岩村城の戦い(二)
元亀四年(一五七三)四月。
いみじくもその遺言の冒頭に語ったように、自らが三遠東濃に巻き起こした戦乱を終熄させることなく、信玄はいよいよ臨終のときを迎えようとしていた。
枕頭に集う勝頼以下群臣に、武田家として当面採るべき政策を言い遺したあと、信玄はひとり居残った勝頼に対して申継をおこなっている。即ち、譜代宿老一人ひとりについての、性質や遣いようについて遺言を遺そうとしたのであった。しかし勝頼にとってこのときの申継は、あまり意味のないものであった。何故ならば、譜代宿老は基本的にはみな、信玄の命令とあれば一命を擲つことも厭わず任務達成に邁進するということを、勝頼自身よく知っていたからであった。問題は勝頼に代替わりしたあとに、彼等が自分に対しどういった態度を取るかという点にこそあるのであって、信玄が彼等をどのように見做し、これまでどう扱ってきたか、ということはこの際勝頼にとってはどうでも良いことであった。
そう、ただひとりを除いては。
勝頼は、口中に出来たくさ(口内炎か)により一度に歯が五六本も抜けてしまい、すっかり聞き取りづらくなった父の申継に、神妙な表情を作りながら耳を傾けていた。
「虎繁には気を付けよ。油断するな」
息も絶え絶えに、信玄は確かにそう言った。
あれの考え方は古い。昔の侍の考え方だ。主君の統制に是々非々で従い、命令に内包されるちょっとした齟齬や間隙を利用して、己が野心を満たそうと試みる油断ならざる人物である。だから気を付けよ。
それは、
「誰某はよく働き場中に身を投じることも厭わぬ」
であるとか、
「奥向きのことは誰某に聞けば万事困ることはない」
といった、他の者に関わる当たり障りのない申継とは明らかに性質を異にする内容であった。信玄による異質な申継は、勝頼の印象に深く残るものであった。
その油断ならざる人物、穐山伯耆守の籠もる美濃岩村城が、六月十三日までに織田信忠率いる濃尾の兵により包囲された。
無論、長篠戦勝の勢いを駆った上での岩村城包囲である。翻って武田家では、長篠敗戦における戦死者多数、生じた戦力の空白を埋めるべく勝頼が依然必死の手当をおこなっていた時節であって、しかも遠州方面でも敵方の反攻がおこなわれていたために、岩村城に後詰を送り込む余力など到底なかった。
岩村城は、美濃国恵奈郡岩村に所在する梯郭式山城である。海抜七百メートル超という高地に位置しており、霧が多発することから別に「霧ヶ城」のも称された。
通称「六段壁」と称される美しい石垣や、本丸の北側に位置する二の丸、本丸二の丸の西側に位置する三の丸といった構造が、戦国期の岩村城に由来するものか、近世になって成立した岩村藩庁としての岩村城の構造かは判然としない。ただはっきり言えることは、現代の我々が岩村城と聞いて想像するあの美しい石垣は、切込はぎ或いは打込はぎといった近世以降に確立した石垣の組み方であるという点である。あの石垣が、戦国期から存在した遺構ではないということは言えるだろう。
ともあれ石垣の成立時期云々に関係なく、かかる山岳地帯に立地する山城が極めて防備性に優れ、攻めるに固く守るに易い城であったことは言うまでもなかろう。
穐山伯耆守は、雲霞の如く攻め寄せた濃尾の兵を眼下に見下ろしていた。敵は水晶山に布陣する織田信忠を大将に、河尻秀隆、毛利河内守、浅野左近等が、二万の大軍で岩村城を攻め囲んでいる。
敵兵を見下ろしながら虎繁はこれまで武田家に仕えて戦陣を駆け巡ってきた日々を思い返していた。思えば虎繁にとって、武田家により配属されてきた支配地域は統治の困難な伊那という地域であった。支配地域に組み入れたばかりで腹背常なく、あまつさえ高遠諏方頼継に謀叛の嫌疑が掛けられ動揺甚だしかった上伊那に配属された虎繁は、その事件の直後に下伊那郡における知久頼元謀叛という凶事に見舞われている。いま、長篠敗戦という新事態に接し、下伊那郡の坂西一族が謀叛を企て誅殺された事件は先述したとおりである。敵方と接する伊那という地域は、とかく統治の難しいところであった。
それでも奥三河が武田の支配下にあり、南側が安定しておるというのであれば安心して織田家と対峙できるというものであるが、既に奥三河は失陥、岩村城は西の織田家、南の徳川家からの圧迫に曝され、かかる危機を切り抜けようと思えば北の木曾家、そして下伊那経由で武田家の後詰を求めるより他にない状況であった。
虎繁は城を取り囲む敵の大軍を一瞥して、本丸に置かれた屋敷へと入り、奥へと向かった。
「何も心配することはない。きっとわしが敵方を追い払ってやる」
虎繁の言葉を聞いても、おつやの方はただ黙って座しているだけである。
「もし城が落ちるということになっても、そなただけは助かるよう差配する。誓ってそうするよってに、そう恐い顔をしてくれるな」
虎繁はおつやの方の機嫌を伺うように言った。
「そのお気遣いは無用です」
おつやの方はくすりともせず言ってのけ、続けた。
「あの男に降るのはまっぴら御免なのですから」
おつやの方が言うあの男というのが、織田信長を指しているということを虎繁は疑わなかった。
おつやの方は信長の祖父信定娘として天文六年(一五三七)頃に生まれている。天文三年(一五三四)生まれの信長にとっては年下の叔母ということになる。おつやの方が信定の側腹だったことは間違いがなく、惣領信長にとっては格下の一門として扱いやすい存在だったのであろう。一度目は齋藤龍興重臣日比野下野守の許に嫁ぎ、これが戦死すると今度は信長の家臣、その後更に岩村遠山家の遠山景任の許に輿入れしている。いずれも信長の命令によるものであった。
戦国の世の倣いとはいえ、こうもあからさまに政略結婚の道具として扱われ続ければ、おつやの方でなくとも思うところがあって当然である。
三年前、武田の軍兵が岩村城下に雪崩れ込んできたときから、おつやの方は信長との決別を決意していた。なんといってもあの男は、自分を鉢植えのように様々な家に嫁がせた挙げ句、御坊丸を後見するために拠っていた岩村城に後詰を寄越すこともなくこれを放置して、武田の劫掠するに任せたのである。遠山家の人々を危険に曝してまで、信長などに義理立てする謂われはなかった。
予想外だったのは、御坊丸に従って我が身も甲斐府中へと送られることになるだろうと考えていたところ、あろうことか敵将穐山伯耆守から結婚を求められるという事態に見舞われたことであった。その成否は、まったくおつやの方自身のこたえひとつにかかっていた。おつやの方が肯んずれば成立する話であったし、断ってしまえばそれまでの話であった。
おつやの方は目の眩む思いであった。今更乙女のような恋心にのぼせ上がったわけではない。これまで他人に支配され続けてきた自分の人生に、思わぬ形で選択の権利が付与されたからであった。
(自分も、自分の人生について何ごとかを選ぶことが出来るのだ)
目眩の次に襲いかかってきたのは、感動による体の震えであった。おつやの方は自らの選択の末に何か形のあるものを残したいと思った。虎繁からの申出を断ることは簡単だったが、自らの人生に関わる選択の権利を行使した結果、そのあとに何も残らないというのはおつやの方にとって堪え難いことのように思われた。
「御坊丸と遠山衆の助命」
おつやの方はそれらしい理由を付けて、虎繁との婚姻を了承した。無論、自らの決断の末に、虎繁との結婚という形を残しておきたいと考えたからであった。こうしておつやの方と虎繁の婚姻は成立した。
虎繁はおつやの方に細やかな愛情を示した。もとより虎繁に愛情を抱いて婚姻を了承したわけではなかったおつやの方であったが、この時代の婚姻など、それが当たり前であった。妻の側は、夫の側から示されるそれに応じて愛情を抱くのが当たり前の時代だったのである。虎繁がおつやの方に対して示した愛情は、彼女に
「自分の選択は間違いではなかった」
と思わせるに十分であった。
そのおつやの方が今更信長の軍門に降ることを了承しないことは、当然のことであった。