こうして俺は旅立った
清水製薬。
俺、葉山 大人が勤める栄養ドリンクをメイン商品とする会社である。
入社するまで存在すら知らなかったが、右肩上がりの成長を続ける優良企業だ。
大学を卒業して、俺が就職したのは旅行代理店。だが不景気を理由に入社から1年で呆気なくクビになり、たまたま募集の出ていた清水製薬の中途採用に引っかった。
おそらく募集要項にあった『簡単なスペイン語が話せる方』という条件がなければ、俺は受からなかっただろう。
スペイン語を話せる日本人は少ない。
……いや、多分少ない。
世界的にはメジャーな言語だが、日本ではスペイン語より英語である。発音は日本語に似ているのに人気がないのは、文法が難しいからだろう。
俺だって、親父の妹が結婚したスペイン人の姪っ子が、何故か2年も我が家にホームステイに来たという特殊な幼少期を送っていなければ、勉強しようとは思わなかっただろう。……実らなかった俺の初恋だ。
ホームステイが終わってから会ってはいないが、彼女は元気だろうか?
日常会話程度のスペイン語を話せるのは、まぁ、その時の……もしかしたらとの下心のおかげだ。
人生何が役に立つかは分からないものだと実感している。
畑違いの業種に飛び込んだ素人同然の俺だが、そこは優良企業。入社直後に長い社内研修が組み込まれていた。
……違和感だらけの研修ではあるが。
接客マニュアル、自社製品の暗記は分かる。
しかし、マッチョでミリタリースタイルの外人が教える護身術や、占い師風な老婆の宝石鑑定知識は、必要なのだろうか? 読唇術や水平思考、柔軟的思考力など俺にスパイでも目指せというのだろうか?
それに中途採用とはいえ過酷な研修を受けるのが俺一人だった時点で、ブラックな匂いをプンプンと漂わせていた。
とはいえ、逃げ出さない理由はちゃんとある。
俺の教育係でスレンダー眼鏡美女の小柳さん。
おそらくは俺の少し歳上、20代半ば過ぎに見える彼女は、膝丈スリット入りの黒スーツからしなやかな足をのぞかせ、耳元で優しく囁くのだ。
「頑張ってね」と。
耳の後ろでまとめられたシニヨンヘアに、眼鏡の奥にある切れ長の目。
通った鼻筋の下、薄い唇から「ふぅっ」と首元に息を吹きかけられたら「頑張ります!」以外の返事をすることは難しい。
さらに研修が終わると主任からのスタートだという甘言が追加されれば、辞めるという選択肢は頭に浮かばなかった。
3ヶ月にも及ぶ社内研修が終わると、俺は営業部に配属された。
小柳さんと離れ離れになるのは血の涙が出そうなほど悲しかったが、勤めるのは同じ会社。接点がなくなったわけではないと自分に言い聞かせたものだ。
こうして始まった新たな生活は、「あの研修はなんだったんだ?」と、思ってしまう平和なものだった。
既に栄養ドリンクを置いて貰っている店の訪問や、新規開拓の営業回り。
しかも営業職なのに、ノルマなし、残業なし、休日出勤なしの夢のような日々。
俺は恵まれた会社に入ったものだと、自分の運に感謝しだした頃、どこまでが額か判別の難しいバーコードな部長が、和かな笑顔で話しかけてきた。
「葉山君、パスポートは持ってるよね?」
「えぇ、一応前職は旅行代理店でしたし、まだ期限は8年ほど残ってますよ。って何かパスポートが必要なんですか?」
「んっ? あぁ、まぁ、うちの会社の社員旅行は基本海外だからね。確認だよ。それに葉山君はスペイン語が話せるんだろ? 君が居れば海外旅行も安心だね」
それだけの会話を終えると、手をヒラヒラとさせて席に戻る部長。
——社内旅行か。
旅行代理店に勤めていた時は国内ばかりだったし、あくまでもてなす側。
客ではない視点は面白くもあったが、やはり旅行はなんの重圧も無しに行きたいものだ。
もしかしたら小柳さんと「きゃっきゃうふふ」な旅行になったらどうしようと、浮かれた気持ちになった翌日。
俺に辞令が下りた。
※※※※
営業部 葉山 大人殿
令和2年8月20日付をもって営業部主任の任を解き、同日付けでアリカ・イ・パリナコータ支店長を命ずる。
※※※※
初めて会った、まだ30代半ばに見える若社長から受け取った辞令に、固まってしまったのは仕方ないだろう
普通なら前もって知らされるよね?
アリカ・イ・パリナコータってどこ?
俺って入社4ヶ月(うち研修3ヶ月)だよね?
支店長って何?
ツッコミどころが満載だ。
さすがに断ろうと口を開こうとすると、白い歯をキラリとさせた若社長が全てをひっくり返す言葉を発した。
「小柳くんと2人、頑張ってきてくれたまえ」
「——はい!」
なぜ2つ返事したのかは聞かないで欲しい。
男にはそれが罠だと分かっていても進まなければならない道があるのだ。
社長室を出て営業部に戻ると、すでに俺の異動は伝わっており、「栄転だね!」「よっ、出世頭!」「その若さで支店長か」などと囃し立てられた。
その日のうちに盛大な送別会が開かれ、現地に飛ぶのは1週間後。
おそろしく早い展開だが、下心で鼻の下が伸びきっていた俺に疑いの心が付け入る隙はなかった。
一応「アリカ・イ・パリナコータ」は調べたが、南米チリの最北部の州だ。
港湾都市で人口は20万人ほど。
赤道近くとあって、年間を通して暖かい。
当然俺の脳内には、ビーチで小柳さんときゃっきゃうふふと砂浜を駆ける映像が流れている。
チリの母国語はスペイン語なので、言葉も問題ないだろう。
俺は荷造りに取りかかったのだが、実のところあまり持っていくものはない。
社長の話によれば半年ほどの短期出張みたいなものらしいし、その間の生活必需品は向こうに用意してあるそうだ。
今の家の家賃も会社がそのまま払ってくれるので、腐るようなもの以外はこのまま放置だ。必要な衣類などの必要最小限のものを詰め込んで見れば、トランク一つで余裕だった。
もう少し現地での仕事の詳細を聞きたいところだが、なんでも現地に着くまでの間に教えてくれるらしい。教師役の小柳さんを想像しながら俺はだらしない笑みを浮かべていた。
そんなこんなで瞬く間に時間は過ぎ、出発の日を迎える。
——で、これなに?
いや、薄々分かっちゃいたんだ。
指定された集合場所が空港じゃなくて聞いたことのない港だったから。
アリカ・イ・パリナコータも港湾都市だしね。
「——ってなるかぁ!」
目の前に見える漁船っぽい船に、ありったけの叫びをぶつけてみた。
なんだよ清水丸って!
会社の持ち船か!?
ここ日本からチリまでの約17000キロを、全長15メートル程の塗装がハゲかけた船で行けると思ってるのか!?
俺が憤慨していると、船からのっそりと厳つい男が姿を現す。
ミニチュア・シュナウザーを彷彿させる立派な長い眉毛に、三つ編みが出来そうな長い髭。
はちきれんばかりのTシャツには、くっきりと筋肉の形が浮かび上がっている。
「アンタが葉山だな? 乗れ」
男は背後の船に向かって親指を向けるが、乗りたくねぇーし!
とはいっても、周りに俺以外の人がいないので、人違いですとは言えない。
あっ、なんか無性にお腹が痛くなってきた気がするので、ここはトイレと言って逃げるとしよう。
一歩足を後ろに踏み出し、回れ右したその時だ。
「あら、葉山くん。もう来てたのね」
「えっ、あっ、はい!」
そこにいたのは小柳さん。
これから南米に向かうとはいえ、長くしなやかな足をむき出しにしたホットパンツにおへそが見え隠れするキャミソール。
会社とは打って変わったラフな姿に、俺はそのままゴクリと唾を飲み込んだ。
もう俺の頭に逃げるなんて言葉があるはずもない。
ただただ、視線のやり場に困る。
俺は彼女の臀部に視線を落としながら船に乗り込んだ。
急な階段を降り、6畳程の天井の低い部屋に入ると、小柳さんは片隅に置かれていた荷物を広げ出した。
紙の束に、マニュアルのような冊子。真っ黒で少し厚みのある20センチ程の正方形をした物体。
「基本的なことはここに書いてあるから、現地に着くまでに目を通しておいてね。それからあっちは携帯は使えないからこれを使って連絡をとるの。その使い方も書いてあるからね」
携帯が使えない?
まぁ、海外だとそんなところもあるか。
小柳さんが指さした黒い物体は、何かハイテク機械なのだろう。
それよりも彼女がかがむたびにチラと胸元が見えるのだが、下着の存在が確認出来ない。ニップレスなのか、ヌーブラなのか、ノーブラなのか。そちらの方が重大な案件だ。
現地までどのくらいかかるかは分からないが、到着までに解決したいものだ。
脳内で妄想を膨らませる俺を残して、簡単すぎる説明を終えた小柳さんは甲板に出て行ってしまう。
いまだ船は動いていないので、あの男に出発の旨を伝えにいったのだろう。
俺も階段を上って外に出たのだが、予想だにしない光景に目を見開いた。
——あれ?
小柳さんが下船している。
何か忘れ物だろうか?
男がアーカイブスからロープを取り外しているのだから、早く乗り込まないといけないと思うのだが。
——あれ?
船にエンジンがかかりましたよ?
いや、なに手を振ってるんですか小柳さん?
ほら、進み出しましたよ?
ようやく全てを察した俺が船から発着場にジャンプしようとした時だ。
「シュナウザー!」
初めて聞く小柳さんの大声。
そして「やれ」と唇を動かした。
突然口元に布切れを当てられると、アルコール臭のようなツンとした臭いが鼻に充満する。
なんとか逃れようと抵抗したが俺の体は取り押さえられている。
そして却って呼吸が大きくなり、何度か吸い込んだ後、俺は意識を失った。
おまけ
葉山にバーコードな部長が話しかけてきた。
「葉山くんは休日は何をしてるんだい?」
「俺ですか? そうですね、やりたい事やってます」
「何!? やりたい娘とやってるのか!? ず、随分と行動的だな」
「友達にもよく言われます」
その後営業部の女性は葉山と距離を取るようになったそうな。