時間のない時計
時計を買った。
その時計には針がない。
刻々と時を刻む秒針がない。
緩やかに動く分針がない。
その時々の時刻を教えてくれる時針がない。
数字すら書いていない。
その丸いただの板を僕は壁にかけてみた。
とても穏やかな気持ちになった。
僕の部屋には時間がない。
時を刻まぬ時計がかけられた僕の部屋。
時間がなくてとても穏やか。
広々とした草原にいるようで、
あるいは何もない雪原にいるようで、
はたまた海原にポツンと取り残されたようで、
とても怖くて、穏やかだった。
僕は僕の部屋にいる時だけ時間を忘れられる。
時間のない部屋にいると何もかもがどうでもよくなる。
明日のことが遠い未来のように思え、
昨日のことがずっと昔のように思える。
時間を忘れるのはいいことだ。
会社に遅刻してしまった。
どうでもいい。
彼女との待ち合わせに遅刻した。
どうでもいい。
重要な手続きをすっぽかした。
約束を果たせなかった。
大切な人との時間を失った。
何もかもがどうでもいい。
時間を忘れて一年ほど。
僕はあらゆるストレスから解放された。
でも、このままだとダメなんだよね。
別れた彼女が必死に僕を説得してたっけ。
そろそろ、時間を思い出そう。
僕は時計を買いに行った。
時間と言う基準に振り回されて人は生きている。
結局僕も、時間の奴隷になってしまった。
働かないと生きていけないから。
仕方がないと思う。
けれども、あの体験。
時間のない時計と共に過ごしたあの体験だけは、忘れられない。
時間を喪失するあの感覚。
無限に自分が生きていけるような自信。
どうしてそう感じたのか、今振り返ってもよく分からない。
ただ、一つだけ言えるのは……
時間のない部屋で過ごした僕は幸福だったということ。
ただ茫然と部屋に閉じこもって過ごすだけの生活。
あれは一度でいいから体験した方が良い。
その生活を続けていると、やがて思い出すのだ。
時間に振り回される必要さを。
僕のような人間は珍しいのだろう。
時間のない時計を買うなんて――
そんな人が他にいるとは思えない。
気まぐれで入ったお店でそれを見かけたとしても、
興味本位で買うことはおススメしない。
時間を忘れたくないのなら。