【短編小説】甘い爪ネイル
痒太郎は全身を掻きむしる悪夢を見て飛び起きた。
顔を撫でる。滑らかな肌の感触。
痒太郎は大きな安堵の息を吐いた。
明け方の薄暗い部屋でぢっと自分の爪を見ると、深爪気味に切った爪は不健康に濁って見えた。
痒太郎はいまだに昔の悪夢を見る。
痒太郎は高校生くらいの頃、ひどいアトピー性皮膚炎を患っていた。
あの頃はどれだけ深く爪を切っても顔を引っ掻いてしまった。
引き裂かれた皮膚と滲み出る血やリンパ液で荒れ果てた顔面を洗う時の苦痛まで覚えている。
いまは症状も落ち着いている。
少なくとも今朝は違った。
痒太郎は自分の顔を撫でながら、隣で眠る恋人の爪賀 ハデ美を起こさない様にベッドを降りた。
ハデ美は一瞬だけ小さな寝言の様な唸り声をあげて寝返りを打った。
掛け布団から出たハデ美の手に見えた指は、大きく派手な付け爪で飾られていた。
ネイルチップと言うものらしい。
痒太郎はハデ美と付き合って初めてそれを知った。
今まではなんとなく曖昧な概念だったそれが、明確な形になったのは最近のことだ。
ハデ美の指から伸びた複雑な銀色に輝く爪は、90年代SF映画に見る宇宙服のようだった。
ユニコーンカラーと言うらしい。
グルーで接着されたユニコーンカラーのチップが伸びた爪半月を覗かせている。
そろそろ付け直しの時期らしい。
昨夜その爪が痒太郎を撫でたことを思い出した。
痒太郎の肌が粟立って、痒太郎は拳を握った。
手に爪が食い込む気がする。
錯覚だ。痒太郎の爪は食い込むほど伸びていない。
だが。
もしかして自分の爪はまだ長いのでは無いだろうか?
ハデ美の中を傷つけているのでは無いだろうか。
痒太郎は急に怖くなって、リビングに急ぐと机の上にあった爪切りに手を伸ばした。
既に先端の白い部分が見えないほど短い爪を鋏に当てる。
かちり。金属の音が響く。
ほんの1㎜以下だけ切られた爪が弾き出される。机の上に転がる。
能が無いならせめて努力はするべきだ。
痒太郎は取り憑かれた様に爪を切った。
爪先から血が滲み出るほどに切り詰めた。
全ての爪と指の間に血と部屋の冷気が沁みた頃だった。
起き出したハデ美が震えながら爪を切る痒太郎を後ろからそっと抱きしめた。
「何をしてるの」
「見たら分かるだろ、爪を切ってたんだ」
「切り過ぎじゃない」
「爪があるのは怖いんだよ」
ハデ美は少し笑うと机の上に転がった痒太郎の爪を摘んで口に含むと
「甘い」
と笑った。
爪を切り終わった痒太郎はぼんやりとハデ美の背中を見た。
褐色の肌は滑らかだった。
塗り薬で黒く変色した痒太郎の肌とは違う。
ハデ美はキッチンに立つと、背中越しに
「コーヒー、淹れるね」
と言った。
痒太郎はハデ美の背中に何か声をかけるべきだと逡巡して
「君の爪の垢を煎じてくれ」
そう言いかけて、やめた。
あまりにも無能だ。不具だし、木偶だ。
痒太郎は机に散らばった爪を集めて空き缶に入れた。
血が滲む指坂を見ながら、今日は缶コーヒーを飲めないかも知れないなと痒太郎は思った。
プルタブが引けないのだ。
ハデ美の淹れるコーヒーを待とう。
長い宇宙チックな爪を器用に扱うハデ美の背後を見ながら、痒太郎は爪切りを置いた。
ハデ美がいなかったら、おれは。
「お待たせ」
ハデ美のコーヒーを飲みながら、痒太郎はその先を考えなくなったことを受け入れた。
それでいいんだ。




