第一話 猫と青年(一)
眩く輝く太陽が西の空に沈んでいく。夜の帳が下りようとしている。
それなのに、足元はまるで昼間のように明るい。辺りには照明もないのに、だ。
留花はこの奇怪な光景から目を逸らし、手に持った冊子をぱらぱらと捲った。
「……ほんと、これからどうしよう」
呟きは虚空へと消え去った。
冊子には様々な企業名が綴られていて、賃金、勤務時間、最寄駅などの情報が記されている。
留花が見ているその冊子は所謂求人情報誌というやつだ。
『スタッフ募集!』
『未経験者大歓迎!』
『どなたでも働けます!』
大きく書かれた謳い文句を眺めて、留花は口を尖らせる。
「それなら雇ってくれればいいのに……。正社員なんて高望みはしていないのになぁ……」
思わず悪態を吐いてしまったが、致し方ないだろう。
留花はずっと待っていたのだ。
面接結果の連絡を。提示されていた期間の最終日は今日までだったのだが、電話は鳴らなかった。
あらかじめ「不採用の場合は連絡しない」と言われていたので、鳴ることのない携帯端末が何を意味しているのかはお察しの通りである。
家にいても落ち着かないので気分転換に本屋へと赴いていたものの何も買う気にはなれなくて。
電話がなくて落ち込んで、結局手に取ったのは今手に持っている冊子――本屋の外に置かれた無料の求人情報誌だった。
現実はそう甘くはない。残酷で厳しいものなのだとまざまざと突きつけられた気分だ。
――馬鹿だなぁ。そんなのわかりきったことでしょ。
留花は一人で嘲笑した。
二十年という長いのか短いのかよくわからない己の人生を反芻する。
高校を卒業して、大学には行かず就職する道を選んだ。
この二年間、自分では真面目に働いてきたつもりだった。
だが、そんな彼女を待ち受けていたのは突然の契約切りで。
理由は「産休で休んでいた人が戻ってくるから」である。
――『大丈夫だって。古澄さんは若いから、何処でも雇ってもらえるよ』
軽い感じでそんなことを言われながらいとも容易く契約を切られ、留花は無職になった。
今まで頑張ってきたというのに、それなりの信頼を得ていたと思っていたのに、こうも簡単に切られるとは思っていなくて。
「全然大丈夫じゃないし!」
悔しさだとか怒りだとか虚しさだとかが蘇り、思わず叫んでしまった。
道端にいる猫たちが驚いたように目を丸くさせてこちらを見てきた。
――いけないいけない。落ち着け、わたし。
幾つもの視線を感じ、はっとして我にかえる。何事もなかったかのようにつとめて歩き出す。猫たちから離れて、留花はほっと安堵の息をついた。
別に猫が嫌いな訳ではない。無視を決め込んだのにはちゃんとした理由があって――。
――だって、さっきの猫たち、どう考えても普通じゃないんだもの!
道端に猫たちが集まっているのは普通にあり得る光景だろう。
けれど、頭に手拭いを被って二本足で立って住吉踊りを踊っている猫を果たして普通と言ってよいものだろうか。いや、普通ではないだろう。
いつの間にか足元は暗くなっていて、その暗闇が留花の不安を掻き立てる。
徐に見上げた空には、何羽もの鳥が飛んでいる。おそらく巣に帰る途中なのだろう。
そんな群れの後ろを離れて浮遊しているのが鳥ではなく火の玉に視えるのは目の錯覚だろうか。
留花はそっと自身の頬を抓ってみた。
「……痛い」
残念なことに夢ではないようだ。
はあ、と一人で溜息をつく。溜息をつくと幸せが逃げると言うが、幸せが逃げたから溜息をつくのではないかというのが留花の持論である。
それはさて置き。
留花を悩ませているのは無職になったことだけではなかった。
目に映るようになった奇々怪々なモノたちもまた、留花の悩みの一つだった。
ああいう奇々怪々なモノたちが視えるようになったのはつい最近のことだ。
一つ目の子ども、青黒く光る蝶々、お面をつけた小人、喋る道具、獣のように動く影等、奇怪なモノはそこかしこにいるというのに、どうやらそれらは自分にしか見えていないらしいと気づくのは早かった。
「あんなモノたちが見えるだなんて……そんなに疲れているのかなわたし……」
確かに本を読んで空想するのは昔から好きだったけれども、と留花は考える。
本の中の登場人物や架空の世界や生き物を頭の中で思い浮かべて遊ぶ。時には自分で考えた登場人物たちも交えて空想する。
空想するのはとても楽しくて、歩いている時でもよくする。
だからきっと、最近見えるようになった奇怪なあれらも、現実から逃げ出したい自分が無意識に空想した幻に過ぎないのだ。うん、そうだ、そうに違いない。やけにはっきりとしているけれど、きっとそれだけ疲れやら鬱憤やらが溜まっているということだろう。
――いやー、現実逃避もここまで来ると酷いなぁー。
自己暗示の如く、心の中で何度も呟く。
脳内では奇々怪々なモノたちを示す二文字の言葉が浮かんでいようとも、たとえ頬の痛みがこれらは幻ではなく現実なのだと物語っていようとも、認めたら何かが終わる気がするのだ。
見えていても目を合わせない。聞こえていても反応しない。なるべくそのように行動してきたのは、本能がそう告げているから。
――兎に角、早く帰ってご飯を食べてお風呂に入って寝てちゃんと疲れを取ろう。
家に帰ってからのことをいろいろと考えていたその時、突如強い風が吹いた。