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にっき  作者: uouoiruewotuqo
3/30

202409040826

 中途半端に時間ができたので自転車の話をします。ほんとは「キャラが勝手に動く」という現象に関して、一度もそれを経験したことのない自分の恨み節を9万字くらい書こうかと思ったんですが、いまパンク修理しようとしたらひでえ目にあったのでそっちの愚痴を先に書くことにします。


 自分の自転車はいわゆるグラベルロード規格のやつで、そのなかでもまあ街乗り寄りというか、そんなにお高くないやつなんですけども、こいつが、650B×47なんてタイヤ履いてるくせに力の限りパンクしやがったんですよ。なんだよその太いタイヤは見せかけだけかよクソがと道のまんなかで五体投地してたんですけど、とにかくパンクした以上はどうにかするしかない。ところで五体投地で思い出したんですけど、ミラクル高僧チベットちゃんって漫画を知ってる人はいるでしょうか。あれ最高に狂ってましたよね。いまアマゾンで調べてみたらこの作品、絶版になってません!? ハイパーあんなとか天からトルテとかはふつうに復刻してるみたいだから、あれ作者のなかで黒歴史扱いだったのかなあ……。

 話を戻して、ここで俺の自転車に関するスキルを公開しますが、まあ自転車いじるの好きでもなんでもないです。それでも昔に乗ってたころにはパンク修理くらいは自分でやってたんで、20年もの時間の空白を経て2024年に自転車趣味を再開したときも、予算の関係でスルーアクスルなんて謎の規格のやつは買えなくてクイックリリースでしたし、ディスクブレーキは昔にはほとんどなかったですけど、別にタイヤぶっこ抜くくらいなら問題ないでしょと思って、とりあえずパンク修理キット買ってきていざ修理、ということでさっきタイヤ外してタイヤレバー差し込もうとしたんですけど、これが驚きの硬さ。タイヤ揉んでどうこうとかそんなレベルの話じゃねえ。レバーが入る隙間もねえ。こんなことじゃギャルが道端で自転車壊れてても修理できねえ。あれけっこうおもしろかったです。それにしてももうずいぶんと昔からの話ではありますけど、主人公は草食系になりましたよねえ。あれいつごろからだっけ。今季の覇権とも噂されるマケインなんかはもうわけわからん。あれは草食系とかいう以前に、なぜあの状況が成立してるのか、その詐術がぬっくんに集中してるんで、エロゲ主人公みたいなギミック感じますけど。作品そのものはもちろんおもしろいです。

 自転車は買った店で教えてもらいながらパンク修理してもらって、あと舗装道路で47はちょっとさすがに太すぎる。月500キロくらいしか乗ってないんですけど、それでもう数カ月は乗ったんで、そろそろほかのタイヤ試してみてもいいころだろ、ということでとりあえずパリモトでも入れてみようと思います。自転車屋の人からは700Cカーボンホイールへの換装を強く勧められてますが、さすがにちょっと予算が。たぶんコミコミで10万くらいするよね。


 まだ時間があるので、冒頭で書いた「キャラが勝手に動く」の話でもしようと思います。

 あんまりこういう物言いって好まれないのは承知なんですけど、俺は小説書く能力があんまりない人間です。まあ才能ない。自分で言うなよ予防線張る人生は楽しいかとか思われそうですが、いちおう待ってください。これにはちゃんと根拠があるんです。

 小説とはなにか、そしてそれを作るにはどんな能力が必要とされるのか。大上段すぎる話ですが、俺はこのへんあんまり難しく考えてなくて「人間に関する主題を扱ったフィクション」くらいの雑な把握です。もうちょっと言うと、状態AからBへの変化を追ったひとまとまりの文章くらいの感じ。とある昭和の文豪が「タバコを買いに行って家に戻るだけでも一本の小説を書ける」と豪語したそうですが、要は、タバコを買いに行く前と帰ってきた後とで、なにか主人公の状態が変化していれば、それは小説として成立する。おもしろいかどうかはまた別の話ですけど。

 ところが俺にはこの「状態の変化」というのがそもそも理解できないんです。いや、35歳くらいまではできなかった、という過去形かな。そもそもそれくらいの年齢になるまで、俺には「自分と同様のシステムを持って動く精神体」であるところの他者というものの存在が理解できませんでした。後になって発達障害という概念を知ることになるんですけど、現実においても、他人ってのは「そういうシステムで動いてる機械」という扱いだったんで、この状態でキャラクターもクソもないわけです。自律的に動く他人というのが想像できないわけですから。自意識の内側と外側しか存在せず、外側はみなわけのわからない世界という感じです。

 キャラクターとはなにか、なんていうとまた大げさな話にはなりますけども、めっちゃ雑にいうと「友だちを別の友だちに紹介する」ときに必要な体系的な情報、みたいな感じかなと思うんですよ。この場合「友だち」の存在には現実という担保があるわけなんですが、キャラクターの場合はその担保の部分がない。ゆえに、私もあなたも知っている人間というものの典型例をうまく利用して、その共犯関係によってひとつの人間像を立ち上げましょう、というような暗黙の了解が小説にはあると思うのです。ところが俺にはこの「暗黙の了解」がまるで理解できなかった。


 しかしまあ、小説らしきものを書こうとはするのです。文章を書くのは、このいかにも短時間で一気にうわーって書いてますよねーって感じのテキストのスタイルでもわかるとおり、とにかく好きです。なんなら好きというよりも空腹時にポテチ食うくらいに敷居が低い。発想がデブだ。自転車に乗れ。パンクしてんだよクソが。

 そんで、インターネットのない時代、小説なんか書こうと思ったらリアルのつながりがものを言う。そうして周囲に創作やる人間が集まるんですが、みな言うんですよ。キャラが勝手に動く、と。そして返す刀で俺に言う。おまえはキャラが書けない、と。

 そんなんあたりまえですよ。俺には「他者」が存在しないんですから。だから現実よりもフィクションのキャラクターのほうが消費しやすかった。どんなに愛想と、どんなに憎もうとフィクションのキャラクターは返事をしないからです。サボテンを僕の神様にするように、自分のやりたいやりかたで「人間」を消費することができた。ただ、作る側に回ると話が違ってくる。こんなやりかたでキャラクターを作ったところで、できあがるのは、自分の欲望を押し付けた不格好な粘土の人形だからです。それはもはや人間のかたちをしているかどうかすら怪しい。

 もちろんなろうではそういう作品をよく見かけます。いっちゃえばたいていの記号的要素はそうです。巨乳しかり、料理上手しかり。ただそれでも、その記号的なキャラクターが人間一般の法則を備えた存在ならちゃんと説得力と存在感は出てくる。まあ実のところ、その記号的要素が作者の欲望を反映すらしておらず、こういうのがウケるだろうと一般的な人気の記号で組み立てられてるキャラを見るときがいちばんきつかったりするんですけど、それはそれ。

 ところが俺にはその「人間一般の法則」が理解できなかった。現在でもそうですが、俺は人から褒められると腹が立ちます。「この仕事を評価できる水準の知能を持ってるのか」ということを証明できていない状態で「すごい」と言われることは侮辱にほかならないからです。要は自分が認めた相手からの評価しか受け付けない。しかし人間一般はそうではない。現在の俺はそのことを理解していますが、過去にはそうではなかった。こうしたことが無数に起きた。


 ……というようなことがありまして、俺はずーーーーっと長いこと「キャラを作れない」というコンプレックスがあったんですね。それはつい数年前までそうだったと思う。ところがそうではないと、とある信用できる読み手が言った。「いや、あんた小説関連の能力ならキャラ作りがいちばんましだろ」と。

 これは驚きでしたね。俺は、キャラというのは物語世界において呼吸をする「生身の人間」であるべきだと考えてたんですけど、そうじゃないと。小池一夫原作の劇画の登場人物に生身の人間のリアルさがどこにある。それこそ「人間一般の法則」以外はでたらめなくらい自由だ。つまり、人間一般の法則というのは、おまえが思っているような難しいものではなく、腹が減ったらメシを食う、メシを食ったらクソが出る、虫歯が痛ければ泣く。その程度のものである。それ以外はなにをやろうと自由なのだと彼は言うのです。

「じゃあお兄ちゃんが大好きでたまらない淫乱な9歳の妹ちゃんもアリですか? ふだんはお兄ちゃんとの性生活のことばかり考えています。好きなお兄ちゃんの部分は睾丸です」

「アリなわけないだろボケ死ねロリコン」

「おまえを生涯許さない。おまえの睾丸もだ」

「なんで睾丸縛りなの? 頭おかしいの?」

 というようなやりとりがあって、俺は彼を生涯許さないことにしました。寝ているあいだに睾丸にロキソニンパップを貼って一気に剥がすという罰も与えておきました。安心してください。やってません。剥がしたあとのロキソニンパップ、おそろしくて見れたもんじゃねえな……。剥がしたときの悲鳴「イ゛ア゛ァァァァッッッ!!????!!」とかそんな感じじゃないだろうか。

 いやそういう話じゃない。このとき以来ですよね、少しは小説を書くことが苦痛でなくなってきたのは。なにをやってもいいんだ、そう思えるようになった。自意識の内側だけで展開する極彩色の地獄みたいな極楽であっても別にかまわない。だれが理解できなくてもまったく問題じゃない。むしろその「だれも理解できない」「クソみたいにつまらない」「まったく無価値」を通過した先にしか、人が読めるものはできっこない。少なくとも創作ワナビ本みたいなのを読んでそれを実行できないほどに不器用な俺はそうするしかない。そうやってようやく俺は、人から「えーとこれは……小説、ですよね……?」と自信なさげに言ってもらえるレベルに到達したとのことです。


 別にこの話にオチはありません。しいていうなら、俺は、最初に小説らしきものを書こうと、現在では老眼でまったく使えないB罫のノートにびっしりと文字を書き込んだ日から、30年近くの時間をかけて、ようやく小説らしき体裁のものを書けるようになった、ということです。なので、いま書けなくて苦しんでいる人も30年くらいがんばればきっとどうにかなります。

 ……それは、励ましのふりをした死刑宣告なのでは?

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