第三話 名を呼ぶ(一)
設定していたよりも早い時刻に目が覚めてしまった。
出番がなかった携帯端末のアラームを解除して、留花がむくりと体を起こす。
簡単に朝食を済まして、前日に決めた服に着替えて身支度を整えていく。
忘れ物がないか鞄の中をチェックし、迷わないようにと、携帯端末の地図アプリを開いて目的地を再度確認した。
何度も時計を見たり、鏡を見たり、携帯端末を見たりして落ち着きなく過ごしていれば、そろそろ家を出た方がいいだろうという時刻になった。
この前のようにイレギュラーが発生することもなきにしもあらず。少し早いくらいが丁度いい。
「初日に遅刻はダメ絶対!」
一人で意気込んでみたものの、緊張のせいか声は震えていた。
「今からこんなに緊張していて大丈夫かな……いや、大丈夫大丈夫!」
弱気になってしまいそうになるが、ぶんぶんと頭を振って何とか自分を叱咤する。
留花は靴を履いて、玄関の扉へと手を伸ばす。
「行ってきます」
その言葉に返事をする人は誰もいない。
*
「……よし、ちゃんと辿り着けた」
第一関門を突破し、留花は安堵した。
留花がここ――よろずやに初めて来たのは数日前のことで、今日が二度目の訪問であった。
今日から留花の職場、のはずである。
はっきりと断定できないのは、まだ口約束しかしていないからだ。諸々の手続きは今日することになっている。
五月蠅い心臓を落ち着けるためにも大きく息を吸ってゆっくりと吐く。手を伸ばして扉を開けようとしたその時、先にそれは開いた。
中から扉が開いたということはつまり、中から客が出てきたということで。
相手の邪魔にならないように留花は咄嗟に扉の前から退く。けれども姿を現したのは客ではなかった。
「おはよう。待っていたよ古澄さん」
現れたその男――司樹が双眸を緩めて言う。ばっちり過ぎるタイミングに若干驚きながらも留花が挨拶を返す。
「おはようございます、久閑さん」
「さあさあ、入って入って」
店の中に入ると、店内に客は一人もいなかった。それもそのはず。何故なら、まだ店は開店時間ではないからだ。
「おお、来たか。おはよう留花ちゃん」
「おはようございます、白宇くん」
カウンターには以前と同じく白宇がいた。
手にはたきを持っており、どうやら掃除をしている最中のようだ。
「しっかりと説明するんだぞ司樹」
「はいはい」
はたきでビシッと差してきた白宇に、司樹が軽く受け答えする。
通されたのは以前招かれた部屋だった。
司樹に続いて留花も椅子に座る。
「前も来たここが休憩室ね。部屋にあるものは自由に使ってくれて構わないから」
「はい。……あ、そうだ。履歴書持ってきました」
「お。これはどうも」
鞄の中から履歴書を出す。そこには普通なら記入されていて当然である志望動機が書かれていなかった。
先に言っておくが決して留花が書き忘れた訳ではない。
数日前に帰宅した後、ふと履歴書についてメールで訊ねた時、
『こっちが誘ったんだから志望動機なんて書かなくて大丈夫大丈夫。連絡先とかがわかればそれで十分だから』
と、軽い感じで司樹から返信が来たのだ。初出勤の日時、持ち物等もしっかりと添えて。
本当に書かなくて良いのかなぁと思いながら持ってきた履歴書を司樹に渡した。
司樹が履歴書にざっと目を通す。
「はい、確かにお預かりしました」
何も咎められなかったことに――そもそも、それ自体杞憂のことなのだが――留花は密かに胸を撫で下ろした。
「さて、古澄さん。この後から早速働いてもらうことになる訳だけど、『あ、これ無理だ』と思うことがあったら教えてね。無理するのが一番ダメだから」
しみじみと呟いた司樹の顔には哀愁が漂っていた。
過去に何かあったのかなと留花は思ったが、それを訊く程の図々しさはない。
諸々の説明を受けた後に手渡されたのは焦げ茶色のエプロンだった。「商品を出したり掃除したりしていると服が汚れるからこれをつけるように」とのことらしい。
「次はそれぞれの部屋を案内するから着いてきて」
席を立って休憩室から出る。
掃除道具置き場、トイレ、畳の部屋、幾つもある物置――留花の予想に反してなかなかに部屋数が多い。
途中二階へと続く階段があってまじまじと見ていると「上は居住スペースだよ」と説明された。
「汚れたり、汗をかいたりしてお風呂に入りたいと思ったらいつでも使ってくれて構わないから」
「……」
さらっと言われた一言に、留花は何と言えばいいのかわからなくて。
一瞬の沈黙が二人の間にあったが、まるで何事もなかったかのように「さてお次は――」と司樹が部屋の案内を再開した。
「最後にここが一応更衣室ね」
案内されたのは四畳半程の部屋だった。
折り畳みの机と椅子が部屋の中央にあり、片隅にはハンガーラックが置かれている。
「荷物を盗むような輩は入らせないつもりだけど念のため……はいこれ。この部屋の鍵。荷物を置いて席を外す場合は施錠をしっかりとすること」
「わかりました」
差し出された銀色の鍵を留花は受け取る。なくさないようにしなくては、と小さな鍵を大切に握りしめた。
「さて、準備が出来たら今度は売り場の方に行くから」
外で待っているね、と言って司樹が部屋から出て行った。
扉が閉まるのを見届けた後、留花は中央の机へと近づく。その上に鞄を置いて、一つ息をついた。
「はぁー、緊張するなぁー」
いよいよ始まるのだと思うと、部屋から出て行きたくなくなる。でも、司樹を待たせているのでいつまでもこうしている訳にはいかない。
貰ったばかりのエプロンを身につける。ぐっと後ろで紐を結べば、身も引き締まった気がした。
鞄の中から取り出したメモ帳とボールペン、ハンカチなどをエプロンのポケットの中に入れる。
壁に掛かっている鏡に自身を映す。化粧が崩れていないことを確認して――といっても、崩れると形容できるほど濃いメイクはしていないのだが――、少し乱れていた髪を整える。
鏡の中の自分は何処か不安げで緊張した面持ちだ。
「大丈夫大丈夫」
深呼吸をして、自分に言い聞かせるように何度も唱えた。
部屋を出て、言われた通り忘れずに施錠をした。
「お待たせしました」
廊下で待っていた司樹へと声を掛ける。
司樹の視線が留花に向けられる。
あまりにもじっと見つめてくるので、留花はたじろいだ。
「えっと……何か変なところでもありますか?」
――鏡で確認した限りでは特に変なところはなかったはずだけど……。
留花が心配になって訊ねれば、司樹はかぶりを振った。
「変なところなんてないよ」
司樹が上機嫌な声でそう言い切った。
一方、留花は首を傾げた。
――何でこんなに機嫌が良さそうなんだろう……うーん、従業員か増えて嬉しい、とか?
そう当たりを付けてみるもさっぱりわからない。
「それでは、売り場に行きますよー」
司樹の言葉によって、思考は遮断された。