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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第三章 長篠の戦い
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長篠の戦い(十一)

ずいぶんと引っ張りましたがいよいよ本戦が始まります。

 才ノ神に布陣した勝頼は、改めて敵の布陣を見渡していた。連吾川右岸に土塁を構築し、尺木を何重にも組んで柵をしつらえている様が、遠目に見えた。

(敵はてだてなく逼塞するばかりだ)

 勝頼は敵陣を眺めて、改めてそのように考えた。

 もし自分が敵方に対し三倍の兵力を擁しているというのなら、先遣を押し進めさせた十八日の時点でそのまま全軍を戦域に投入し、多少の犠牲も覚悟の上で決戦を挑むことが常識であろうと考えられたためであった。しかし信長は先遣の三隊を押し進めさせたあと、これを早々に連吾川の線まで引っ込めてしまい、以来陣城の構築に躍起になっている。

(織田或いは徳川の内部に、決戦を忌避したい勢力があるのでは)

 勝頼は圧倒的な兵力を有する敵方が、却って陣城に逼塞する様を見てそのように疑った。

 勝頼のこの見立ては彼の独善的な見方では決してなかった。そもそもこのたびの戦役自体が、徳川家中の内紛に端を発するものだったことを思い出して欲しい。その後の甲軍の快進撃を前にして、足助城周辺の諸城が戦いもせず続々と自落したり、信長本隊に先立って三河に入った佐久間信盛が長沢で足を止めた経過を見渡しても分かるように、織田徳川は決して一枚岩ではなかった。

 敵方に対し寡兵ではあるが、それは現時点でのことであり、押し寄せてひと揉みすれば、武田に転じるとまではいかないにせよ、恐怖に駆られて戦域を離脱する者が多数出現するのでないかと勝頼は考えた。もしそうなれば恐怖は敵前軍に伝播して、敵方は雪崩を打って崩壊するだろう。

 勝頼は改めて敵の陣立てを眺めた。

 南(右翼)から織田信長麾下佐久間信盛が、与力たる水野信元と共に最右翼に位置している。これは、その北側の高松山に本陣を構える徳川一党を、南方側面攻撃から護衛するための布陣と思われた。甲軍が前面に押し立てられた陣城の側方に回り込んでくることを、信長が警戒している証拠であった。

 その徳川は、前述のとおり高松山に家康信康父子が本営を構え、右翼から順に大久保七郎右衛門尉忠世及び治右衛門尉忠佐(ただすけ)兄弟、大須賀五郎左衛門尉康高、榊原康政、本多平八郎忠勝、石川伯耆守数正という布陣で、甲軍の攻撃を心静かに待ち構える。

 信長は徳川の右翼に佐久間及び水野の両者を配したのみならず、更にその左翼に滝川一益を置いて、両側から挟み込んで徳川一党を支えている。

 勝頼はこの光景を一望して、

(敵が最も手厚く布陣している箇所こそ、弱点である)

 と看破した。

 事実信長は、寡兵だった徳川の陣営が破られ、そこから敵が侵入してくることを警戒していた。

 信長はこのように徳川を両方向から支援したが、なおも不安だったのか、本陣を高松山のすぐ北隣の弾正山に置いている。徳川陣営で異変が発生すれば、その目で直接異変を確認出来る位置に布陣したわけである。徳川の前衛部隊は、当主家康のみならず信長による監督に曝されることにもなった。

 もしかしたら信長は、この合戦中、本当に徳川家中から逃げ出す者や裏切り者が出てくることを警戒していたのかもしれない。多分に穿った見方ではあるが、両側から徳川を挟み込んだり、家康本陣の隣に自らの本陣を横付けするなどの措置は、同盟国に対する支援という枠を越えて、厳重であること甚だしいように思われるのだ。

 繰り返すがこの戦いは飽くまで武田と徳川の戦いであった。主として武田と戦うべき義務を負っているのは徳川家康なのであって、信長は支援の立場でしかない。動員兵力などの点から、織田家が主力だったというのが実態だったとはいえ、もしこの合戦で史実と異なり徳川の部隊が甲軍の攻勢に堪えきれず崩壊していたとしたら、それでも織田家は長篠城を救援するために最後まで戦場に踏み止まって戦闘を継続しただろうか。私には到底そうは思えない。支援の目的を失った信長は退くことを選んだだろう。いや、もっと正確にいうならば、信長自身が戦闘継続を望んだとしても、麾下将兵の士気が阻喪していくさにならず、否応なく退却を選ばざるを得ない事態に立ち至ったことだろう。そうなれば徳川陣営の崩壊による恐慌は織田陣営にも伝播し、全軍が崩壊しただろう。信長はかかる事態を恐れて、徳川陣営に厳重なる支援と監視を加えたのではなかろうか。

 余談が過ぎたが、そのようなことを想起させる布陣ではある。

 

 さて織田の布陣は更に北へと続く。

 弾正山にある信長本陣の前衛を務めるのは、羽柴筑前守秀吉、前田又左衛門尉利家、塙九郎左衛門尉直政、丹羽長秀、佐々内蔵助成政、野々村三十郎、福富ふくづみ平左衛門尉秀勝等の鉄炮奉行であって、最左翼を固めたのは嫡男信忠率いる濃尾の衆であった。

 敵の布陣、殊に弾正山上に構える信長本営を目の前に置いた勝頼は胸の内奥に、昂奮したときに覚える特有のねつを感じた。いま、自身の目の前には信長が間違いなく在陣しているのだ。雲霞の如き様相を呈しながら押し寄せた、万を越える武者の中に、信長は確かに在陣しているのである。敵が設えた陣城を打ち壊し、こういった人々を押し分け討ち入って、その頸を高々と掲げることにさえ成功すれば、あの父――死んでなお、閨閥の領袖として家中に君臨する怪人信玄を超えて、自分は名実共に、武田家の当主となることが出来るのである。そうなれば、強いて求めなくとも、上洛への途は自ずと拓かれることになるであろうと勝頼には思われた。

 昨日まで降り続いていた雨は未明までにやんでいた。設楽ヶ原は雨をいっぱいに吸い、諸人に踏まれる大地はすぐにぬかるみにかわるであろうが、取り揃えた鉄炮を敵に向かって撃つには恰好の晴天である。

 勝頼は、主たる攻撃目標である徳川陣営に向けて物見三騎を放った。物見は徳川陣営を舐め回すように陣立てを窺う。徳川陣営からはこれを追い払おうと、内藤甚五左衛門以下二騎が柵外に打って出て、騎射しながら甲軍の物見を逐ったという。これは開戦に先立つ挨拶代わりの風景であり、遂にこの日、天正三年(一五七五)五月二十一日卯の正刻頃(午前六時頃)、両軍の間で戦端が開かれた。

 甲軍一番手、内藤修理亮昌秀率いる西上野先方衆が鼓鉦を鳴らしながら歩速を合わせ、一斉に押し出しはじめた。連吾川の向こう岸、土塁と木柵の手前に、徳川兵の姿が見える。内藤隊が接近することにより両者の距離は次第に縮まっていったが、徳川勢は連吾川を越えることがない。敵との距離が三十間(約五十八メートル)ほどにも近づくと、両者の間で激しく弓鉄炮の掛け合いが開始された。敵陣との距離十五間(約二十九メートル)までにも縮んだところで、内藤隊からやにわに鬨の声が上がった。場中ばなかを一気に駆け抜け、敵陣に乗り掛かるためであった。甲軍の鉄炮衆がこれを支援するため敵陣に向け懸命の射撃を繰り返す。

 徳川の兵は迫る甲軍に恐れをなしたか、それまで背にしていた土塁や柵の奥に身を翻した。

 徳川の陣城に迫った内藤隊が、長篠攻城戦にも使用した鈎縄を木柵に投げつけた。上手く絡まった鈎縄によって柵を引き倒そうとしたそのときである。

 土塁の向こう側から銃口が多数覗いたかと思うと、これらが一斉に火を噴いた。鈎縄で柵を引き倒そうと試みた甲軍の一は無論容赦なく撃ち殺されたが、次弾装塡の間隙を衝くべく後続の兵はなおも押し寄せた。

 通常であれば戦いが本格化するのはこれからであった。双方が打物うちものを構えて肉弾戦を展開するのだ。今回も無論そのつもりで内藤隊は敵陣へと押し寄せる。

 しかし、今日このときのいくさといったらどういうことであろう。

 陣城の向こう側に閉じ籠もったままの徳川兵は、打物戦などには目もくれず、土塁と木柵から再び銃口多数を覗かせて、押し寄せる内藤隊の人々に再度の斉射を加えたのであった。

 轟音が轟き、あたり一面に硝煙の臭いが充満する。内藤隊の侍の一は、反射的に頭を伏せて敵の斉射の難から逃れたが、耳鳴りがやんで聞こえてきたのは、先ほどまでの鬨の声が幻聴だったかのようにすら思われる、痛みに呻く諸衆の声。硝煙の臭いが風に流されたあとには、血生臭さがその場を支配していた。

 撃ち倒された内藤衆が血の海にのたうち回る様子を目にしながら、勝頼は再び前進の采配を振るった。無論、敵の陣城を食い破るためであった。

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