1話 日常
「かすみ、朝よ」
未だ微睡の中にいたかすみは、女神のような声に体を震わせた。凛としつつも自分への愛を感じる優しい声は耳を通り抜けると、砂浜に染みいる波のように脳を侵した。
——ああ、なんて幸せなんだろう。
だがそんな幸せは長くは続かなかった。
「朝よー! 起きなさーい!」
「きゃああああ!!!」
掛け布団を勢いよく剥がされ、かすみは悲鳴を上げた。さらにシオンは容赦なくカーテンを開け放つ。差し込んだ朝日が、追撃のようにかすみを襲う。
「目が!!! 目があああ!!!」
目を焼かれ、安眠を奪われたかすみは、ベッドの上で転げ回り――そのまま勢い余ってベッドから落ちかけた。
だが、その体は落ちる前に受け止められる。
「……あ」
両腕でしっかりと支えたのはシオンだった。
「おはよう、寝坊助さん」
気づけば、お姫様抱っこの形になっていた。
かすみは一気に目が覚める。自分の体重をすべてシオンに預けている感覚に、胸がドキドキと高鳴り出した。
「うん……おはよう、シオンちゃん。重くない?」
すぐに降ろされたかすみは、名残惜しさを抱えながらも、おそるおそる尋ねる。
「質問してる時点で答えは出てるのよ」
「うっ」
痛いところを突かれて言葉に詰まる。
「だらしない生活してるからじゃないの? 昨日何時に寝た?」
「12時だけど……」
「11時には寝なさい」
「え~」
早すぎる、と表情と声で訴えるが、シオンは聞く耳を持たない。そのままさっさと階下へ降りていった。
時計を見るとまだ十分余裕のある時間だった。もっと寝てたかったのに、という思いよりも朝の時間をシオンと過ごせる余裕があることに浮足立ちながら、シオンの後を追いかける。
洗顔を終えてリビングに行くと、いつものように二人分の朝食が並んでいた。
かすみの両親は海外に出張しており、この家には今かすみ一人だけだ。それを見かねて、シオンは朝食の用意や掃除などの手伝いをしてくれている。
シオンの両親も仕事で忙しく、朝はシオンが起きる前に家を出てしまう。自分の朝食を作るついでに、かすみの分も作っているというわけである。
こうして二人で食事を囲むのはいつものことだった。
「いただきます」
「いただきまーす」
席に着くと二人で一緒に食べ始める。パンと目玉焼きとサラダというシンプルな朝食だが、親友が作ってくれた料理は、かすみにとって何よりのごちそうである。
小学生の頃、家が隣同士になってから、2人はほとんど毎日を一緒に過ごしてきた。それでも、シオンと過ごす日常は少しも色あせない。
慣れることと飽きることは似て非なるものだと、かすみは目の前で目玉焼きにたっぷりとマヨネーズをかけている親友から学んだ。
だが、そんな幸せを噛みしめるたびに、不安がも顔を出す。
━━シオンちゃんは、私と同じように感じてくれているのかな……
きっとそうなのだろう。そうでなければ、わざわざ毎朝かすみを起こしに来たりしないし、朝食を作ってくれたりもしない。だがどうしても確信には至らず、古傷のようにじくじくとした痛みが胸の奥に生じる。
小学生だった二人も、もう高校生だ。
中学生から高校生になるのと、高校生から大学生になるのとでは生活への影響が段違いだ。ましてや社会人となればなおさら周囲の環境を歪ませることだろう。
━━私はいつまで一緒にいられるんだろう。
そんなことを考えながら、朝食を口に運ぶ。
これも毎朝のことだった。
親友への愛が重すぎるがゆえの、いつもの発作みたいなものだった。紛らわしい。
食事を終えたかすみが制服に着替えて階下に降りると、すでに支度を終えたシオンが待っていた。
「じっとしてね」
そう言って、リボンの結び目をきゅっと整える。いつものことなので言葉は不要だった。
「はい、これでよし」
「えへへ、ありがとうシオンちゃん!」
かすみがお礼を言うと、シオンははにかんだ。
「学校行くわよ」
「うん!」
玄関でローファーを履く。
ドアを開けると、朝の空気が頬を撫でた。
2人は並んで歩き出す。
自然と肩の距離は近い。
それもまたいつものことだった。
◆
「もうすぐ期末テストだけど、ちゃんと勉強してる?」
「してるよ~、昨日も0時まで起きて勉強してたよ~」
「そうだったの? 感心ね」
「うん、昨日は家庭科の勉強のために料理動画見てたの。今度シオンちゃんにもふるまってあげるね!」
「今回のテスト範囲に家庭科はないわよ」
「そうなの!?」
教室でそんな他愛のない話をしているかすみとシオンに、二人組の女子が声をかけてきた。
「二人とも、おはよっす」
まず挨拶したのは背の高い少女、かりんだ。髪を短めにそろえているのは陸上部の活動で走る時にうっとうしいからとのことである。
「おはよ~」
一方、対して、気だるげに手を上げたのは小柄な少女、リリだった。髪がぼさぼさで、また寝坊してセットしなかったようだ。
……いや、寝坊していなかったとしても面倒くさがりなリリのことだ。きっと同じだったに違いない。
「かりんちゃん、リリちゃん、おはよう!」
「おはよう、遅い到着ね」
「いや~、朝練がはかどったからついね。こいつは見てわかる通り寝坊だとよ」
「う~、こいつっていうな」
かりんに肩を叩かれ、リリが不機嫌そうに唸る。その表情にかすみはチワワの面影を見た。
「つーか、髪くらいセットしろよ。アタシでも最低限の身だしなみくらいは整えてるよ?」
「……だいじょーぶ、かりんがやってくれるから」
「はっ!? いつの間に!?」
リリの言葉通り、かりんはいつの間にか櫛を取り出し、リリの髪を梳いていた。しかも自分の髪にするよりも何倍も丁寧に。無意識って怖い。
「リリがずぼらなのは、かりんが甘やかすからじゃないかしら……」
「うう、否定できねえ……」
かりんはうろたえるが、櫛を動かす手は止まらない。
もうこいつはダメかもしれない。
「シオンちゃんも人のこと言えないけどね」
かりんが言う通り、シオンも人のことは言えなかった。
というのもその本人は、今まさにかすみの唇に保湿用のリップクリームをぬりぬりしているところだったからだ。つまりどっちもどっちだった。
かりんにされるがままのリリは、同じくシオンにされるがままのかすみをじっと見るとぼそっとつぶやいた。
「ニートなかま……」
「私たち女子高生だよね!?」
「かすみあまり動かないで」
思わず否定する。
だが、身の回りの世話をここまでしてもらっている自分は、将来ニートにならないと言い切れるだろうか。
少しだけ不安になる。
このままだとダメになりそうだ。
だが、シオンに世話を焼かれる時間は、生きる意味と言っていいほど幸せなことなので、やめてとは口が裂けても言えない。
「あれ? てゆうかリリって今日日直じゃなかったっけ?」
「だいじょーぶ、朝の用意は昨日のうちにペアの男子に頼んでおいた。その代わり帰りは私がやるけど」
リリが近くのメガネの男子に親指をグッと立てる。するとメガネの男子も親指を立てて返した。同じ日直の相方らしい。ズボラなのか用意周到なのかわからなくなる。
そこで予鈴が鳴った。
朝の会話は終了だ。
二人は慌てて自分の席に戻る。
シオンは右斜め後ろの席なので、余裕をもって席についた。
そして授業が始まる。
これがかすみとシオンの日常だった。
だが——その平穏は、この日破られることとなる。




