第六話(二)
留花が黙々と手を動かしていると、ちりんちりんと真鍮製のドアベルの音が響き渡った。
客が来たことを告げる音に反応して、「いらっしゃいませ」という言葉とともに留花は振り返った。
「……え、犬?」
出入口にいたその存在に留花はモップを持ったままきょとんとした。
彼女の言葉に返事をするように、犬はわん、と吠えた。
黒い体毛に麻呂眉、白足袋を履いているかのような四本足。大きさは中型犬ぐらいであろうか。
背中には唐草模様の風呂敷を背負っているが、何処からどう見てもただの犬である。
いつぞやの猫のように立ったり喋ったりするのではないかと様子を見ていたが、犬は立つことも喋ることもしなかった。
ただ「わん!」と一声吠えて、頭を下げた。
――えっと、これ、もしかして挨拶されているのかな?
どうしたら良いのかわからず困惑していると、ひょっこりと白宇がカウンターから顔を出した。
「おお、お疲れさん。主人は息災か?」
手をついて軽々とカウンターを飛び越えた白宇が気軽に声を掛ければ、犬はふさふさの尻尾を振って、わん、と返事をした。
「そうかそうか。それは何よりだ」
手慣れた様子で白宇は犬が背負っていた風呂敷を取った。
犬も暴れることなく大人しくしている。
風呂敷の中にはポチ袋と手紙が入っていた。
手紙を読み終わった白宇が「うむ」と頷く。そして、一緒に入っていたメモ用紙を留花に渡した。
「留花ちゃん。悪いがこのメモに書いてあるモノを用意してくれるか?おれはちょっと持ってくる物があるから」
「わかりました」
留花がメモ用紙を受け取る。チラッと見えた手紙は文字が達筆過ぎて何が書かれているのかさっぱりだったが、渡されたメモはそんなことはなかった。
手書きで書かれたそれは、読む人のことを考えて書かれた綺麗で優しい文字だった。
――えっと、筆ペンと茶封筒と羊羹と……。
モップを置いて商品を取りに行くため留花が店内を歩き回る。
その間に白宇が奥へと引っ込んだ。
犬はてくてくと歩いて移動し、大人しく休憩スペースで待っている。
暫くして白宇が戻ってきた。その手にはミルクの入ったボウルがあって。
「ほい、これ。いつもご苦労さん」
白宇が労りの言葉とともにボウルを床に置けば、犬はぶんぶんと尻尾を振って嬉しそうにミルクを飲み始めた。
「白宇くん。商品全部用意できました」
「ありがとう。あとはおれがやるよ」
メモ用紙を返してもらった白宇が集められた商品を確認していく。ポチ袋から必要な分だけお金を取り出して会計を済まし、レシートとともにお釣りを入れた。
それらを風呂敷で包み、器用に結んでリュックにした。
ミルクを飲み終えた犬が白宇のもとへとやって来て背中を向けた。
白宇は確と犬に風呂敷のリュックを背負わせる。そして、出入り口へと向かい、ゆっくりと戸を開けた。
「主人によろしくな」
白宇が声を掛ければ、犬はぺこりと頭を下げた。律儀にも留花にも頭を下げたため、留花も丁寧にお辞儀を返した。
犬は最後に「わん!」と元気に一声吠えて、駆け出した。
犬を見送った後、空っぽになったボウルを白宇が手に取りながら、事の顛末を見ていた留花に先程の犬について語り始めた。
「さっきの犬は『お使い犬』と言われていてだな、その名の通り主人の代わりに買い物をする犬のことなんだ。因みに、主人の代わりに参拝する犬のことは『代参犬』と呼ばれていて、『こんぴら狗』とか『おかげ犬』という言葉もあってだな。昔はよく見たが今じゃ全然見られなくなったな」
「そうなんですね。わたしも初めて見ました」
盲導犬なら見たことあるが、お使いをする犬なんて見たことがない。
「ふーむ、時代だなぁ」
しみじみと言う白宇はまるで老人のようだ。
やはり白宇の発言と見た目にはギャップがあって、留花はちょっとだけ不思議な感覚がした。
モップを手に取って掃除に戻った留花に、不意に質問が投げ掛けられる。
「因みに、留花ちゃんは犬派か?猫派か?」
「え?えーっと、犬派、ですかね?」
首を傾げつつも答えた留花に対して、更に白宇が質問を続ける。
「それじゃあ、狐派か?狸派か?」
「うーん、狐派ですかね……って、何ですかこの質問?」
「よし」
ガッツポーズをとる白宇に対して、突然の謎の質問に留花は疑問符を浮かべることしかできなくて。
訳がわからなくて戸惑っていると、
「なーにが『よし』だよ」
突如扉が開いたかと思えば奥から司樹が現れた。呆れた表情を浮かべつつも何処かまだ眠たげである。ふわぁ、と欠伸を噛み殺し、こちらへと近づいてきた。
「おう、目が覚めたか司樹よ」
「流石に夕方まで寝させてもらえたからな……」
「おはようございます司樹さん」
「おはよう留花さん」
挨拶をすれば返ってくる。当たり前のことに留花の心はあたたかくなった。
「この場合、『おはよう』じゃなくて『おそよう』だがな」
「五月蠅いぞ白宇」
けたけたと笑っていた白宇が「ああ、そうだ」と思い出したかのように声に出す。
留花を見てにやりと笑う白宇に留花は嫌な予感しかしなくて。
「司樹がいなくて、留花ちゃんが寂しがっていたぞ」
「え?」
「し、白宇くん!」
――『善処はする』って言っていたのに!いやまあ、たぶん言われるかなぁとは思っていたけども!
咎めるように名を呼んでも、白宇はあっけからんとしているだけで。
まじまじとこちらを見てくる司樹の視線を感じて、顔が熱くて仕方がなくて、いたたまれなくなった留花は顔を俯かせた。
「僕がいなくて寂しいって思ってくれていたの?」
恐る恐るといった様子で掛けられた言葉に顔を上げられないまま、けれども素直に小さく頷く。
何とも言えない空気が二人の間を漂っている。
――うう、恥ずかしい……。いなくて寂しいだなんて、やっぱり子どもっぽいよなぁ……。呆れられた、かな?うう……揶揄われそう……。
留花はそう思って身構えていたが、留花の予想に反して、司樹は「……そっか」と呟いただけだった。
――え、それだけ?
そろそろと顔を上げてみると、そこには少し顔を赤く染めて片手を口元にあてている司樹の姿があった。
「なーに、ニヤついているんだよ司樹」
「……別にニヤついてなんかいないし」
そう言った司樹の耳は赤い。
それに気づいた留花は何だが余計に自分の体の熱が上がった気がして。言いようのない感情が湧いて来て、耐えきれなくなって再び俯いた。
「ふむ、二人とも若いな」
二人の様子を見た白宇が揶揄いを含めた言葉を発した。




