第七話(二)
ちりんちりんと聞き慣れた真鍮製のドアベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ……って、あれ?留花さんじゃないか。どうしたの?確か今日はシフト入っていなかったよね」
「入っていないですよ」
「……なるほどね。用があるのはそちらのお客様かな?」
司樹が留花の後ろを覗き込む。すると、少女がおずおずと前に出た。少女の手には大人しく帽子が捕まっていた。
「帽子が逃げちゃって……お姉さんに迷惑をかけちゃって……」
「帽子が風も吹いていないのに勝手に飛んじゃうみたいなので、それなら飛ぶのを防げば良いと思いまして」
しどろもどろな少女に次いで留花が説明する。
普通の人ならおかしいと思う説明だったが、奇怪な体験を何度もしてきた司樹は特に突っ込むことなく「なるほどなるほど」と首肯した。
「ま、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。さあ、こっちですよ」
留花は少女をある棚の前へと促した。棚から商品を取って、「どっちが良いですかね?」と少女に見せる。
「……『帽子クリップ』?」
帽子クリップには、帽子と服を繋ぐタイプと顎紐タイプがあった。
「これがあれば帽子が飛ぼうとしても、あなたから離れることはないですよ」
「へぇー、こんな物があるなんて知らなかったわ。買う!買うわ!」
少女がポシェットからお金を出して会計を済ます。会計の最中、帽子はふわふわと――否、ふわふわというよりもそわそわといった方が正しいだろうか――店内を漂っていた。
「よし、これでもう逃げられないわね」
がしりと帽子を捕まえて、ふふんと勝ち誇ったかのように少女が言えば、ひえっと言わんばかりに帽子が震え上がった。
「その帽子はいつも逃げるの?」
司樹が訊ねると、少女が「そうなの!」と声を張り上げる。
「ちょっと目を離した隙に逃げちゃうのよ!そんなにあたしに被られるのが嫌なのかしら……」
少女は憤慨していたが、段々と尻すぼみになっていった。
「帽子クリップを使えばこの子は逃げられなくなる……あたしに被られて、一緒にはいられる……。でも、無理矢理繋げておくことはこの子にとって本当に良いことなのかしら……。この子が気に入った人に被られた方が、この子にとっては幸せなのかもしれない……」
少女は遂には顔を俯けてしまった。
その時、帽子が暴れて出して、少女の手から逃れた。
ばさばさとリボンを羽ばたかせ、一生懸命につばを捩るその姿は、まるで少女の言葉を否定しているかのようだった。そうかと思えば、少女の頭の上にぽすんと乗って微動だにしなくなった。
「は?え?意味がわからないんだけど!?」
帽子の行動に少女は困惑しているようだ。
「あたしが嫌なら無理しなくていいのに……」
そう言いつつも少女は帽子を取ろうとはしなくて。
悩める少女に声を掛けたのは留花だった。
「その帽子はあなたのことを嫌ってはいないと思いますよ」
「……どうしてそう思うの?」
「第三者視点だけど、帽子はあなたとの追いかけっこを楽しんでいたような感じがしたんです。それに、もし本当に嫌だったらあなたについて来ないと思うし……その帽子なら本気で逃げようと思ったら逃げられると思うんです」
帽子も少女も飛べるようだが、宙を舞うのは帽子の方が上手のように思えた。
それに、この店に来る前に懸命について来る程だ。嫌っているとは思えない。
「……確かに」
思うところがあったのか少女はゆっくりと頷いた。
「この子、あたし以外には絶対に被られようとしないのよね。でも、何で素直に被らせてくれないのかしら……」
「好きな子ほど弄りたいってやつじゃないかな?……て、うわっ!?」
司樹が口を挟めば、その口を塞がんとばかりに帽子が慌てて司樹の顔に覆い被さった。
「ちょっとたんまたんま!」
ビンタをするかのようにつばを動かす帽子とそれを振り払おうとする司樹の様子を留花と少女はじっと見た。
「正解みたいですね」
「……そうみたいね」
留花がくすりと笑えば、少女も呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。
「どうやら、これはいらないみたい」
買ったばかりの帽子クリップを使うことなくポシェットの中に少女がしまう。
「今なら返品交換しますよ?」
帽子の攻撃から逃げ切った司樹の言葉に少女が首を振る。
「いざという時に使うから大丈夫」
「だってさ。そうならないように早く戻りな」
帽子は慌てて司樹から離れて、少女の頭の上に戻った。それに三人が笑った。
満足そうに帽子を被った少女が出入り口へとステップを踏む。
「お姉さんもお兄さんもありがとう」
少女はお礼を言った後、身を翻して大きくジャンプをした。瞬きの間に少女は消えた。
ふぅと息を吐いた留花に司樹が労りの言葉を掛ける。
「留花さんお疲れ様」
「わたしは何もしていないですよ?」
「集客と接客してくれたでしょ。今回の分の給料もちゃんと出すから安心して」
「えーっと……ありがとうございます?」
――本当に何もしていない気がするけど……給料が貰えるのは素直にありがたいかな。
腑に落ちなくて思わず言葉尻に疑問符がついてしまったが、貰えるのなら貰っておこうと留花は自己完結をした。
司樹がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それにしても、留花さんが集客までしてくれるとはねぇ……。最初の頃よりも成長したねぇ」
しみじみとそう言われあたたかな眼差しを向けられて、留花は何だか気恥ずかしくなった。
「まあ、今回はそこまで厄介じゃなかったけど、厄介な事に巻き込まれないように注意はするんだよ」
「……好きで巻き込まれている訳じゃないですよ?」
「わかっているよ。注意していても巻き込まれる時は巻き込まれるものだからねぇ……」
顔から感情が抜け落ちたかのような司樹を見て留花は思う。
――きっと、妖怪絡みでたくさんの苦労をしてきたんだろうなぁ……。
妖怪が視えるのは生まれつきだと司樹は言っていた。
その苦労をそう簡単には理解できないだろうし、まだまだ妖怪との交流が浅い留花が司樹に何かをしてあげることなんて少ないだろう。
――でも、それでも……。
留花は顔を上げた。
「司樹さん」
「ん?どうかした?」
「もし司樹さんが厄介な事に巻き込まれたら、あの、その……大それた事はできませんけど、話を聞くぐらいのことならわたしにもできますから。だから、話せる範囲で話したくなったら話してくださいね」
「それは、巻き込んでも良いってこと?」
「……えっと、正直に言えばできれば巻き込まれたくはないんですけど、いざとなったら巻き込まれる覚悟はします」
眉尻を下げつつもはっきりと言い切った留花に司樹はぽかんと口を開いた。
次いで、司樹がくるりと身を翻した。その肩が震えていることから、どうやら笑っているようだ。
「司樹さん、もしかして笑っています?」
「わ、笑って、いない、……くくっ、よ?」
「笑っていますよね?もう笑うならいっそのこと笑ってくださいよ」
呆れた様子で言えば、それじゃあ遠慮なくと言わんばかりに司樹が笑い出した。
何をそんなにツボったのかは留花にはさっぱりわからなかった。
一頻り笑ったところで、司樹が留花を見た。
「留花さん」
「何です?」
「ありがとう。あと、ごめんね」
「……その謝罪は何に対してですか?」
「うーん、いろいろ?」
へらりと笑う司樹に、「あ、これは誤魔化すつもりだな」と留花が察する。
「しーきーさーんー?」
「さてと、仕事に戻るとするかなぁ」
仕事に戻っていく司樹に「待ってください!」と留花が言う。
そういえば、買い物の帰りだったっけと留花が思い出したのは、手に持った買い物袋の存在を思い出した時だった。