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さて、愛用しているテキストエディタは、オンラインテキストエディタの「WriteBox」です。
自分は異常なくらいの粗忽者で、特にテキストファイルの管理のできなさは人類でも下のほうが数えたほうがいいんじゃないかと思うくらいできません。というよりそもそもまともに管理する気もないし、消滅してもまったく気にしないのが悪いんですが、それでも、消したくはないファイルまで一緒に消滅してしまうとさすがにヘコむ。しかしこのモノを管理できないのは、おそらくは発達障害という確固たる背景があってのものなので、管理できるようにする、という方向ではなにも改善しない。実際にその方向でがんばってみたこともあるんですよ。
で、いつからか悟ったんですな。よく、発達障害の人のカバンはとにかくでかい、重い、なに入ってるんだかわからんなんてことをいいますが、だったらテキストの管理でも同じことをやればよいのではないのか。自動保存してくれるサービスでテキストを書いて、それをどこかに保存。どこに保存してあるかまではわからないがどこかには保存してある。探せばかならずどこかにはある。
これをやってからテキストの散逸はかなり避けられるようになりました。
もっとも、とつぜん発作的に自分が書いたテキストをぜんぶ消したくなるみたいな衝動が起きるときもあるので、そういうのはもう対処できません。基本的に自分の書いた文章が嫌いです。
そう、小説書いてる方はみなさんおっしゃるじゃないですか。自分の書いたものがいちばんおもしろいって。
まあ理屈としてはわかるんですよ。俺だって、バスケで留学してきた黒人大学生のボブに妻が寝取られて、ボブの逞しいものでよがっている妻を見ているうちに新たな欲望に目覚める男性を描いた作品よりも、スラム街で拾ってきた汚ロリをひたすら甘やかすんだけど、いくらきれいにしても染み付いたにおいがとれなくてくさい、という内容のほうが興奮する。そしてそこまで込み入った欲望だと、かなえてくれるのはもはや自分だけですよね。実際にそれを書いて、そしていわゆる「寝かせる」という状態を経て、まるで他人が書いたもののように読めば、それは興奮するに決まっています。褐色ロリだとなおいい。いまの一文はまったくいらない。
ただ、どうなんでしょう。人はその文章を自分が書いたという事実に耐えられるんでしょうか。いくら寝かせたところで、それを自分が書いたという事実まで消えるわけではありません。それを読むということは、つまり「おまえの罪を数えろ」状態なのではないか。たとえそれが自分の欲望であっても、俺は右足欠損の褐色ロリにいくらやさしくしても瞳にハイライトが戻ってこない、というのは欲望としてかなりまずいものだと知っています。この場合、1年なり2年なりの時間を経過して疲れはてた主人公が褐色ロリの女の子を殺そうとするんですが、そのとき、すべての希望を失った女の子に「これでようやく消えられる」という希望が生まれて、一瞬だけ瞳に光が戻るんですよ。「あ、り、がと……」という言葉を残して、男の腕のなかにはぐったりとした女の子が残される。
なんの話だったっけ。
で、その女の子の遺体を前に号泣しながら自分を慰めるような行為をする、というような行為まで描写し、そこでエンディングとなるわけなんですが、これ書いたの自分なんですよ。おまえかよってなる。他人が書いたものなら文句はない。最高です。もちろん自分の書いたものなので内容の拙さとかが目立ってしまって、それで自己嫌悪に陥る、みたいな部分もあるんでしょうけど、それ以前に「自分が書いた」という事実に耐えられないんですよね。ましてそれを公表してしまったら、その自分のあさましい欲望が他者の評価の目線に晒されてしまう。こんな恐ろしいことはないですよ。
いまのはあえてひどめの例を出してみたんですけど、これ、高潔な人類愛がテーマでも自分にとってはやっぱ同じなんですよね。だって小説にするんだから、本気で高潔な人類愛を書いてる俺は信じてるんですよ。それがどう思われるかとかよりも「そんなものを信じてる自分」のほうがいやになる。それを書かなければならないほどの衝動を抱いてしまった自分がいやになるわけです。これでまことに困ったことに、書いてるときはそういう自己嫌悪みたいなのほとんど出てこないんですよね……。
ちなみに俺の本業というか、メインの活動は別のアカウントでやってたエロ小説で、こちらはそこそこ読まれてもいたし、なにより自分自身がきわめて書くのが楽しかった。通常は苦痛でしかない推敲もそこそこできた。これ、理由ははっきりしてて、エロなので「抜ける」という絶対の基準があるんですよ。読まれてる=だれかが抜いてる、じゃないですか。ほんとはノクターンには「抜けました」ボタンを実装してほしくてたまらない、それがあったら5メートル級の化け物みたいな高下駄を履いたようなモチベーションを維持できると思うんですけど、ひとまずはアクセス数とブックマーク数を指標とする以外にありません。
その、なんだろ、抜ける、というのはエロ小説では実はけっこう貴重なことだと思うんですよ。ぱんつ下ろしてノクターンで検索してる人って実はあんまりいないと思う。それに性癖の問題があります。もしノクターンに本気でエロを求めている人がいるとしたら、それは俺みたいに「実妹でないと無理」「できればヒロインは8歳であってほしい」「インピオインピオォォォォォン(その動物の鳴き声はあわれな響きを帯びていた)」みたいな煮詰まった感じの行き場のない性癖を持ってるタイプの人だと思うんですよね。ここならあるかもしれない、隙間家具の後ろにできた隙間を埋めてくれるような、俺の求めているものが!
そうして、その煮詰まった欲望をもとに書かれたエロ小説が、だれかに読まれたとする。ブックマークされたとする。おそらくそれは、その人にとっていくら探しても見つからなかった、ほんとに貴重なものであるはずなんですよ。技術の巧拙なんか問題じゃない、俺は羞恥心がまだ芽生えていない8歳の実妹のおしっこを直撃される描写がないとだめなんだ! この作品はそれを書いてくれた! この3行だけで俺はあと10日は戦える! きっとそういうことなんですよ(どういうことだよ)。
ぶっちゃけ、一般小説の書き手としての俺なんて、この世にいてもいなくてもどうでもいいです。だれかが俺の抱えているテーマを、もっと上手なかたちで書いてくれるからです。なにより、そんなことはない、このテーマは俺だけのものだと俺自身が信じてない。でもエロはそうじゃない。剛毛で悩む14歳の実妹をテーマにしたエロ作品がこの世にどれほど存在しているというのか。なんでも無毛にすりゃいいってもんじゃねえんだよ。たとえあったにせよ、ジョンKなんちゃらさんが気まぐれで2年に1回くらい書いてくれればいいほうでしょう。
そう考えると、エロというのは、自分自身の違和感やらなんやらを抑制して、なかば社会貢献にも似た気分で書き続ける意味がある。この世には飲尿レズの供給が少なすぎるでしょう!
というわけで、なんの話かまったくわからなくなりました。
ああそうそう、自分の書いたものを好きかどうかって話でしたね。俺の場合、書くところまではまちがいなくきわめて楽しいです。が、書き終えた瞬間、すべてがいやになる。エロならかろうじてその障壁は越えられる、という感じでしょうか。
思うんですけど、この障壁って本来はだれにでもあると思うんですよ。そこを乗り越えていくものがあるとすれば、たとえばビッグになってやるぜっていう野望だったり、直接的に金がほしかったり、初期衝動だったり、だれにも共有されなかった情熱や悲鳴、号泣みたいなものが出口を求めて物語というかたちで爆発してしまった、ということかもしれません。そして、そうしたものを公開することはだれだって怖いはずです。その恐怖をどうやって乗り越えるのか、乗り越えなければならないだけの理由があるのか、あるいは、俺自身にも覚えはありますが、なんの役にも立たないがらくただと思っていた自分の文章が、だれかにとっては意味があり、価値があるものだと知ったときの喜びがあまりに大きかったのか。実際はわかりませんが、書く人の数だけの懊悩と喜びと、そんなものがあったはずです。
俺にはそれらを乗り越える理由がなかった。まあそういう意味では、技量以前にやはり向いていなかったんだろうな、と思うことがよくあります。
でもまあ、これはいかにも年寄りくさいセリフではありますが、いい時代になりました。そんな人間でもネットの片隅ではなにかを書いていられる。匿名でいられる。しばらくはその匿名性に寄りかかって書くことを続けていこうと思います。