字を見て、少し胸が硬くなった。


 まだ怖い。


 でも、今日は無理に手に取らなかった。


 今の自分が見る資料は、まだそこではない。


 凛は、自己分析の薄いワークシートを一枚だけ取った。


 そこには、「自分が力を出しやすい環境」「苦手な環境」「サポートがあると安心なこと」という項目があった。


 凛はそれをバッグに入れながら思った。


 これも地図の続きだ。


 今すぐ全部埋めなくていい。


 ただ、持ち帰るだけ。


 セーブポイントを増やすみたいに。


 夜、凛は『cafe 月灯り』へ向かった。


 真白はカウンターで、静かにカップを磨いていた。


「いらっしゃい」


「こんばんは」


「今日は地図を広げてきた顔」


 凛は笑った。


「本当に何でも当てますね」


「当たった?」


「当たりました」


 凛は席に座り、今日書いたことを話した。


 苦手リストではなく取扱説明書。


 大きな声が多い場所ではHPが減る。


 静かな場所で文章を扱うと回復する。


 七海にも七海の取扱説明書があること。


 キャリアセンターで自己分析の紙を一枚持ち帰ったこと。


 真白はココアを出しながら、静かに聞いていた。


「いい章になりそうだね」


「はい。少し見えてきました」


「壊れないための地図って、仕事だけじゃなくて、人と生きるための地図でもあるのかもね」


 凛は顔を上げた。


「人と生きるため」


「うん」


 真白はカウンター越しに言った。


「自分がどこで苦しくなるかを知ることは、相手に全部わかってもらうためじゃなくて、自分でも自分を扱えるようになるためだと思う」


 凛はその言葉を胸の中で繰り返した。


 自分でも自分を扱えるようになるため。


 それは、凛がずっと欲しかったことかもしれない。


 誰かに全部救ってもらうのではなく。


 誰かに全部察してもらうのでもなく。


 自分でも、自分の状態に気づけるようになる。


 苦しくなった時に、何が起きているのか少し見分けられるようになる。


 そのための地図。


 凛は青いノートへ書いた。


『地図は、誰かに全部理解してもらうためだけのものではない。

私が私を扱えるようになるためのもの。

苦しくなった時、自分で自分の現在地を確認するためのもの。』


 夜、家へ帰った凛は、パソコンを開いた。


 『壊れないための地図』の章へ、今日の最後の文章を書き足す。


『壊れないための地図は、誰かに「私をこう扱ってください」と差し出すためだけのものではない。

もちろん、必要な時に助けを求めるためにも使える。

でもそれ以上に、私自身が私の現在地を見失わないためのものだ。

今、私は疲れているのか。

急かされているから苦しいのか。

誰かの機嫌を読みすぎているのか。

休むことに罪悪感を持っているのか。

それを少しでも見分けられたら、私は自分を責める前に、自分を助ける方法を探せるかもしれない。』


 凛は続けた。


『私はこれまで、自分の苦手を消そうとしてきた。

でも、消えない苦手もある。

ならば、消すことだけを目指すのではなく、どう付き合うかを知りたい。

どこで休むのか。

誰に話すのか。

どの予定は小さくするのか。

どの場所からは離れてもいいのか。

その一つ一つが、私の地図になる。』


 打ち終えた時、凛は深く息を吐いた。


 この章が、少しずつ形になってきた。


 働くことが怖い章のあとに、この章を置く意味が、前よりはっきり見えた。


 怖いだけで終わらせない。


 怖さのあとに、地図を広げる。


 それは凛に必要な流れだった。


 青いノートを開き、今日の最後に書く。


『壊れないための地図を広げた。

苦手は責める証拠ではなく、負荷がかかる場所を示す印。

安心できる環境は甘えではなく、力を使いやすい場所。

私は少しずつ、自分の取扱説明書を作っている。

それは、私が私を置き去りにしないための地図。』


 書き終えると、凛はペンを置いた。


 窓の外では、冬の夜が静かに広がっている。


 完成まではまだ遠い。


 でも今日、ひとつの章に灯りを置けた。


 空白を責めるのではなく、空白に言葉を置けた。


 それだけで、凛は少しだけ前へ進めた気がした。


 作品は、今日も少し呼吸した。


 凛もまた、その呼吸に合わせるように、ゆっくり目を閉じた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、凛が「壊れないための地図」の章へ向かうページでした。


苦手なことは、弱さの証拠ではない。

負荷がかかりやすい場所を示す印。

安心できる環境は、甘えではない。

自分が力を使いやすい場所を知るための手がかり。


凛は少しずつ、自分の取扱説明書を作り始めます。

それは誰かに全部理解してもらうためだけではなく、自分が自分の現在地を見失わないための地図でした。


次のページでは、この地図をもとに、凛が「休むこと」を章の中にどう入れるか考え始めます。

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