20
丘の上には、腹ばいになってスコープを覗くラルフが居た。黒い銃身が鈍く光るスナイパーライフルはトランクから取り出して組み立てられたもので、銃口はバイポッドと呼ばれる二脚式の架台で雪の上に固定されていた。ラルフはシスカの前方の魔物を狙い、引き金を絞る。魔力を込めた弾丸は着弾すると中規模の爆発を生み、周囲を一掃。一発撃つ度にボルトを起こして引き、排莢と次弾の装填をする。
「もう少しだ。頑張れよ」
雪にまみれて、ラルフが言った。
その後も暫くシスカは走り続け、ラルフの狙撃も続いた。そして数分後、
「――抜けたっ!」
クスダ・シラの群れを走り抜けたシスカが足を止め、ネーヴェが結界を解除する。肩で息をしながら後ろを振り向くと、樹を中心にして気味の悪い光景が広がっていた。
「お怪我は、ありませんか?」
足許に降り立ち訪ねるネーヴェに、シスカは大丈夫と短く答え、
「しかし凄まじいな」
そこにラルフが合流した。トレンチコートは雪や泥で汚れ、その顔には疲労が見て取れた。シスカが口を開くより先に、ネーヴェが慇懃に礼を述べる。
「ベックマン様、先程は有難うございました。あの狙撃の腕前、流石です」
「あたしからも、ありがとう。ラルフも無事で良かった」
その言葉に対しラルフが、大したことない、という風に笑い、
「取り敢えず、他の入り口を探さないとな」
やや表情を引き締めて言った。
「シスカ」
足許から聞こえた声にシスカが目を向けると、そこには今まで姿を消して回復に努めていた紺色の狼が現れていた。
「メーセ、もういいの?」
「なんとかな。それより、あいつら別の入り口を見つけたみたいだぜ?」
傷は既に回復していたが、まだ少し辛そうな声でメーセが言う。シスカとラルフが今一度クスダ・シラの方を見ると、彼らは樹の傍を離れ、どこかへ向かい移動を始めていた。
見合わせた顔で互いに頷き、シスカ達はその後を追って再び走り出す。
「この辺り、だな」
タヴァーリシシの一角で、コンクリートの壁に手を当ててエミリオが呟く。すぐ傍に居た少年が、何がだい? と訊いたが、エミリオは答えずに腰の鞄から札を取り出し、既に文字の書かれているそれを壁に貼った。そして、静かに詠唱する。
「大地の理に命ず。我が道を塞ぐ障壁に一筋の間道を」
「?」
僅かな風を感じた少年が振り向くと、そこにエミリオの姿は無く、ただコンクリートの壁と焼け焦げた札の切れ端があるのみだった。
その空間は木の根と土とが作る壁に囲われ、すすり泣く声や互いに励まし合う声で満ちていた。数十人の少女が、土の床の上に点々と固まるように座り込み、身体を寄せ合う。その集団から離れて一人、オーリャが居た。
私をクスダ・シラから助けてくれた、あの優しい魔術師さん達が必ず助けに来てくれる。レーシィの巣の中、オーリャは信じていた。お母さんが居なくなってから、お父さんに寂しい思いをさせないようにと、いつも笑うようにしていた。きっと今頃お父さんはまた寂しがっているに違いない。私は絶対に、あの家に戻る。――そう思えば、不思議と怖くはなかった。
そしてオーリャのブルネットの髪を、空気の流れがふわりと撫でた。振り返るオーリャの目に映るのは、黒いローブを羽織った少年。思わず顔を綻ばせるオーリャに、エミリオは静かに、というように口許に人差し指を当てた。
「怪我はないか?」
「はい。他の皆さんは?」
声を潜めて、二人は会話をする。
「すぐ合流できる。それよりオーリャ、一つ頼みがある」
言ったエミリオに、オーリャは首を傾げた。
同じ頃、タヴァーリシシの一部ではクスダ・シラが進入し始めていた。リーダーであるメーチは執務室を出て、自らも剣を手にしながら現場で指示を飛ばす。
「ニカはマルセルを援護! オリガ、下がって!」
指示は的確だった。魔術や格闘術の使える戦闘要員は、嵐の日の川のようになだれ込むクスダ・シラを次々と迎撃する。そこには、先程エミリオを案内したシートの姿もあった。鉄パイプを鮮やかに振るい、ときには味方を助けながら、敵を確実に仕留めていく。
その最中、シートは視界の端でそれを捉えた。
「!」
その少女は、いつもパンを焼いてはシートに食べさせてくれるアリサだった。気を失いぐったりとしている彼女を、クスダ・シラは抱えるようにして連れ去ろうとしていた。
「アリサ!」
目の前の魔物を退けるようにして薙ぎ倒し、シートはアリサを追う。細かい路地を通り、ときには壁に出来た亀裂の間を潜り抜けた。その間、別のクスダ・シラが幾度も行く手を阻み、なかなかアリサに近づけなかった。
そうしてついに辿り着いた場所は、
「やっと来たね」
エミリオの居る、レーシィの巣だった。
「エミリオ! どうしてここに」
驚きを隠さず、ボリュームを落とした声でシートが叫ぶ。
「まあ、その説明は後。急いでこれを」
「……これって」
エミリオに手渡された物を見て、シートは顔を引きつらせる。その横ではオーリャが複雑な顔をして立っていた。
「あの中ね」
ミチエーリの森の中、クスダ・シラの大群が次々と岩の隙間に入っていくのを見ながら、シスカは呟いた。
「さて、どうするか」
考え込んだラルフに、
「私達に、やらせていただけませんか?」
背後からの声はそう言った。それは聞き慣れた声で、
「エイミー!」
振り返ったシスカが声を上げる。そこには病院に居たはずの級友の姿があった。頬にはガーゼが当てられてはいるが、その目は病院に居たときとは違い、力強い光が確かに宿っていた。
「まだ安静にしてなきゃ駄目よ。ここはあたし達が……」
「もう、大丈夫。足を引っ張ってばかりいられないし」
心配するシスカを制し、エイミーは微笑んで言った。
「心強いが、何か手はあるのか?」
訊いたラルフに頷きで返す。
「ヒーロ、やって!」
「了解だわよ!」
水色をした猫の魔獣が駆け出した。同時に空中に発現させた氷塊を、瞬時に全長数メートル程の巨大な三日月形へと成長させる。そして、一閃。放たれた氷の鎌は、あっという間に大勢のクスダ・シラの胴体を上下に分断した。
「……流石だな、次期当主」
見ていたラルフがぼそりと言い、
「成長が早いのよね。失敗をバネにするタイプ」
シスカがそれに応えた。
「もう一丁!」
ヒーロの声と同時に、今度は同じものを岩の隙間へと投じる。
「今よ!」
エイミーが叫び、駆け出す。シスカとラルフ達もそれに続いた。
岩の間を抜けると、そこは暗く長い廊下になっていた。意図的に掘り、固められた壁。同じようにして均された地面には、先程のヒーロの一撃に倒れた無数のクスダ・シラが横たわっていた。その通路を暫く進むと、視線の先にオレンジ色の光が見えた。
「奥に明かりが見えるわね」
先頭を走るヒーロが言う。明かりは時折微かな風に揺らめき、それが松明の炎であることを示していた。突き当たりは丁字路になっており、そこから左右に道は走る。
シスカ達が丁字路の傍まで来たときのことだった。真っ先に気付いたメーセが、
「来るぜ。二体。人間を連れてる」
短く、静かに告げた。松明によって地面に落とされる長い影が近付き、シスカ達は息を潜める。やがて二体のクスダ・シラが、少女と思わしき二人の人間を連れて丁字路へと現れた。二人は頭から膝辺りにかけて大きな布を被せられていたため、俯くその表情は見えず、布の下から覗くスカートの裾は覚束ない足取りに合わせて揺れていた。
「メーセ、いける?」
主人に訊かれた狼が、
「問題ねえ。奴らに連れられてる二人、任せたからな」
そう答えるが早いか、四つ足で瞬時に距離を詰める。シスカも走り出し、連れられている少女の保護へと向かう。
それは、刹那だった。メーセが一体のクスダ・シラの喉許へと噛み付き、続けて二体目へと飛び掛かる。シスカは捕らわれていた一人を抱き寄せながら、もう一人の手を引こうとするが、
「――!」
差し出されたシスカの手が空を切る。枯れ枝のような魔物の指が少女の肩に食い込み、掴んでいた。そしてそのまま、メーセの牙の前へと差し出される。
「くそっ!」
一部始終を見ていたラルフが吐き捨て、エイミーも思わず身を乗り出した。誰の動きも間に合わなかった。メーセの牙は少女へと迫る。メーセは、右腕で自らを庇う少女を眼前に勢いを殺せず、そのまま牙は細い腕へと触れる。そして、
「痛いなあ。相変わらず躾がなってないね」
被された布の奥から、少年の憎まれ口が聞こえた。直後、その腕を大きく振り抜き、飛ばされたメーセは一度壁を蹴って土の地面へと降り立つ。
困惑する一同。その中でただ一人動きを見せたのは、シスカに抱えられるようにして立っていた少女だった。額の右側を指でそっと撫で、駆け出した。駆けながら、背中に隠していた鉄パイプをするりと取り出し、目の前の魔物へ向けて振り下ろす。
「せいっ!」
それもやはり、少年の声色だった。勢い良く背中に当たった鋼鉄のパイプに、クスダ・シラはバランスを奪われる。その隙にもう一人がワンピースのポケットから札を取り出すと、よろめく相手にその札を突き付けた。
「破っ!」
札士の短い声と共に、クスダ・シラは青い炎に包まれた。そしてその灰が地面に舞い落ちる間に、被されていた布と共にワンピースを脱ぎ去る。先程メーセが噛み付いた位置に貼られていた防護用の札を剥がし、
「随分と遅いご到着だね」
無表情で、エミリオ・コルネットが息を吐いた。