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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

カーネーション

作者: 貴宏

 その昔、カーネーションといえば皆一様に、真白(ましろ)な花でありました。

 国境近い村の、その花畑も、やはり真白なカーネーションが丘一面をおおっています。

 花畑は、ある若い夫婦がお世話をしておりました。お客に花畑を案内したり、冬には、ばらやラベンダーの香油と、それから、スミレやクローバーの押し花などを売って暮らしておりました。そうして、二人は暖かな日々を送っておりました。妻は、その春に生まれる予定の、赤ん坊を身ごもっておりました。

 雪解け水は青々と流れ、みつばちが一面を飛び交っております。春の日はあたたかく、ヒヤシンスやフリージアの香りがただよっていたからであります。それだのに、花畑にお客は、一人だっていませんでした。そして夫は、顔を曇らせておりました。家の外で落ち着かなさそうに、腕を組みながら歩き回っておりました。家の屋根に小鳥がとまって、ひと声鳴いてから飛び去りました。

 産声が上がりました。夫ははっと顔を上げて、家の中に駆け込みます。妻は疲れた表情で夫に笑いかけました。うまれたのは元気な男の子でした。うららかな春の陽気で、丘一面のカーネーションのつぼみに、ちょうど、真白な花が咲いた時の話であります。

 7日間の休みを取ってから、夫婦は、それまで休んでいた花畑を再び開きました。母親が身重だったころは慎重だった二人も、赤ん坊を生んでからこの方、元気に満ちていたからであります。そして、このごろの花畑は、色どりも香りも、いよいよ素晴らしく、国中のお客も外国人のお客も心待ちにしていたからであります。

 花畑はお客であふれ返ります。それを父親はひとりで案内しましたが、少しだって疲れた様子はありませんでした。うまれたばかりの赤ん坊は、一度泣き始めると、どうあやしても泣き止みません。それを母親は、懸命に世話しましたが、少しだって嫌がる様子はありませんでした。それは夫婦二人がお互いに話し合い、支え合い、愛し合っていたからでした。そして、泣いているときには悪鬼のような赤ん坊も、寝ていると、やはり天使のように思えるからでした。カーネーションの盛りの季節でした。真白な花がシーツのように丘をおおい、春風にざわめきました。

 花が移ろい、夏になりました。このごろは外国人のお客がすっかり減ってしまっていましたが、国中のお客がより一層集まりましたので、二人はやはり、一生懸命に働いておりました。父親はもちろん、母親も花畑を案内しては、時折、おぶった赤ん坊を自慢げに見せるのでした。お客は口々に褒めそやしました。眠っている赤ん坊をみた人は、すぅっと通った鼻筋と、長いまつ毛を見て、これは将来、目を見張る男前になるだろうと、ささやき合いました。泣いている赤ん坊をみた人は、活発に手足を動かすさまに、これは将来、立派な兵隊さんになるだろうと、うなずきました。カーネーションは長い茎が刈り込まれて、こざっぱりとしておりました。


 ダリアの花が咲きました。

 花を愛でる、といった娯楽も今日このごろは、どうも似つかわしくなく、お客の姿もはたりと途絶えておりました。夫婦は、花畑をお休みしましょうと話し合いました。しかし、やはりそれでは、とてもとても暮らしてはいけませんから、父親は軍隊に入ることにしました。父親はいつになく大きな荷物を背負って、センニチコウを胸に刺して出かけてゆきました。からすが寝床を探して飛んでおりました。

 花畑は、いっそう赤や青や黄に色鮮やかでございました。それが母親には、かえって煩わしく、騒騒しく思えましたが、しかし、世話をしないわけにもいきませんから、毎日毎日、赤ん坊を背負っては花畑へ通っておりました。その赤ん坊も、近ごろはいよいよ激しく泣くのでした。父親のいないことを知って寂しいのか、それとも自分の寂しいのが赤ん坊に伝わって、それで悲しくて泣いているのか、母親にはどうしてもわかりませんでした。ですから母親もつとめて気丈に振る舞っておりましたが、力仕事をした後の夕べであったり、 赤ん坊の夜泣きがその晩の5度目に渡ったりしますと、やはりため息をつかずにはいられなかったのです。そんな時は、夫から届いた手紙をなんども読み返しながら、赤ん坊に子守唄を歌うのでした。

ねむれ ねむれ 母のむねに

ねむれ ねむれ 母の手に

 そのうちに赤ん坊も、そして母親も眠りにつくのでした。


 やはりそれは、夢に違いありませんでした。

 あかるい春の日差しに、少女は二度三度まばたきをしました。それから辺りを見渡しました。少女は真白な花畑の真ん中に立っておりました。風に揺れたカーネーションの、甘い香りが丘を流れてゆきました。

 隣には少年がおりました。少年が手をのべると、少女もその手を取って、二人はかけ出しました。会話はありませんでした。ただ、朗らかな笑い声だけが春の澄み切った空気を響かせておりました。丘をかけ下りた二人は、裏口から家のなかへ入りました。

 やはりそれは夢に違いありませんでした。

 少年は青年へと成長しておりました。頼もしくなった手には指輪がはめられておりました。自分が指につけているのも、やはり同じ指輪でした。青年が力強い腕で抱き寄せました。少女は暖かい胸の中に包まれます。かたい胸板に耳をあてると、とくりとくり、と心音が聞こえます。そして顔をあげますと、夫の顔がありました。もうずうっと見ておらず、忘れてしまっていたのではないかとさえ思っていた懐かしい顔がありました。妻はもっとよく見ようと、精一杯に背伸びをしました。二人の顔が近づきます。妻は目を閉じました。

 その時、赤ん坊が泣きました。母親は目を開きました。

 やはりそれは、夢に違いありませんでした。


 カーネーションのつぼみが、少し重そうに風に揺れています。朝露が花の涙のように落ちました。

 戦争がはじまるかもしれない、という噂はいつのまにか、戦争がはじまるに違いない、へと変わり、そしてとうとう戦争がはじまりました。村の人々は、この近くには軍隊が駐屯しているから大丈夫、と口々に話しておりました。しかしそれは、大丈夫、と口にすることで安心を得ようとしているだけに思えました。戦争の影はどうしようもなく、母親と赤ん坊をおおっていたからです。そのころには近くの村へ手紙をとどけるのにもだいぶ日数がかかりました。父親からの手紙が少しずつまばらになってゆくのを、母親は、今度こそどこか遠くで死んでしまったのではないかと、心配して過ごしておりました。日が落ちるのもだんだんと早くなりましたから、そうして思いなやむ時間も長くなってゆきました。

 月の灯りのまぶしい夜でした。乳の出がよかったからなのか、赤ん坊はすやすやと眠っておりました。あまりに静かなので母親はかえって心配になって、赤ん坊の顔をみつめておりました。窓の外をふと見ると、見慣れない人影が家々のあいまを、ぬうように歩いていました。それは隣の国の兵士でした。

 母親は赤ん坊を抱き上げて、色々な道具を収めた物置へと隠れました。これらの道具で押し花をつくったのも、ずいぶんと昔のことに思えました。

 どん、どん、と家の戸をたたく音がしました。それがしばらく続いた後で、戸をけやぶったような激しい物音がして、数人の足音が家の中に響きました。

 母親は声をひそめておりました。どんな怒号がしても、何かが散らばる音がしても、母親は声をひそめておりました。物置の前を大男がずしずしと歩いていても、テーブルの花瓶が勢いよく地面にたたきつけられても、母親は声をひそめておりました。兵士たちが両腕いっぱいに略奪品を抱えて、満足げに家を出た後も、母親は声をひそめておりました。それから、耳を澄ませてから、ゆっくりと物置を出ました。

 家のなかはひどいありさまでした。食べ物は持ち去られ、食べられないものは壊されていました。花の種は床の上にちらばって、切り花はふみ荒らされておりました。それでも、自分と赤ん坊の命は助かった、と母親は胸をなで下ろしました。

 その時、赤ん坊が泣きました。


 父親は戦線からすこし遠い駐屯地にいました。いつ襲撃があってもいいように待ち構えている部隊でした。父親は月明かりの下で手紙を書いておりました。

 近くの村が襲われている、という報告を受けて、父親のいる部隊が出発しました。それはやはり、自分の妻と息子が住んでいる村に違いありませんでした。父親は隊長が止めるのも聞かず、走り出しました。

 家のなかはひどい有様でした。食べ物は持ち去られ、食べられないものは壊されていました。花の種は床の上にちらばって、切り花はふみ荒らされておりました。そして、裏口が開いていました。

 父親は丘をかけあがりました。そして、カーネーション畑の真ん中へ向かっていったのです。


 その昔、カーネーションといえば皆一様に、真白(ましろ)な花でありました。

 しかし、すやすやと天使のように眠る赤ん坊のまわりだけは、真っ赤なカーネーションが咲き乱れていたのでした。


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