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にっき  作者: uouoiruewotuqo
9/30

202409100311

 日記なので今日あったことを書きます。

 仕事をしてきて深夜3時に上って帰宅。うさぎ小屋の掃除をしてからだらだらとしてるうちに時間が過ぎて、現実から逃避してたけど差し迫った用事がなくなるわけでもなく、部屋の模様替えをしなければなりません。というのも、なんかこう、パソコンデスクの椅子ですね、この床の部分がメリッといやな音を立てまして。賃貸なので至急手を打たなければならない。といってもホームセンターとか行けるのは火曜日以降だし……というわけで、もっとも原始的かつ有効な手段として椅子の場所を変えることにしました。つきましては椅子だけ場所変えてもどうにもならないのでパソコンデスクも移動、5畳ほどしかない狭い自室の内部でそのでかさのものを動かすからには、実際には大規模な模様替え、ということになるわけです。しかし賃貸程度のグレードで10年以上住むとあちこちガタ来るよな……不動産屋ときっちり話をしてどっちの負担か明確にしとかねえと。

 それはさておきですね、結局はその場しのぎなわけです。抜本的な解決は、不動産屋と相談して、まあどっちが負担するかで揉めるでしょうけど、完全に修復するしかない。おそらく通常使用の範囲だとは思うから、問題ないとは思うんだけど……。

 さて、そうはいっても、今日いまこの瞬間から椅子を置いた場所の劣化は始まっていくわけです。もちろんマットは敷いてますが、要は床材がダメになってきてるわけなので、その程度の保護ではどうにもならない。なんかこう、畳とかそういうレベルの強度を持ってて、椅子の重量を分散できるような敷物が必要。しかも退去時には捨てる前提。見た目とかどうでもいいからとにかく安く頑丈。

 この条件で考えるとまっさきに思いつくのが合板ですわね。インテリアもクソもねえな。




 いま読んでる本は「町村合併から生まれた近代日本」です。まだ2割くらいしか読んでないですけど、これもうおもしろくなる予感しかしない。

 俺は重度の活字中毒者で、それこそ子供のころは活字がないと泣いてむずかるくらいのひどさだったんですが、現在でもその名残はあって、活字というものをコスパで計測するくせがあります。10万字あたりいくらみたいな感じ。ふだんからなろうを愛用しているのは「大量の字が無料で読めるから」という側面はかなり大きい。ちなみになろうの前は青空文庫が俺のお食事でした。活字を読んでいるというより食っているという感覚が近い。あるいは「目から流し込んでる」かな。

 しかしそんな俺でも、やっぱりちゃんとした本はすごいなと思います。なにしろ問いの立てかたが違う。てゆうかちゃんとした本とそうでないものの最大の違いってここだと思うんですよね。問いは大きくなればなるほど解答を出すまで時間がかかる。ということは、でかい問いに立ち向かうにはその問いに没頭できるだけの時間的余裕、つまりそれでメシ食ってるという条件が必要で、そういう人間だけが新書なりなんなりのかたちで著作を世に問うことができる。そう考えるとこの出版っていうシステムはあんがい悪くないものだなと思ったりもします。

 この本の問いは「グローバル経済はほんらい国境を蹂躙して広がるものだが、そのグローバル経済を信奉する新自由主義者はむしろ国境を強調する。なんでやねん」というものです。であればまず権力と境界の関係性について考えなきゃだめだよね、そのちょうどいい題材が明治の大合併にあるよ、じゃあこれを分析してみよう!という流れです。この流れに持ち込むまでの手続きが実に流暢で、読んでてすごい納得感がある。

 いやもー、おもしろいですよね。だって俺、いままで生きててこんな問いを持ったことがない。問いが違うって、思考の枠組みそのものが違うっていうことですけど、他人の思考を覗き見ることの最大の楽しさってこの「枠組みが違う世界」を見ることだと思うんですよ。個人的にこの本を手に取った理由は、自治体の範囲が広範じゃない、現在でいうところの大字、つまり生活や経済の単位ですけど、それがそのまま政治の単位であったような、そういう時代に人はどういう世界観を持ってこの世を眺めていたのだろう、というよ興味からなんですが、この本は、そうした興味に答えてくれることはなさそうだけど、かわりに考えたこともない問いを提示してくれた。おもしろいですよね。

 ばらばらの事例から法則性を見出す。その法則性はもちろん人の営為のすべてを説明できるわけではない。ただ、少なくともこの問いの観点からは人の営為はそのように説明できるのだ、という推理小説にも似た種明かしですよね、こういうのがたまらなく好きです。

 続きが楽しみですねー。




 日常シーンの話。

 とある場所で「日常のシーンが書けない」というのを見かけてちょっと驚いたんですよね。そんなことあるの?と思って。

 まあほかの日記を読んでもらえればわかるんですけど、俺は無際限にどうでもいい日常のシーンを延々と書けるタイプの人です。おもしろいかどうかは知りません。つーかシーンとして必要なんだから割り切って書きゃいいじゃんと思うんですが、これはおそらくは「苦にならない」人の言い分なんですよね。

 というのも、俺は、たとえば「あからさまに嫌われる言動をしてヘイトを買う人」の描写なんかはとことん苦手です。そういう人間が身近にいたら見なかったことにして脱兎のごとく逃げる。最悪逃げるためなら転職でも引っ越しでもする。つまり「考えたくもない」んですよ。

 じゃあふだんなにを考えてるかというと、妹がいて兄がいてどうでもいい会話をしてるような日常です。ふだんからそういうことばっか考えてるから書けるのです。逆にいうと、俺は圧倒的な強者が暴力振るったり、修行の末に力を手に入れた主人公が華々しく活躍したりするシーンを妄想することがほぼありません。想像しろと言われてもありきたりなつまんないものになるだろうし、そもそも想像できるかどうかが怪しい。

 というですね、いってみれば身も蓋もない話なんですけども、ただ、俺が日常シーンを描写するのを得意(あくまで主観的にですよ?)とするようになったのは、かなり長い時期にわたって身辺雑記的なブログやってたせいもあると思います。

 この文章を読んでもわかるとおり、俺は自分がやったこと、考えたことを文章にするのが基本的に嫌いではありません。自分は別にどう扱ってもいい題材なので。垂れ流しといってもいいですが、同時に「同じ垂れ流しでも少しは読んでもらえるように努力しよう」という意識は常にありました。スクーターで移動してたら交差点で猫が飛び出してきた。こういうどうでもいいことでもそのイベントが起きた瞬間ってけっこうひやっとしたりする。全体のなかに置いたら劇的でもなんでもなくても、個人の生活においてはきちんと劇的なんです。あとはその「劇的」な感じをどう伝えるかですよね。俺は長いこと重点的にこういう文章の書きかたをしてきて、この部分に関してはまちがいなく小説を書くにあたって役に立ってると思う。

 まあなんでもそうですけど、ほとんどのことは慣れと技術ですよね。試行回数が多きゃそりゃうまくなるだろ、と。もちろんそんなもの無視してぶち超えていく人間もいるんですけど。そういうものと自分を比較してもしゃーない。

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