風の帰り道
歩き始めるたび、風は僕の隣に戻ってきた。
その道の先で、誰かが僕を待っている気がした。
退院が決まったのは、思っていたより早い日だった。
窓の外で風が強く吹いて、病院の木々がざわめいていた。
先生がカルテを閉じながら言う。
「よく頑張ったな。ここからが本当のスタートだ。」
僕は頷いた。
嬉しさより少しの不安が勝った。
夢の草原の風は、“もう大丈夫”と言うように優しい。
けれど現実の風は、時々冷たすぎる。
荷物をまとめながら、窓を開く。
秋の風が吹き込んだ。
どこかで、女の子の笑い声がした――気がした。
「……リナ。」
呟くと、風が返事をするように揺れた。
退院の日。
病院の玄関前で杖を握りしめる。
一歩外へ踏み出すと、光が眩しい。
風が道の先へと吹き抜けていく。
歩幅は短くても、確かだ。
杖がアスファルトを叩く音が、心臓の鼓動に重なる。
そのときだった。
「その花、かわいいね。」
横から声がした。
振り向くと、近くのベンチに座っている少女が、僕の杖に結ばれた白い花を指さしていた。
年齢は僕と同じくらい。
病院の制服でも、患者の腕章でもない。
普通の街の子。
なのに――
どこか、リナの笑顔と同じ匂いがした。
「それ、誰かからもらったの?」
風が吹いて、彼女の髪が揺れる。
淡い茶色の瞳が、どこか懐かしく光った。
「……いや。
朝起きたら、杖に結んであって。」
僕がそう言うと、少女はふっと笑った。
「そっか。いいね。
“守り風”って、そういうふうに届くらしいよ。」
「守り……風?」
「うん。
誰かが“そばにいるよ”って伝える風。
気づけた人だけが、受け取れるんだって。」
その言葉に、胸が強く跳ねた。
まるで夢の中の声が、現実になったように感じた。
少女は立ち上がり、風の方を見ながら言った。
「じゃあね。
またどこかで、風が呼んだら会おう。」
歩いていく背中が、風に溶けていく。
その姿が完全に消えるまで、僕は動けなかった。
風が頬を撫でた。
それは、夢でリナが触れたときと同じ温度だった。
その夜。
夢の草原で、リナの姿はやっぱり見えなかった。
けれど風だけが、僕の名前を優しく呼んだ。
『大丈夫。帰る道は、ちゃんと風が知ってるよ。』
僕は風の中で目を閉じた。
現実で聞いたあの少女の声と、リナの声が重なった。
『君が歩く音を、私は忘れない。
だって――それが、君が生きている証だから。』
胸の奥が痛いほど温かくなった。
風は、道を教える。
立ち止まった心にも、帰り道をそっと示してくれる。




