事故物件の日常
セットした覚えのない目覚ましの音。
良い夢を見ていたのに、耳障りな音に夢はいきなりエンドロールに入って、現実という新しい扉を開いた。
枕元にあったスマホの目覚ましをオフにする。
窓から差し込む光が眩しくて、私は手を伸ばしてカーテンを引いた。
キッチンからは何かを刻む音が聞こえてくる。覚醒してきた意識はみその匂いを見つけて、朝ご飯が作られている気配を察知する。
寝ぼけ眼のまま起きて、パジャマを着替えて、食卓に腰を降ろす。
1人分の日本人らしい朝ご飯。ご飯にみそ汁、卵焼き。
キッチンを見れば、そこはもう綺麗さっぱり片付いている。
まるで家政婦でも雇った気にはなるけれど、そんなものを雇った覚えはないし、ワンルームに住む私は一人暮らしだ。
「あったけぇ……」
出来立ての味噌汁にありつき、愛情を感じる優しい味が朝の口に染みる。
◆ ◆ ◆
「なんだか最近綺麗になった気がする。恋でもした?」
職場の喫煙所にて、そんな声をかけられる。
独身貴族である同僚はニヤニヤしながら紫煙を顔に吹き付けた。
メンソールの煙を手で払いながら、そんな覚えはないと顔を横に振る。
「先越されたかと思った」
「なわけないじゃん。どこに出会いがあるっての」
「確かに。最近街コンもいいのいないしね」
「でしょう?」
「でもさ、最近シャツはちゃんとアイロンかけられてるし、スカートもジャケットも埃一つなくない?」
「あぁ……」
同僚の質問に対する答えが見つけられなくて、吸い込んだ煙をぼんやりとした無意識な空間に吐き出す。
最期にクリーニングに行ったのはいつだっただろうか。
家にある衣類は独り暮らしだというのに、いつの間にか全てが綺麗に整えられている。
一瞬、ストーカーにでも遭っているのかと思いはしたが、そんな出遭いはなかったし、室内に勝手に干されている下着を見て、そんなことはないのだろうと予想した。
「じゃぁ、どうして?」
「さぁね」
見つけられない答え。質問を帰す代わりに、私は口紅の残るタバコを灰皿に落とした。
◆ ◆ ◆
もうすっかり闇の落ちた道を歩きながら、自宅であるワンルームを見た。
消してきたはずの灯りはついていて、近くまでくれば機嫌良さそうな鼻歌と、耳に残る優しく繊細なピアノの音まで聞こえてくる。
当然、狭いワンルームにピアノを置いた覚えはないし、同居人などいない。
「ただいま」
「おかえりさない」
返事が聞こえて、室内を見てみるもやっぱり人の姿なんてない。
それでも、誰かがいた痕跡はあって、テーブルには夕食が用意してあるし、風呂を見れば湯気があがっている。
そして部屋の中を見回しても、やっぱりピアノも美しい声もない。
疲れたスーツを脱ぎ散らかして、夕食にありつき、コンビニで買った発泡酒で流し込む。
食後にタバコを吸えば、わざとらしい咳き込みがどこからか聞こえる。
「私の部屋なんだから、タバコ吸ってもいいでしょう?」
返事はない。だが、代わりに換気扇が勝手に作動する。
くたびれた身体を湯舟に沈めた。
目を閉じて一日の疲れを癒していると、部屋のほうからまた音が聞こえる。
食器を洗う音、誰かが歩く足音、機嫌良さそうな鼻歌。
さらにはキャンキャンと吠える犬の声まで聞こえた。
犬の鳴き声にここはペット可のマンションだったかと考えてみるが、どうせ無駄な考えだと思考を停止させた。
風呂からあがれば、やっぱり犬なんていないからだ。
脱ぎ散らかしたスーツはハンガーにかけられていて、ベッドはいつでも心地よく寝られるように上品にメイクされている。
二本目の発泡酒を開けて、スマホで動画をみながら、眠るまでの残り時間を消費する。
まだ冷めていない浴室からは、誰かが入浴している水の音がする。
いつもの鼻歌が響いてくると、徐々に眠りが降り注いでくるような気がした。
部屋の灯りを消して、ベッドに入る。
明かり一つない部屋は、もう何にも音がしないのに、私以外の気配がする。
「にゃぁん」
甘えるような猫の鳴き声がして、かけ布団に重さを感じる。
勿論猫なんて飼っていない。それでも、掛布団の上には小さな重みと暖かさを感じる。
重さの次は、私のすぐ後ろで小さな寝息が聞こえてくる。
独り用のベッドに二人寝るには狭いし、そもそも私の背のすぐ向こうは壁である。
私よりも先に寝やがって、なんて考えて。私も同じように寝息をたてていく。
◆ ◆ ◆
またセットした覚えのない目覚ましが夢を終わらせる。
契約した覚えのない新聞がテーブルに置かれていて、朝食の支度はすんでいて、スーツはクリーニングに出したように綺麗にしあがっている。
トイレにいって用を足していれば、扉の向こうに猫と犬の遊び回っているような、走る足音。
今日も機嫌良さそうな鼻歌が聞こえてくる。
でも、トイレの扉を開けば、いずれの音たちもぱったりと止む。
朝食を胃に収め、仕上がったスーツに袖を通し、今日もまた会社へと向かう。
パンプスを履きながら、背に気配を感じる。
これは私の想像でしかないが、綺麗な若い女の人が左右に犬と猫を座らせて、私を見送っている気がする。
「いつも、ありがとう」
背後の気配に告げて、私は家を出た。
会社に近くて、格安の賃貸に住みたい。そんな願いから、私は事故物件に住んでいた。
玄関から出て、一度家のほうを振り返れば、いつもよりも明るく澄んだ美しい鼻歌がご機嫌だ。
私以外誰もいないはずの家に向かって、手を振る。
自分でも理解できない行動に、何をしているんだろうと、前を向く。
「いってらっしゃい! 気を付けてね!」
背に言葉を受け取って、私は駅へと向かう。
この日常はいつまで続くのだろう。そんな思いが過る。
そうだ、今日は帰りに二人分のケーキでも買っていってやろう。