2.ノアの過去
シャロンがまだ5歳のときのこと。とても酷い雨が降っていた。
今はすっかり背も伸びて大人と変わらない姿だけれど、そのときのノアもまた小さな子供だった。
土砂降りの中本館に駆け込んできたノアは、母が病で死にそうだから薬が欲しいと父に泣いて縋っていた。けれど父は奴隷にやる薬はないと一蹴し、冷たい雨が振る外に小さな子供を放り出してしまった。
薬の代わりに大切な人を失う絶望を抱えて帰っていくノアを、部屋の中から見ていたシャロンは母に薬を渡せないのか尋ねた。けれど気の弱い母が父に何か意見できるはずもなく、娘の頼みでも結局薬を貰うことはできなかった。
雨が止み、ノアがいる小屋へ行ってみると彼の母はすでに事切れていた。
奴隷にベッドが与えられることはなく、小屋だって病人をただ隔離するために物置小屋に移されただけのようだった。
ノアは壊れた人形のように、硬い木の床に横たわる母親から離れようとはしなかった。
それからシャロンは毎日ノアがいる物置小屋にやってきた。やっぱりノアはどこか壊れてしまったのか、母親の側から一歩も動こうとしない。このままでは衰弱してしまうと、シャロンは自分の食べ物をこっそり彼に持っていってあげた。
壊れていてもお腹は空くのか、与えれば食べ物を食べてくれてほっとした。これならノアまで死んでしまうことはないだろう。
どれくらい経ったのだろうか。
ノアの母親は床の上ですっかり朽ちてしまって、うじが湧いていた。最初はシャロンが木の棒で払っていたけれど、匂いがだんだんと酷くなってきた。厩番の男が匂いが酷くて眠れないと小屋まで押しかけてきたときは、追い返すのに苦労した。
「ねえ、お母さんをそろそろ埋めてあげよう」
厩番の男が死体を片付けないと物置小屋ごと燃やすと脅してきた。このままではノアも殺されるかもしれない。それに、いつまでも冷たい床の上では彼の母親が可哀そうな気がした。
「……」
けれど声をかけてもやっぱりノアは答えない。シャロンはノアに向き直り、そっと彼の小さな手を両手で包んだ。
瞳をまっすぐ覗き込むと、澱んだ彼の瞳がわずかに揺らいだ気がした。
「埋めてね、その上に花の種をたくさん植えるの。綺麗な花に囲まれて眠れたら、お母さんもきっと喜ぶと思うよ」
「……うん」
彼の声を聞いたのは初めてだった。壊れたと思っていたけれど、本当はただただ悲しくて、けれどまだ小さな子供にはその悲しみとどう向き合っていったらいいのかわからなかったのかもしれない。
ぽろぽろと彼の頬を涙が溢れ落ちる。シャロンはたまらず彼を強く抱きしめた。今まで溜めていた悲しみを吐き出すように、とうとうノアは声を上げて泣いた。彼が落ち着くまで、シャロンは優しく背中をさすってあげた。
「私はシャロンっていうの。あなたのお名前は?」
ノアとシャロンは母親を敷地の隅に埋めてあげた。泥だらけになったシャロンは庭師にお願いして花の種を少し分けてもらった。これで春になれば、色鮮やかで綺麗な花が咲いてくれるだろう。きっとノアの母親も天国で喜んでくれるはずだ。
作業が終わったシャロンは、彼の名前を知らなかったことに気がついた。
「僕はノア、です」
名前を尋ねると、少し恥ずかしそうに頬を赤らめてノアは答えた。
「とてもいい名前ね。私たち、きっといいお友達になれると思うの。また、会いに来てもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
シャロンの言葉に、ノアはぱっと花が咲いたような笑みを浮かべる。
ずっと無表情だった彼がとても素敵な笑顔を浮かべたので、シャロンは胸がどきりと高鳴るのを感じた。
「母が死んで、僕の心はぽっかりと穴が空いたように空っぽになりました。美しかった母が日に日に腐っていって、お墓を作ってあげなきゃいけないとわかっていたのに、何もする気力がわかなくなっていたんです。今まで一生懸命頑張っていたのに、病気になったとたんみんな母を見捨てました。母は最後、高熱にうなされ、苦しいと涙を流しながら死んでいきました。何も悪いことをしていない母がどうしてこんな酷い死に方をしないといけないのか。世の中の全てを恨みました。けれど、あなただけは違ったんです。お嬢様だけが、母を、1人の人間として想ってくれた。奴隷として一生を終えた母のために、普通の人と同じように花を植えようと言ってくれたんです。母はそんな優しいお嬢様のお陰できっと報われたと思います」
ノアがそんな風に思っていたなんて初めて知った。
会いに行くと約束したのに、結局シャロンはその約束を果たすことはできなかった。
ノアの母親を埋めた後すぐにシャロンの母も熱病で急逝し、悲しむ間もなく父が新しい女を妻に迎えた。
継母はシャロンを虐げ、父に相談しても「もう大きいのだから自分でなんとかしなさい」と取り合ってくれなかった。
だから新しい母親から身を守ることだけで精一杯で、ノアのことを気遣う余裕は消え去っていた。
きっとノアはシャロンのことを冷たい女だと思っているのだと思っていた。けれど彼はシャロンのことを優しいと言ってくれた。
味方が誰1人いないこの屋敷の中で、唯一ノアだけがシャロンに暖かい言葉を向けてくれた。
「お嬢様は、ここから逃げ出したいと考えたことはありませんか?」
「……」
唐突にそんなことを聞かれ、シャロンは言葉に詰まる。
いつもの変わった冗談なのかと思ったが、ノアは真剣な表情を浮かべている。だからとっさに笑顔で返すことができなかった。
継母から、この屋敷から逃げたいと何度も思った。毎日毎日、日に何度も逃げたい逃げたいと。けれどそんなことできないのはわかっている。
貴族の娘として生まれただけの女が、屋敷を出て1人で暮らして行けるはずがない。
食事も住む場所も働く宛ても何もないシャロンが実家を出ても、野垂れ死にする未来しかないのはよくわかっていた。せめてノアのように魔法が使えれば、身元のわからない若い娘でも何か仕事を得ることができるかもしれない。けれど残念ながら、シャロンには特別な能力は備わっていなかった。
それにシャロンはもうすぐ結婚することができる。
16歳になれば婚約者であるゲラン伯の息子であるアルバートと結婚することになっていた。
結婚すれば屋敷を出て、もう継母からの理不尽な暴力に怯えることはなくなる。
アルバートは決して優しい男ではない。
自分の好みではないという理由で、会うたびにシャロンを罵りぞんざいに扱う。
しかも派手で女好きな彼は、シャロンという婚約者がいるのに色んな女性と関係を持っていた。
それを全てシャロンは承知している。例え誠実ではない男と結婚したとしても、実家にいるよりははるかにマシだろうというのがシャロンの答えだった。
それに、一番可哀想なのはノアの方だ。
魔法の才能を持っているのに、生まれが奴隷というだけで一生を理不尽な世界の中で生きていかなければならない。そして最後は誰からも看取られることもなく、1人ただ朽ちていくだけだ。
もしかしたら匂いがきついという理由で、誰かが埋めてくれるかもしれない。いや、もしかしたら近くに流れる川に捨てられるだけかもしれない。
ときおり川から人が流れてくるということは、そういうことなのだろう。
もし平民として生まれていれば、魔法の才能があるだけで普通よりも豊かな生活を送ることができたはずだ。
優しい家族に囲まれ、幸せだった人生を振り返りながら眠るように死を迎えられたかもしれない。
そんなノアの一生を考えれば、貴族として生まれただけシャロンは幸せだと言えるだろう。
大きな屋敷の中で、衣服と食事を与えられて人らしい生活を送ることができている。たとえ毎日痛い思いをしていたとしても、多くの不幸な者の中でシャロンは幸せな方なのだろう。
「そんなこと思ったことないわ。だって、もうすぐアルバート様と結婚できるのだもの。逃げるなんてもったいないわ」
ノアの前で弱音を吐いてはいけない。シャロンは心配をかけないように無理に笑顔を浮かべた。
「お嬢様がそれでいいのでしたら、僕は何もいいません。ですが、一つだけ覚えておいてください。周りがどんなに敵だらけでも、僕だけはお嬢様の味方ですから」
「ノア、いつもありがとう」
目の奥がツンとしたが、泣いてはダメと必死に堪える。
「では僕は仕事があるのでもう行きますね」
慣れない作り笑顔だったけれど、ノアは特に何か言及することもなく仕事に戻ってしまった。
ノアの後ろ姿を見送ると、胸がきゅっと締め付けられるような気がした。
本当は寂しくて、あなたともっと一緒にいたい。もっと、何気ない会話をして一緒に笑い合いたい。けれど彼にもシャロンにも仕事がある。いつまでも話している訳にはいかない。
そう自分に言い聞かせてシャロンは洗濯物の続きに取り掛かった。